「石原さんとの私的思い出7」続:身捨つるほどの祖国はありや22
牛島信(弁護士・小説家・元検事)
【まとめ】
・石原さんが入院中の私を見舞ってくれたことがある。
・石原さんにとって裕次郎さんの思い出の溢れた場所の再訪。
・「酔狂」という言葉は、石原さんが私に繰り返し教えてくれた言葉。
石原さんが入院中の私を見舞ってくれたことがある。
2005年の2月初めだった。入院したのは2月の3日から7日までの5日間で、手術をしたのが4日の金曜日だったから、たぶんその直後の土日のどちらかだったのだろう。もっとも私には曜日の感覚はまったくなかったのだが。
場所は信濃町にある慶応病院の5階にある病室だった。私はそこで胆のうを取り去る手術を受けたのである。
突然の見舞いだった。見城さんといっしょだった。見城さんには予め入院の話をする機会があったのだろう。
それにしても、二人しての病室への直接の訪問だったから、事前に見城さんから問い合わせの電話があったとしか考えられない。未だガラケーの時代だった。その電話で、私が病室の番号を知らせたのだろうか。しかし、その電話までは石原さんが見えるという話は聞いていなかったから、見城さんの電話に私は少なからず驚いたはずだ。しかし、手術して間のない私は、ぼんやりしていたに違いない。
それにしてもどうして私をわざわざ都知事だった石原さんが見舞ってくれたのだろうか。私に一日も早く芥川賞をやりたい、だから早く治って、とにかくさっさと小説を書けよ、こっちは期待しているんだから、という激励だったということなのか。どうもわからない。
慶応病院での私の病室は、石原裕次郎の入院していたのと同じフロアだったようだ。私は、慶応病院への入院が決まった時、すぐにいっさいの世話をしてくれたM医師に、「裕次郎の入院した部屋にしてください。」と頼んだ。
しばらくして、M医師に「いや、あの部屋はふさがっているので、その下の部屋にする」と言われた。
どうも私は「下にする」と言われたので、うかつなことだが、最近まで裕次郎の入院した病室の一階下のフロアに入ったものと思い込んでいた。ところが、これを書くのでM医師に改めて確認してみると、同じフロアだということだった。「なに、裕次郎のいた部屋は同じフロアのすぐ近くだよ」と教えられたのだ。
だから、石原さんはその同じフロアにある病室に私を見舞ってくれたことになる。どんな思いだったろうか。
「新築したばかりの病棟の奥の部屋は表通りに面していて、大きな窓からの光量が多すぎるためにいつもベネッシャンのブラインドが下ろされていた」(『弟』幻冬舎文庫411頁)と記された部屋は、私の入院していた部屋のすぐ横だったことになる。
「仲間への義理を果たしてまたも飛ぶようにして病院に戻った。」(412頁)とも石原さんは書いている。
それにしても、まことにうかつ千万なことだが、私は今回石原さんが私の病気見舞いをしてくれたことを書き始めるまで、私のいた病室、石原さんが見舞ってくれた病室が、実は石原さんにとって人生の決定的な思いの凝縮した場所だったということにまったく気づかないでいた。なんということだろう。
私がその部屋に入院したのは、胆のうを取り去るための手術をする目的だった。
前年から胃の痛みがひどかったので、当時かかりつけだったT医師のところに行って相談して検査を受けた。すると肝臓のガンマGTPの値が極端に高いと深刻な顔をして言う。早速本格的な検査することになった。検査の結果は、胆石ができているといいうことだった。そう宣告されてみると、思いあたることばかりだった。美食と美酒、または暴飲暴食。だが、私は決して料理やお酒を愉しんでいたわけではない。私にしてみれば、仕事にからんでの止むを得ざる食事と酒だったのだ。現に、今の私は酒を飲まずおいしい食べ物を追わない。
胆石だけではなく、その胆石のできている胆のう全体を取り去るというT医師に、私は、「胆石を衝撃波で破壊してください。いまはそうするっていうじゃないですか」と反論した。するとT医師はこともなげに、「いや、胆のうごと取らなきゃならないんですよ。」と答える。私が、「いや胆石だけ取って貰えばいいんですから。よく、電波かなにかの焦点を身体のなかにできた石に当てて、そこで強い電圧とかをかけるとかして壊してしまうっていうじゃないですか。その方法がいいんじゃないですか」とたずねると、
「あ、それは違うんです。胆石ではそれはできないでですよ。その方法は尿管結石の場合で、胆石のときは胆のうごと取り去るのが当たり前なんです。」とのたまった。「はあ、そうなんですか」というしかなく、私は入院して胆のうを切除することとあいなったのである。
その時点ではT医師の親しい虎ノ門病院での手術を予定していた。予め、身勝手な睡眠のスケジュールで暮らしている我が身を振り返って、ぜひにと個室をと頼んであった。ところが、入院の直前になって、それも執刀医も優れた医師に決まった後になってから、突然個室がとれるかどうかわからないとT医師が言いだしたのだ。虎の門病院は国立なので個室の予約を予め確定するわけにはいかず、入院してから初めて個室だと決まるのだという話だった。
私は困ってしまった。当時55歳。それまでの人生で入院というものをしたことなど一度もなかった。毎日の夜の自分独りの時間は本人なりに掛替えのない大事な時間で、誰の、どんな制約をうけることもなく、眠くなるまで本を読んだり原稿を書いたりするのはもちろん、真夜中に目が醒めればベッドに横になったまま電気だけを点けてまた本を読んだり、気分によってはやおら起き上がって原稿を書き継いだりしてといった生活をしていたのだ。
そんな人間が、何人かが共同の病室に入ってしまっては、同室の患者さんたちに迷惑をかけるに決まっている。だから、私には個室以外の病室に入ることは想像することもできなかった。
個室とは限りませんと言われて私は困ってしまった。とにかく、虎の門病院への入院は延ばしてもらい、親しい友人のT氏に相談した。
その友人とは長い付き合いで、私の生活ぶりは良い点も悪い点もよく承知してくれている間柄だ。
私の話を聞いたT氏は、そいつは困った事態だねと大いに同情してくれ、とにかくM医師に会ってみろと親切にも私をM医師の西新宿のクリニックに同道のうえ紹介してくれた。友人のT氏は長い間、M医師のところに通っていてとても頼りになる先生だと言ってくれたのだ。
早速、M医師は、T氏の紹介もあって、私のような我が侭な病人の話をていねいに聞いてくれすぐに了解してくれた。
「わかりました。それなら慶応を紹介しますから、そこで手術を受けたらいいですよ。良い先生がいますし、慶応病院なら私が個室をかならず確保してあげます。安心してください。」と言われた。大船に乗った気分になった私は、そのとき調子に乗って、「慶応病院なら、あの、裕次郎が入っていた部屋があるでしょう、あの部屋がいいですね。ぜひお願いします」と頼んだのだ。
「確認してみましょう」とM医師は冷静に請け合ってくれ、私はすっかり裕次郎の入院していた部屋で胆のうの除去手術を受けるつもりになっていた。
ところがすぐに、「あの部屋は別の方でふさがっています。」とのご宣託だった。
「でも、裕次郎の入っていた部屋のすぐ下の部屋が取れますから、そちらでいいでしょう。」と言われ、私は残念だったが、どうにもならないことだからと納得して手配をお願いした。
だいいち、考えてみれば大事なのは手術なで病室ではないのだから、一も二も無かった。石原裕次郎の部屋のすぐ下の部屋が大丈夫だとのこと。私なぞにはもったいないくらいであった。
入院が決まって、部屋を下見に行った。すると、ベッドが細長く、小さい。
私は案内してくれたM医師と病院長のK教授に、
「お世話になり、ありがとうございます。でも、申しわけないのですが、私はダブル以外のベッドには、ここ20年来、一晩だって寝たことがないんです。もちろん一人で寝るんですが、ベッドはどんなときでも、海外に出かけたときも国内で出張のときも、例外なくダブルなんです。あのベッド、なんとも小さいですよね。きっと私は眠れないと思います。そんなこと、とお笑いになるかもしれませんが、これで私は真剣なんです。眠りには過度に神経質なんです。今からでも、夜中一睡もできない自分が想像できます。どうかお願いですから、ベッドをダブルにしてください。」
私は、目の前のK教授に頼んだ。隣にはM医師がいて困った顔をしている。
「いや、そういうものはこの病院にはありません」とK教授。おかしなことを言う人がいるものだとあきれ顔である。今考えて見ても、汗顔のいたりである。そもそも慶応病院ほどの大病院で教授と直接話すだけでも、ふつうにはあり得ないことに決まっている。M医師がK教授に紹介してくださったおかげなのだ。
私はとなりに座っているM医師に向かって頼んだ。
「M先生、先生からもお願いしてください。一切の費用は私が負担します。病院には決してご迷惑をかけませんから」
目の前に座っているK教授は、「いや、それはできません」の一点張り。M医師も、私に向かって、「そりゃあ無理だよ、牛島先生」となだめにかかる。
私も必死だった。私は55歳になるまで入院どころか骨を折ったこともないのだ。生まれて初めての入院は自分にとっては大事件なのだ。風邪を引いたことはあっても、熱をだしたことはあっても、怪我でも病気でも病院に泊ったことなど一度もない。私は、直前に見てきたばかりの、心細いほど細長いベッドの光景を思い出しながら、手術の後、そのベッドに運ばれて、そのうち麻酔が覚めて横になっている自分に気づく。そしたら、すぐに、見慣れない、細長いベッドに転がっている自分を発見する。きっと一晩中眠ることなどできるわけがない。私は睡眠については他人には思いもよらないほど過敏なのだ。絶対に一睡もできないに決まっている。恐怖に近い気持ちで一杯だった。
すると、突然、M医師が、「牛島先生、入院していると患者の身体を移動させるために、ベッドの両側から看護師さん二人がかりで患者の身体を持ち上げなきゃならないことがあるんですよ。だから、幅が広いベッドではそういう作業ができないんですからね。あの巾じゃないとダメなんです」と説明してくれた。
なんだ、である。それならそうと、初めっから言ってくれればいいのに、と私はダブルベッドの話を慌てて引っ込めた。
後で聞けば、K教授は、「いったいあの人はなに者なんですか」とM医師にたずねたらしい。ただの一介の弁護士が、天下の慶応大学病院長教授にとんでもないご迷惑をかけてしまった。なんともお粗末な一幕であった。
その、何者なんですかと問われてもなんとも答えようもないただの弁護士の入院している部屋を、東京都知事がじきじきに見舞った、ということになってしまったのだ。
愚かな頼みをした弁護士が「なに者」からしいことが、直ぐに慶応病院中に知れ渡ってしまったに違いない。なにしろ、なんと都知事の石原慎太郎さんがその弁護士である患者をわざわざ自ら見舞いに訪れてくれたのだ。
私が手術を終わり、まだ尿道にカテーテルをさしこんだままの状態だった。経験のある方ならすぐにわかるだろう。例の、尿意の大いにあるような、しかし出るものは一滴もない状態で苦しんでいたときだった。私は、まだ麻酔の効果でか、心身ともぼーっとしているところだった。石原さんが病気見舞いに来てくださったことに大いに恐縮しつつも、なんだか現実感のないやりとりしかできなかった。
たぶん、石原さんは「気分はいかがですか」といった類のことをいわれたのだろう。いつも丁寧な方だから、そういうふうに話しかけられたにちがいない。しかし、さすがに私は覚えていない。
その前に、いっしょにみえた見城さんから電話を貰っていたのだろうが、手術の前ではなかった。当日だったのだろう。
ただ、石原さんが見城さんに、「まだ大変そうだから、長居をしないほうがよさそうだね」という趣旨のことを言われたような気がする。石原さんらしい配慮だ。とても繊細で細やかな方なのだ。見城さんも「そうですね」といったことだっただろう。
私は茫然として迎え、茫然としたまま見送った。その間15分だろうか30分だろうか。私には、「ベッドに横になったままで失礼します」とお礼を申し上げるのが精いっぱいだった。
今になって考える。
石原さんにとってあそこは特別の場所、特別のフロアだった。1987年7月17日、弟の裕次郎さんが亡くなった慶応病院の特別病棟の同じフロアの病室。そこは私の病室のすぐ近くだったのだ。石原さんにとって18年前に、人生の決定的な重大事のあったところだった。
石原さんは、慶応病院までの車のなか、車を降りて病院の玄関を歩きながら、エレベータの扉の開くのを待つ間、エレベータがゆっくりと上昇する時間、そして18年前に来たのと同じフロアに着いたドアの開くゆっくりとした動き。そのドアの開き切るのをまたずに、長い廊下を歩いて私の病室に着くまでの時間の流れ。一体、どんな思いが石原さんの胸に、脳裏に浮かんだことか。
なんということか、私はほんの少しも18年前に石原さんに起きたことを考えもしなかったのだ。
石原さんが、そのただ一人の弟の死の間際に、「先生、まだ心臓は動いている」と言った部屋(416頁以下)。「なぜか私は、弟の死についてはこの私こそがその瞬間を正しく彼等に告げてやらなくてはならぬような気がしていてた」がゆえに、「傍らの計器に目を配りながらも、まき子夫人を押し退けるようにしてベッドににじり寄り、顔が触れるほどの間近さで弟の顔を見つめていた」場所。そして、「喘ぎに喘ぎ戦い続けてきた弟の苦し気な表情が次第にゆるんで、そしてある瞬間に今までとははっきりと異なる、信じられぬほど穏やかに安らいだ表情が弟の面を覆っていったのだった」と確認し、その顔を「死とか喪失などではなしに、弟が新しく獲得したものの証しだった」と信じきれた瞬間のあったところ。
そういえば、石原さんが『弟』を出されたのは1996年7月のことだ。私が石原さんに初めてお会いする2年前だった。私が病室で、哀れな入院患者としてお会いする9年前のことになる。
細長いベッドに力なく上を向いて横たわっている私を上から眺め、凝視しながら、石原さんは18年前の一瞬を思いだしていたのかもしれない。裕次郎に比べれば身体の小さい男の寝姿ではあっても、同じ場所なのだ。同じ動きをして、玄関から病室まで移動したのだ。
私はそのことに少しも気づかなかった。うかつといえばうかつ、愚かさにも程があると、いまにして思う。今回、石原慎太郎さんが亡くなられて石原さんとの私的思い出について綴り始めて、改めて石原さんが入院中の私を見舞ってくれたことを思い返し、そうだ、あれは裕次郎さんの思い出の溢れた場所の再訪だったのだ、と初めて気がついた。バカな弟子だった。なんとも申し訳ないことだった。
それにしても石原さんはなぜ私の病気見舞いをしてくれたのだろうか。当時、石原さん72歳。今の私の年齢だ。私だったら、親しい友人から、或る共通の知り合いが病気で入院していると聞いたとして、どんな知り合いだったらわざわざ見舞いに出かける気になるだろうか。あまり思いつかない。それとも、石原さんはその知り合いの男の入院先がたまたま慶応病院と聞いて、弟の裕次郎さんのことを思い出し、18年前に弟が死んだ場所をもう一度訪ねてみようと思いついたのだろうか。
これまでは、見城さんが石原さんを誘ったのだろうと頭から思いこんでいた。しかし、今回あらためて考えてみて、そうではなく、見城さんから私が慶応病院に入院していると聞いて、よし見舞ってやろうじゃないかと石原さんの方から言い出したような気がしてきた。そうではないか。見城さんも忙しい方なのだ。私などを見舞っている暇があるとも思えない。私にこだわる理由があるとすれば、それがどんな理由であれ、石原さんの方にしかあり得ない。
それにしても私にとっては、意外千万の見舞いだった。石原さんの酔狂だったということなのだろうか。
「酔狂」という言葉は、石原さんが私に繰り返し教えてくれた言葉だ。文学は酔狂なんだ。それが無くては小説なんぞ書けないよ、と。
それでは、石原さんは私の病気、それも胆のうを取るといった程度の入院を見舞うことで、自ら酔狂を演じてみせ、私に酔狂とはどんなものかをわからせようとしてくれたのだろうか。
そうかもしれない。それならそれで、やっと私を突然に見舞ってくれたわけが分かるような気がする。まことに石原さんは私にとって文学の師だったのだ。
そういえば、石原さんはもちろん私のこともよく知っている見城さんが、あの天才編集者と自他ともに認めている見城さんが、「とにかく、石原さんとあなたとは作家同士だからね。石原さんがあなたにこだわるのは、そういう、作家同士にしかわからない本能的ななにかがあるんじゃないのかな」と言ってくれたことがあった。
大作家石原慎太郎が、後輩の途上作家を、因縁の病室に見舞ったとでもいったことであったのだろう。なんということだろうか。私はここでも、石原さんの恩に応えることをしないままにうかうかと過ごしてしまったようだ。
(つづく)
トップ写真:第12回IAAF世界陸上競技選手権大会の祝賀会に出席する石原慎太郎氏(ドイツ・ベルリン 2009年8月20日) 出典:Photo by Mark Dadswell/Getty Images
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この記事を書いた人
牛島信弁護士
1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)
〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。
牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/
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