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.国際  投稿日:2022/9/15

ベトナム難民のその後


古森義久(ジャーナリスト・麗澤大学特別教授)

「古森義久の内外透視」

【まとめ】

・バイデン政権の寛容すぎる外国人入国政策の結果、中南米からフロリダやテキサスへの違法入国者総数が200万人近くに。

・ベトナム戦争の結果、難民としてこの国に逃れてきた人たち、その子孫がアメリカ国民として活躍していることを実感させられる。

・アメリカという国はこうした外国からの移民、難民やその子孫が社会の中核を築いている。

 

 ベトナム戦争とか、ベトナム難民とか、いまの日本では遠い過去の話としてしか響かないだろう。だがここアメリカの首都ワシントンではいやでも現在につながる現象として迫ってくる。ベトナム戦争の取材を実際にした私にとってはとくに避けられない課題のようなのだ。さらにそれよりも大きな要因はいまのアメリカでベトナム戦争の結果、難民としてこの国に逃れてきた人たち、そしてその子供や孫がアメリカ国民として活躍していることをいやでも実感させられるからでもある。

いまのアメリカは別な意味から難民とか移民が大きな課題となっている。バイデン政権の寛容すぎる外国人入国政策の結果、アメリカの南部のフロリダやテキサスというメキシコ国境の州に勝手に入ってくる中南米からの違法入国者がものすごい数になったからだ。バイデン政権が登場してからの1年8ヵ月ほどで中南米からアメリカに違法に入国した人たちの総数は200万近くにもなるという。

バイデン政権は一度、アメリカに入ってきた人間は違法でも強制的に送り返すことをしないのだ。その種の違法入国者があまりに多くなったテキサス州やフロリダ州では州当局の指示でその人たちをバスに乗せて、北部のニューヨークやワシントンDC,さらにはシカゴという大都市に送りこむようになった。ところが送られる側の市当局が反発して、深刻な国内問題となっている。

ワシントンでそんな状況をみているうちに、なおアメリカは移民、難民の国としての健全な部分もあるのだなと、実感させられる体験があった。ベトナム難民としてかつてアメリカにきた友人の娘さんが会いにきたのだ。しかも彼女はアメリカ人医師として立派に活躍していた。

この女性医師はアリーン・グエンという名前である。私はアリーンさんの両親をかつての南ベトナムでよく知っていた。私はベトナム戦争の最終時期から戦争の終結、そして革命という激動の時代に4年近くをベトナムで過ごした。その過程でアリーンさんの両親グエン夫妻を知った。1972年から75年にかけての時期だった。 

妻のニュンさんは小児科の医師だった。私はニュンさんの出身のフランス系学校の同窓生たちを知り、彼女の知己を得た。するとまもなく彼女は自分の夫のデさんが南ベトナム領内中部で革命勢力に捕らわれ、医師として働かされていることを告げた。

内科医のデさんは中部のビンディン省という地方の公立病院で働いている間、北ベトナム・南ベトナム民族解放戦線、いわゆる革命勢力の攻撃を受けて、捕虜になり、そのまま革命側の支配する地域で医師として働くことを余儀なくされた、というのだ。

その後、偶然にも私は革命勢力から招かれ、南ベトナム領内の革命地区に入って、取材することを認められた。しかもその地区がビンディン省だった。山岳地帯の村落をいくつか訪れ、住民たちの生活、その背後にいる北ベトナムの軍隊の演習などをみせられ、通算10日間ほどを過ごした。その間、私の案内役となっていた革命側の政治委員たちにグエン・デ医師の消息を尋ねてみた。すると、意外にも「デ医師は私たちの革命の大義に共鳴して、この地区で医療にあたっています」と答え、面会もできると告げたのだった。

そして革命側はデ医師を連れてきて、私との面会を許した。彼の様子をひとめみて、自分からその地区に残ったのではなく、実際には拘束であることがわかった。だが記憶に残る面会だった。私は南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン市)に戻り、そのことを妻のニュンさんに伝えた。ニュンさんが実家の玄関前の闇で涙をぬぐう姿はいまも覚えている。

しかしその数ヵ月後、デ医師は大嵐の夜に川に飛び込み、長時間、泳いで脱出を果たしたのだった。ただしそのまた半年後には革命勢力の北ベトナム正規軍大部隊がサイゴンに攻めこみ、南ベトナム政権を粉砕した。ベトナム戦争の終わりだった。グエン一家はその直前にアメリカへと退避していた。難民としてアメリカに受け入れられたのだ。

以後の40余年、デ、ニュン夫妻はともに苦学の末にアメリカの医師資格を取得した。そして勤勉に働いた。その間、2人の娘も一流の医科大学を出て、長女のドーンさんは整形外科医となった。次女のアリーンさんは麻酔専門の医師となったわけだ。まさにベトナム難民の成功物語だった。同時にアメリカという国はこうした外国からの移民、難民やその子孫が社会の中核を築いているのだという現実の発露だともいえよう。

 ワシントン地区の病院に勤務するアリーンさんは父が亡くなって10年、彼の革命地区での様子をもっと詳しく知りたいと、私を訪ねてきたのだった。

なお私はこのグエン一家とのかかわりを『ベトナム報道1300日』(筑摩書房、講談社文庫)と『ベトナムの記憶』(PHP研究所)という自著のなかでも詳しく報告した。

『ベトナムの記憶』、古森義久、PHP研究所

 

 

 

 

 

『ベトナム報道1300日』、古森義久、筑摩書房、講談社文庫

 

トップ写真:フランスの上陸用舟艇に乗り込むベトナム難民 1954年8月15日

出典:Photo by Bettmann/Getty Images

 




この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授

産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

古森義久

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