円楽死すとも落語は死せず(上)娯楽と不謹慎の線引きとは その1
林信吾(作家・ジャーナリスト)
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・噺家・六代目三遊亭円楽師匠が9月30日、肺がんで世を去った。享年72であった。
・円楽師匠の最大の功績は、落語会の門閥や所属組織の壁を取り払い、日本にしかない話芸を一致団結して盛り上げて行こうという気風を生み出したこと。
・円楽師匠を「笑いで送ろう」という番組は、断じて不謹慎ではない。落語の道に人生を捧げた人を「笑いで送る」のはこの上ない供養だろう。
「3日前に知らされたばかりで、僕自身まだ整理ができていなくて……」
10月9日午後5時半から日テレ系で放送された『笑点』の冒頭、司会者の春風亭昇太師匠は、このように語った。
この番組でも45年間レギュラーをつとめ、国民的な人気を誇った噺家・六代目三遊亭円楽師匠が9月30日、肺がんで世を去った。享年72。
かねてから肺がんを宣告されていた上に、今年初めには脳梗塞で倒れ、8月にようやく高座に復帰したのだが、今さら気の毒ながら、滑舌など見る影もなかった。それでも、
「みっともないと言われようが、死ぬまで(落語を)やります」
と語る姿には、それこそ「見るも涙のうれし泣き」というやつで、内心、望みは薄いと分かっていながら、なんとか回復して圓生を次いで欲しい、と強く願ったものだ。
ちなみに円楽も正確には「圓楽」と表記するべきだが、活字メディアでは一般に円楽とされているので、本稿でもそれに倣う。
話を戻して、昇太師匠が訃報を受け取ったのが3日前というのは、おそらく収録が4日前後に行われた、ということなのだろう。
そして9日、いつもの時間の『笑点』ながら、この日は「ありがとう円楽さん」と題した特別版が放送されたのだが、最古参・最年長の林家木久扇師匠が冴えに冴えていた。
まず冒頭の挨拶で、
「円楽さんは、あちらの世界へ行ってしまって、早速、歌丸師匠と口げんかを始めていると思います。私はけんかが嫌いなので、当分あちらへは行きません」
と言い、拍手喝采であった。
お題の中でも、円楽師匠の録音で、「修行が足らん!」と一喝されたらどう答えるか、という問題に、
「80歳を過ぎた先輩に向かって修行が足らんとは、コンプライアンス的にどうなんだ」
と意表を突く答え。
それにとどまらず、隣に座っていた林家たい平師匠が、
「コンプライアンス、ってなんですか?」
と突っ込むと、涼しい顔で、
「おいしいケーキ」
全部持っていったな、と思ったら、司会の昇太師匠が、
「覚えたばかりの言葉すぐに使うの、やめてもらっていいですか」
と笑いながら見事に回収。
これが、この番組の底力だと、しみじみ感じ入った。
引き合いに出して申し訳ないが、林家三平師匠が
「先輩方とのスキルの差を感じることばかりだった」
とこぼした気持ちも、よく分かる。彼が降板の沙汰となったおかげで、円楽師匠の後継者選びにも暗い陰を落としてしていると聞くが、その話はまた後で。
落語の起源については諸説あるのだが、江戸時代に生まれたとする説が最も有力である。
ただ、他ならぬ落語会では、もっと古い歴史があって、お説教(本来の意味は、仏教の教えを説くことである)の中に笑いの要素を取り入れようと工夫したのが始まりだと考える人が多いようだ。
実際に私は本職の師匠から、
「あなたはお坊さんですか?」「そう(僧)です」
というのが本邦初の落語なのだと聞かされたこともある。
ただ、これはどうも都市伝説の匂いが漂う話で、色々と読んでみると、やはり江戸起源説の方が、より説得力があるように思う。
江戸時代の初期から中期、天下太平の世の中となって、庶民の生活水準も上がって行き、教養や娯楽に対する関心も高まることとなった。
寺子屋で『論語』などの漢籍を学ぶことが一般教養とされたのに対し、中国の笑い話を翻訳し語って聞かせる芸が歓迎されたのである。
当初は、大仰な舞台装置もいらず、一人で演じられることから、色々な人が演じていたが、やがてそうした「落とし話」を専業とする、つまり落語家が登場し、三遊派、柳派といった流派も生まれてきた。私はもっぱら「噺家」と書くが、これは個人的な嗜好に過ぎず、どちらでもよいのだ。
「落とし話」という言葉を用いたが、これは話の最後にダジャレや思いもかけない結末で笑いを取ることを「オチをつける」「落とす」と表現したところから来ている。落語という呼び方が定着したのは明治時代以降であるらしい。
流派という表現にせよ、もともと人情噺を得意とする三遊派に対して滑稽噺を得意とする柳派という色分けがなされていて、まさしく流儀の違いがあったわけだ。今では、こうした色分けは意味をなさなくなったが。
この両派に、三遊派から分かれた三笑派を加えて、江戸落語の三大流派と呼ばれている。
林家や桂はどうなのか、と思われた向きもあろうが、三派ともに分派・別派が生じた歴史があり、三遊派からは三遊亭の他に古今亭が生まれたし、柳派からは春風亭が、三笑派からは林家がそれぞれ生まれている、という具合だ。
この「~亭」「~家」という名称を亭号と言い、誰かに弟子入りした者は、必ず師匠と同じ亭号を名乗る。芸名は一般に師匠が名づけるが、近年では真打ち昇進に際して新しい亭号や芸名を自分で考える例も、少数ではあるが見受けられるようになった。
上方落語の世界では「~派」とはあまり言わずに「~一門」と呼ぶが、桂一門と笑福亭一門が特に有名だ。江戸落語でも一人の師匠に従う弟子たちを一門と呼ぶことは多い。
また、桂一門は江戸にも根を下ろしており、先代の『笑点』司会者だった桂歌丸師匠と、本年1月より大喜利メンバーとなった桂宮司師匠はこの流れである。
亭号を変えるケースは、前述のように真打ちとなって弟子を取り、新たな一門を立てた場合の他、まれではあるが、破門されてしまった場合もある。
桂歌丸師匠の場合、もともとは五代目古今亭今輔師匠の弟子で「古今亭今児」という名前であった。ところが、今輔師匠が新作派であったのに対して、古典落語に執着し、最終的には破門同然で落語会から追われてしまった。
やむなく化粧品のセールスマンなどで生計を立てていたが、その才能を惜しんだ兄弟子たちの肝いりで、あらためて桂米丸師匠に弟子入りすることが叶ったそうだ。
立川談志師匠の場合、五代目柳家小さん師匠のもとで真打ちまで昇進したのだが、昇進の基準などをめぐって師匠(というよりは落語協会=後述)と対立し、ついには破門。そして自ら落語立川流を立ち上げて「家元」を名乗った。
上方落語の場合、ほぼ全員が上方落語協会の傘下にあるのに対し、東京では落語協会、落語芸術協会、五代目円楽一門会、そして立川流と、4組織に分かれている。
本稿の最期に、もう一度9日放送の『笑点』に話を戻すと、この日最期のお題は、
「円楽師匠、~してくれてありがとう」
と呼びかけ、司会の昇太師匠が「ありがとう」とかぶせるので、さらに一言、というものであった。三遊亭小遊三師匠が、
「円楽師匠、落語会の壁を取り払ってくれて、ありがとう」
とまず一言発し、昇太師匠がかぶせたところに、
「今度は女湯の壁を取り払ってください」
という、あまりと言えばあまりな(あの人らしいと言えば、実にあの人らしい)オチをつけた。
たしかに、六代目三遊亭円楽という噺家の最大の功績は、落語会の門閥や所属組織の壁を取り払って、日本にしかない話芸を一致団結して盛り上げて行こう、という気風を生み出したことにあったと思う。
具体的にどういうことなのかは、次回詳しく見るが、ここで言っておきたいのは、小遊三師匠の回答はじめ、円楽師匠を「笑いで送ろう」という番組は、断じて不謹慎ではない、ということだ。今さら言うまでもなく、落語というのは客を笑わせる芸で、その芸の道に人生を捧げた人を「笑いで送る」には不謹慎どころかこの上ない供養だろう。
私にとって『笑点』は、よき娯楽番組であったし、特別番組によって、これなら円楽師匠がいなくなっても大丈夫、という思いをますます強くした。
(その2につづく)
図:日本テレビ「笑点」