スーダン紛争の原因と行方
植木安弘(上智大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授)
「植木安弘のグローバルイシュー考察」
【まとめ】
・スーダン内戦は軍主導の政権と軍内部の主導権争いが長く続いた歴史の延長線。
・スーダン国軍ブルハン将軍とRSF司令官ダガロ中将が対立。
・停戦や和平協定が締結されても民政移管が順調に進んで民主選挙が行われるどうか不明。
4月15日に勃発したスーダンの内戦は、1956年の独立以来6回のクーデターを経験し、軍主導の政権と軍内部の主導権争いが長く続いた歴史の延長線で起こった事件と言える。
2019年には、1989年に権力を握り長期独裁政権となったバシール大統領に対して民衆の蜂起が起こり、これに軍が同調したため、バシール大統領は権力を失った。
これに先立ち、バシール大統領は、スーダンのダルフール地方での戦争犯罪の罪で国際刑事裁判所から訴追されていた。この訴追は、国連の安全保障理事会の要請を受けてのことだったが、アフリカ諸国の多くは、アフリカの大統領の訴追には協力しなかった。
その後、軍民政権が設立され、軍部と文民の代表が2年毎に政権を交代することで合意され、最初の2年間は軍部が政権を担った。しかし、文民への政権交代は起きず、軍部は新たなクーデターで全権を掌握した。
このクーデターを率いたのが、スーダン国軍のブルハン将軍と即応支援部隊(RSF)司令官のダガロ中将だった。ブルハン将軍が暫定政権で実質的な大統領となり、ダガロ中将が実質的副大統領という一見順当な政権となったが、ダガロ中将は、ダルフール地方で大規模な人権侵害を行なったジャンジャウィード民兵組織を指揮していたこともあり、RSFという準軍事組織に形を変え、軍事力を温存していた。
写真)RSFのモハメド・ハムダン・ダガロ中将(中央)2019年5月4日 スーダン・ハルツーム
出典)Photo by David Degner/Getty Images
昨年12月の民政移管とそのための民主選挙に関する枠組み合意が米国やサウジなどの仲介で成立したが、実力を持った軍事組織が二つ存在していたため、特に新たな国軍の指揮系統や準軍事組織の国軍への編入の期間などをめぐって二人の指導者の間で対立が起き、さらに、国軍を支持しているエジプト軍の撤退問題や西スーダンのRSF軍の撤退問題などでも対立が生じ、今回の軍事衝突に繋がったと言われている。
国連によると、スーダンでは、既に10万人以上が国外に避難し、さらに、80万人の人々が避難することになるだろうと予測しており、深刻な人道危機が既に起きていると警告している。世界食料機関(WFP)の職員が4人殺されており、食料などの備蓄も略奪されている。国連は国内に残り、比較的安全な地域から人道支援活動を再開しているが、首都ハルツームなどでは度重なる休戦合意にも関わらず戦闘が続いているため、当面支援活動も届かないであろう。
米国や中東・アフリカの周辺国、国連、アフリカ連合、東アフリカの地域機関(IGAD)などがスーダンの当事者に停戦と和平に向けた動きを働きかけているが、実現するまでには時間がかかるであろう。
2011年にスーダンから独立した南スーダンでも、僅か2年で大統領と副大統領の間で権力闘争が起き、内戦に突入した。それ以来、何回かの衝突を経て和平協定が出来たのは2020年になってからだった。スーダンでも、停戦や和平協定が締結されても、予定通り民政移管が順調に進んで民主選挙が行われるどうか分からない。軍支配の歴史を終焉させるのは、並大抵のことではない。
トップ写真:ワディ セイドナ空軍基地から キプロスに向かうため、英国人の国外退去の準備をする英国空軍兵士 2023年4月30日 スーダン・オムドゥルマン
出典:Photo by MoD Crown Copyright via Getty Images
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この記事を書いた人
植木安弘上智大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授
国連広報官、イラク国連大量破壊兵器査察団バグダッド報道官、東ティモール国連派遣団政務官兼副報道官などを歴任。主な著書に「国際連合ーその役割と機能」(日本評論社 2018年)など。