NYに突然の段ボール箱・・・樋口廣太郎さんの熱意 「高岡発ニッポン再興」その81
出町譲(高岡市議会議員・作家)
【まとめ】
・アサヒビール樋口廣太郎社長は、前例のない辛口ビール、スーパードライを生んだ。
・ビール開発は、生産部門と営業部門が共同で進めた。
・アサヒビールは一気に躍進。戦略を持ったネアカな企業改革者だった。
先日、高岡市議として、関東近辺に視察に行きました。その際泊まったのが、浅草のホテルでした。駅からの途中、目に飛び込んだのは、アサヒビール本社でした。ビールと泡をデザインにした建物です。
正直懐かしかったです。私が1991年、時事通信の食品担当記者として、この建物に通いました。記者になったばかりです。取材が楽しくてしょうがありません。当時、アサヒは最も注目されている会社でした。スーパードライが大ヒットし、躍進したからです。
当時の社長は樋口廣太郎さんです。私は樋口さん宅に、頻繁に夜回り取材に行きました。情報をとること以上に、樋口さんの経営論を聞くのが大好きでした。
「明るく元気に前向きに取り組めば、道は切り拓ける。」「社員に対し、こちらから、挨拶するようにした。『お早う』とこっちから声をかけるんだ。それでも無視する奴がいたら『こら挨拶ぐらいしろ』と怒鳴るんだ」。
奥さんがスーパードライを出してくれ、深夜11時ごろから始まる経営論、いや人生論は本当に興味深かったです。私は勝手に弟子入りし、“師匠”だと思い込んでいました。
樋口さんはもともと住友銀行副頭取でした。当時の頭取と対立して、退職。アサヒビール入りした時、シェアは9%程度。業界トップのキリンビールのシェアは60%を超えていました。「夕日ビール」と揶揄され、社内の雰囲気が暗かったといいます。
樋口さんは社長就任後、従業員にこんな発言を繰り返していました。「私は生まれつき運がいい。この強運を信じてついてきてほしい」。「前例がないアイデアこそが重要。今までやったことがない試みをやるべきだ」。
そして、生まれたのがスーパードライでした。これまでに前例のない辛口ビールです。「前例がない、だからやる」と決断したそうです。
そのビールの開発は、生産部門と営業部門が共同で進めました。つまり、営業部門が消費者アンケートを実施し、市場や顧客の情報を集めたのです。それを商品コンセプトとして、生産部門に提案しました。生産部門はその情報をベースに実際の商品開発を行ったのです。
スーパードライをきっかけに、アサヒビールは一気に躍進。業界トップに躍進させた辣腕経営者となりました。戦略を持ったネアカな企業改革者と言っていいでしょう。
私はその後、松江支局に赴任しましたが、樋口さんはわざわざきてくれました。当時は社長を退き、会長に就任していました。今でも覚えているのは、こんな言葉です。
「人間には旬の時期がある。私は今、65歳。70歳までが旬だと思っている」。その言葉通り、樋口さんは、総理大臣の私的諮問機関、防衛問題懇談会の座長に就任しました。
そしてその翌年には、経団連副会長に就任。さらには、1998年には日本経済全体のかじ取り役を担う経済戦略会議の議長に就任したのです。小渕恵三総理の諮問機関です。経済戦略会議は日本の経済危機を克服するため、つくられました。
樋口さんは戦略会議の前後1年ほどで、テレビ出演や講演などを200回近くこなし、戦略会議の活動をアピールしました。持ち前の明るさで、本音でトークする姿は、異色の財界人として、人気がありました。
ちょうどこのころ、私は時事通信のニューヨーク支局で勤務し、ウォール街を取材していました。日本の金融危機はアメリカでも大きな関心事でした。空前の好景気を謳歌していたアメリカにとって最大の懸念材料は、金融危機に苦しむ日本経済だったのです。
ニューヨーク・タイムズは1998年10月5日、1面トップで「日銀の速水総裁がルービン財務長官らに日本の大手銀行の自己資本が危険なほど低い水準になったことを伝えた」と報じました。ウォール街でも激震が走った。
米連邦準備制度理事会(FRB)が10月16日に緊急利下げに踏み切ったことについても、「邦銀の経営危機が背景ではないか」という思惑まで飛び交っていました。
世界が注目する日本の金融危機の真っただ中に、私はニューヨークからもしばしば樋口さんに連絡を取っていました。忙しい日々を送りながらも電話口に出てくれ、明るい声で「日本経済は大丈夫だ。取材先に伝えてくれ」と言っていました。
戦略会議は1999年2月、構造改革を訴え、日本再生シナリオが盛り込んだ最終答申を発表しました。それからしばらく経って、時事通信ニューヨーク支局に大きな段ボールが届きました。差出人は樋口さんです。英語版の経済戦略会議の報告書50冊が入っていました。
箱の中には「日本経済は必ず、再生する。これを是非、アメリカの金融関係者に配ってくれ」というメッセージも入っていました。私はそれをアメリカの金融関係者に配りました。
記者というより、「日本経済は再生する」という樋口さんの熱意に共鳴したのです。
樋口廣太郎さんは2012年に死去していますが、私にとって教えていただいたことは、社会人としての原点です。樋口さんに恥じない仕事を続けたいと思っています。
トップ写真:アサヒビール本社 出典:GrTgory RENAULT/GettyImages
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この記事を書いた人
出町譲高岡市議会議員・作家
1964年富山県高岡市生まれ。
富山県立高岡高校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。
90年時事通信社入社。ニューヨーク特派員などを経て、2001年テレビ朝日入社。経済部で、内閣府や財界などを担当した。その後は、「報道ステーション」や「グッド!モーニング」など報道番組のデスクを務めた。
テレビ朝日に勤務しながら、11年の東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(2011年、文藝春秋)はベストセラーに。
その後も、『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(2013年、文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(2013年、幻冬舎)、『景気を仕掛けた男 「丸井」創業者・青井忠治』(2015年、幻冬舎)、『日本への遺言 地域再生の神様《豊重哲郎》が起した奇跡』(2017年、幻冬舎)『現場発! ニッポン再興』(2019年、晶文社)などを出版した。
21年1月 故郷高岡の再興を目指して帰郷。
同年7月 高岡市長選に出馬。19,445票の信任を得るも志叶わず。
同年10月 高岡市議会議員選挙に立候補し、候補者29人中2位で当選。8,656票の得票数は、トップ当選の嶋川武秀氏(11,604票)と共に高岡市議会議員選挙の最高得票数を上回った。
