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.社会  投稿日:2023/6/30

コラボクリニックの思い出


濱木珠惠(医療法人社団鉄医会ナビタスクリニック新宿院長)

 

【まとめ】

・「コラボクリニック」は都市部の勤労世代の為に開設され、新しい医療体制を創出した。

・設立には学生たちが尽力、若手教育の場ともなり学生たちは卒業後も活躍を続ける。

・コロナ禍で地域医療に貢献したナビタスクリニックの礎となった。

 

5月下旬、10数人の仲間と船釣りに行った。参加者の1人、平川知秀くんは前夜に東京入りし、釣りが終わると夕方の飛行機で福岡に帰るという弾丸ツアーで参加してくれた。彼と会うのは約10年ぶりだと思うが、軽いノリの誘いにしっかり応じてくれるあたり、相変わらず義理堅い。そんな彼は20年前にコラボクリニックを一緒に立ち上げてくれたメンバーの一人である。

 

コラボクリニックは、2006年11月に「東京大学医科学研究所発ベンチャー」でつくったクリニックだ。当時の私達は、都会の医療弱者は誰なのかを考えた。そこで出たのは、都市部の勤労世代、特に若い世代が気軽に受診しやすいクリニックがないということだ。それならば、仕事帰りに寄れるよう駅から至近距離の場所で夕方以降も診療していて、受診のために仕事を休むほどではないような風邪やちょっとした体調不良の相談にのってくれるクリニックを作ろうと考えた。

 

当時現職の参議院議員だった鈴木寛先生(元文部科学副大臣、現東京大学教授、慶應義塾大学教授:以降すずかん先生)や東京大学医科学研究所の特任教授だった上昌広先生(現NPO法人医療ガバナンス研究所理事長)の指導のもと、新宿駅西口前の雑居ビル2階の小さな部屋に実験的クリニックを開業した。

 

コラボクリニックという名前は学生達が考えた。患者と医療者との協働作業として医療を提供するクリニック、そして医療者と学生が力を合わせて共に作りあげるクリニック。そういう意味が込められている。診療には、上先生の研究室スタッフだった田中祐次医師や、久住英二医師があたっていた。私自身は当時は総合病院の勤務医でありクリニックの診療にこそ関わらなかったが、準備段階の議論には参加した。そして、「夕方以降に若い世代のニーズがあるのでは?」という仮説のもとに開業した。実際、少なくない人数の20-30代の働く世代が仕事帰りに寄ってくれた。自分達の方向性が間違っていなかったことに安堵し、また手応えを感じた。

 

このクリニックの設立の裏方として、東大生を中心として当時のすずかんゼミに集っていた学生達が大いに活躍してくれた。冒頭で紹介した平川くんはその一人だ。学生は医学部だけでなく、法学部や商学部、芸術学部などさまざまで、医療や起業に関心がある学生達が集まっていた。彼らは医療機関開設の諸手続き、経理などを0から勉強し、内装や物品の準備、受付業務、開院を知らせるティッシュ配り等々、たくさんの業務を進めていった。

 

もちろん学生だけで本格的にビジネスを進められるわけがない。学生指導のため、すずかん先生が、当時ヤフーのプロデューサーだった川邊健太郎さん(現Zホールディングス代表取締役会長)、楽天にいた小澤隆生さん(現Zホールディングス取締役専務執行役員)、さらに当時カカクコム取締役相談役だった穐田誉輝さん(現くふうカンパニー取締役兼代表執行役)などに声をかけてくださった。強力すぎる助っ人だった。

 

当時すでにIT業界で名を馳せていた彼らは、多忙な中、貴重な時間を割いて学生達に仕事への取り組み方、ビジネスへの姿勢を指導してくれた。それこそ「ビジネスメールは夜中に送らない」という初歩的なことまでしっかり指導していたし、一方で学生のプレゼンの内容もビジネスマンの視点で厳しく注文をつけ、時には叱りつけてもいた。医者が卒後研修で受ける研修とは全く異なる次元の厳しさがあった。雑な仕事をした学生に手厳しく指導する川邊さん、小澤さん、穐田さんを見ながら「やばい、私も適当な仕事したら怒られてしまう」とドキドキしていたが、医者は別モノとして大目にみてもらっていたようだ。すずかん先生は常日頃から「次世代の若者育成の重要性」を語っておられるが、コラボクリニックの場はまさにそういう若者教育の場所でもあった。

 

さてコラボクリニックの医療に話を戻す。

 

2000年代当時、世のクリニックの診療は、日中のみで夜間は休診、日曜も休み、というところが多かった。だがコラボクリニックの経験から、それではある患者層の行き場がなくなると感じた。20-30代の若い世代は勤務時間に仕事を抜けにくい。保育園に子供を預けている親達が日中に子どもを病院になかなか連れて行けない。高血圧など薬を飲めば安定しているような病気なら、できれば仕事を休んでまで受診したくないという人も多いだろう。

それらのニーズに応えられるクリニックを作る必要があると痛切に感じていた。

 

そんなとき、幸運なことに、当時JR東日本ステーションリテイリング代表取締役だった鎌田由美子さんから声をかけていただいた。ちょうどエキュート立川の開発を進めておられ、そのご縁で2008年6月のナビタスクリニック立川の開業につながった。女性に優しい駅というコンセプトがあったので、内科だけでなく皮膚科や小児科を併設した。駅とその周辺を利用する人々、女性や子どものニーズを一番に考えた結果だ。今では川崎駅、新宿駅でも診療の場を与えていただき、私も曲がりなりにも新宿院の院長という肩書きを拝命している。それでもナビタスクリニックの原点はコラボクリニックだ。だからこそコロナ流行期においてもナビタスクリニックを閉鎖せず、発熱患者も積極的に受け入れたし、地域のワクチン接種業務にも協力した。私たちの目指したものは、医療を必要としている人に、必要な医療を届けようということだ。

 

さて当のコラボクリニックだが、立川院の開業前に幕を閉じた。だが、当時としては新しかった医療スタイルの模索と創出、さらに若い学生の育成という目的は果たしたと思う。当時の実行部隊長だった東大生の城口洋平くんは、今ではエネチェンジという会社を立ち上げ若手起業家として成功している。

 

東京藝術大学の学生だった古賀匠磨くんはコラボクリニックで活用したデザインを卒業作品としていた。その後、デザイナーとして活躍し、現在のナビタスクリニックのロゴやパンフレットも彼が作っている。他のメンバーも弁護士や医師として活躍していたり、海外に活躍の場を広げていたり、あるいは巡り巡って医療系の企業に勤めていたりなど様々で、いまだに私達と繋がりを持ってくれている人達もいる。平川くんが「先生に久しぶりに会えたので上京して釣りだけで帰っても十分です」と言ってくれたが、それはこちらの台詞である。本当に感謝しかない。

 

コラボクリニックを振り返ると、拙い仕事だったことは否めない。だが、既存の医療システムに甘えて妥協することなく患者に提供する医療を更新していくこと、そして若手を育成することの重要性を学んだ貴重な日々であったと痛感する。初心を忘れてはいけない。

 

最後になるが、青柳さん、城口くん、京極くん、久保くん、古賀くん、嶋田くん、菅原さん、露口くん、西路さん、早川くん、平川くん、広瀬くん、松井くん、三谷くん、南川くん、山田さん。とりあえず五十音順、旧姓で並べてみたけど、もし誰か抜けていたらごめんね。あの頃のこと、少しはみんなの糧になってくれていたら嬉しいです。


写真2)令和5年釣り。上先生(後列左から3人目)、平川くん(前列左)、筆者(前列中央)

トップ写真:コラボクリニック学生メンバーとすずかん先生(後列中央)、上先生(前列左)

出典:筆者提供










この記事を書いた人
濱木珠恵医療法人社団鉄医会ナビタスクリニック新宿院長

北海道大学医学部卒業。医療法人社団鉄医会ナビタスクリニック新宿院長。国立国際医療センターにて研修後、虎の門病院、国立がんセンター中央病院にて造血幹細胞移植の臨床研究に従事。都立府中病院、都立墨東病院にて血液疾患の治療に従事したあと、2012年9月よりナビタスクリニック東中野院長、2016年4月より現職。専門は内科、血液内科、トラベルクリニック。自身も貧血であった経験を活かし、クリニックでは貧血外来や女性内科などで女性の健康をサポートしている。






濱木珠恵

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