日中関係の再考 その10(最終回) 厳しい現実への覚悟を
古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
「古森義久の内外透視」
【まとめ】
・中国は国是として日本を敵視し、反日教育を行う。
・反日教育は将来の日中関係に影響を及ぼす可能性が高い。
・中国への対処は日本の国運を賭けての対立や対決を恐れない覚悟が欠かせない。
中国は国是として日本を敵視する。ここまで断言するには、当然ながら強いためらいもあった。だが中国の実態を知れば知るほど、その認識は深くなった。中国共産党政権の日本への態度はその政権が自国の若い世代に教える国定教科書の内容からも歴然としてくる。
中国は日本の教科書の内容に干渉してくる。とくに中国とのかかわりについて、日本が不当な侵略をしたことを常に認めるように、監視し、介入してくる。その前提として中国側は日本の教科書の内容を点検しているわけだ。だがその逆はない。日本側が中国の教科書、とくに歴史教科書で日本についてなにを教えているか、という点を研究や調査したという話は聞いたことがない。
だが自画自賛だが、私は2年間の北京駐在の後半に、その作業を試みた。中国側の国定教科書の内容を調べたのである。その結果、衝撃的な結果が浮かびあがった。結論を先に述べれば、中国政府は自国の少年少女に対して日本の悪いことばかりを教え、日本を嫌い、憎むように教育しているのだった。つまりは中国共産党の抗日、反日の党是に合致する教育なのである。この点こそ日本側にとっての中国への政策には強い覚悟が欠かせない理由なのである。基本的な不信や敵視がまず予見しうる将来、消えないという展望への覚悟である。
中国の歴史教育では日本の占める部分は驚くほど大きい。しかもそのほぼすべては日本がいかに中国を侵略し、中国がいかに日本と戦ったか、という内容なのだ。つまり抗日の歴史である。この抗日教育は量も質も現代の日本人が想像する域をはるかに超えている。日本が中国大陸でどれほど非道で、どれほど残虐だったかを繰り返し繰り返し教えることが主眼なのだ。しかも学校教育のきわめて早い段階から抗日歴史教育は始まるのである。
中国の教育制度は日本に似て、初等教育の小学校は6年制で6歳から11歳まで、中学校(初級中学)は3年制で12歳から14歳まで、となっている。小中学校の計9年が義務教育である点も日本と同じである。日本の「侵略」や「残虐」は小学校に入ってすぐに教えられる。しかもなまなましい視覚イメージとともに、である。
小学校低学年用の教科書に「わたしは中国を愛す」というタイトルの国語の読本がある。自国を愛することを最大の標題とする同読本は第1章の「わたしは中国を愛す」も「アジアに雄々しくそそり立つ中華人民共和国」という言葉で始まる。その他の章も「国旗」「民族大団結」「共産党はすばらしい」「社会主義はすばらしい」「国防の科学技術をたたえる」「美しい山河」「工業の大発展」というふうに前向きのテーマばかりである。中国の偉大で魅力ある側面を描く合計20の章が並ぶ。
だがそんな誇らしげで明るい基調も冒頭近くで突然、「日本軍の侵略」でさえぎられる。「屈辱の歳月」と題された第五章である。章の前半では旧中国が西洋の列強に財を奪われ、国土を割かれたことが記されているが、それと同じ分量の章後半の文章は「日本の侵略」だけを取りあげ、次のように述べていた。
「中国に侵略した日本軍はとても多くの凶悪なことをしました。放火や略奪の罪は天までとどくほどでした。日本軍はわが同胞何千万人をも殺し、中国人民に泥にまみれ、火に焼かれるような苦しみを与えたのです」
小学校の低学年生の読み書きの授業にこうした記述が出てくるのである。
この記述のあるページにはしかも日本軍の残虐と中国側の害を示す写真が計3枚、掲載されていた。
1枚は東京日日新聞(現在の毎日新聞)に載った「百人斬り競争」の記事の写真である。「百人斬り」とは1937年12月に東京日日新聞が日本軍の南京攻略の際に「2人の日本軍将校が日本刀でどちらが先に中国側の百人を斬るかという競争をし、それぞれ106人と105を斬った」と報じた事件だった。新聞記事だけを根拠に戦後の南京裁判でその2人が死刑になった。この「事件」は後の日本側の詳しい調査で事実ではなかったことが判明した。
だがこの中国の小学生用読本には「『百人斬り競争』の両将校」として2人が軍刀を持って立つ姿の写真記事が大きく掲載されていた。他の2枚の写真も同趣旨だった。その政治意図は明らかに中国の子供たちに日本の残虐性を刷り込むことだった。
中学や高校の教科書での反日志向はさらに徹底していた。とにかく日中戦争での日本側の残虐行為とされた事例だけを誇大して並べて、教えるのだ。
中学生用「中国歴史第四巻」の学習指導要領は日中全面戦争の歴史を教える目的として教師に対し「生徒に日本帝国主義の侵略犯罪への強烈な憎しみと恨みを触発させよ」と命じていた。中国の若者に対する日本は過去の軍事行動だけが特徴であり、日本側への憎しみと恨みを激しく抱かせるように教育せよ、という国家の方針なのだった。
同時に中国の教科書は日本について戦後の国のあり方などはほとんどなにも教えていなかった。具体的には以下のような特徴があった。
・中学生用の教科書「中国歴史」は中国自体近代の歴史は1990年代まで詳述し、他の主要諸国の歴史には触れていても、日本の戦後の動きについての記述はまったくない。戦後の日中友好や日本の平和主義はもちろん教えられない。
・高校生用の「中国近代現代史」でも中国の戦後は詳述しながらも、戦後の日本への言及は「1972年、日本の田中角栄首相が訪中し、中日国交正常化の合意に調印した」という文字どおり2行だけだった。
総括するならば、中国の教科書は日本について日清戦争から日本の敗戦まで51年分は一貫して「侵略」と「残虐」だけをものすごい分量で教えるのに対し、戦後の日本が平和と友好に努めた70年以上の紹介はゼロに等しいのである。
以上のような中国政府の反日、抗日の基本姿勢は中国全土に築かれた日本軍の「残虐行為」を展示し、保存する記念館、博物館、公園、記念碑にも明示されている。
まずは南京市に建てられた「南京大虐殺」の記念館である。正式の名称は「中国侵略日本軍南京大虐殺受難同胞記念館」とされる。南京事件は毎年、中国の国家最高レベルの記念日とされ、国家主席が南京に出かけてくる。東北部のハルピン市には「七三一細菌部隊証拠陳列館」がある。そして首都の北京市には盧溝橋事件での「日本の侵略開始」を記念する「中国人民抗日戦争記念館」がそびえる。こうした国家施設は中国共産党政権が最重視する歴史の記録として永久保存され、「抗日」、そして反日の国是として内外に誇示され続けるのだ。
この種の施設のなかでも最も強烈なのは同じ盧溝橋地区に2000年8月15日に新設れた「中国人民抗日戦争記念彫刻塑像公園」だった。中国側からみての日本の残酷な侵略行動を文字どおり塑像の彫刻で永久保存して、日本への憎しみ、怒り、怨みを残すという意図を露骨に感じさせる施設である。
この塑像公園は8万6000平方メートルという広大な構内に青銅色のブロンズ塑像が合計38基、配置されていた。個々のブロンズ像は高さ4メートル以上、直径2メートル、一つ一つが「南京での大虐殺」「七三一部隊の魔窟」という個別の案件を表現し、そのすべてに日本軍に撃たれ、焼かれたという中国人男女の姿が無数に彫刻されていた。
第一番目の像は「日寇(日本の賊ども)の侵入」と題され、基台の金属板に「日本の侵略で中国にはなまぐさい風が吹き、血の雨が降るようになった」と記されていた。中国側が「三光作戦」と呼んだ日本軍の地域作戦や、日本側が中国労働者の遺体をまとめて埋葬したとされる「万人坑」も、それぞれ一つのブロンズ像として展示されていた。両方とも中国人男女が苦しみにあえぐ表情がリアルに刻まれていた。ものすごく手間のかかった彫刻の塑像群なのである。
この豪華な塑像群から浮かんでくるのは、日本を敵視し、その日本を撃破して、中国人民を解放したのは中国共産党であり、その歴史は決して忘れない、という国家的な決意である。ちなみにこの塑像公園は開設から24年が過ぎた現在もその巨大な陳列を誇示し、日本の中国大使館の中国観光案内サイトでも大々的に宣伝されている。
私自身は長年の日中両国の折衝を考察した結果、これからの中期、長期の両国関係の展望を思う際には、どうしてもこの塑像公園の光景が照らし出す中国側の日本への認識の基盤を想起してしまう。その結果、さらに思うことは中国への対処は日本の国運を賭けての対立や対決を恐れない覚悟が欠かせない、という総括である。
(終わり。その1、その2、その3、その4、その5、その6、その7、その8、その9)
トップ写真:清明節に南京大虐殺犠牲者記念館で犠牲者を悼む人々。清明節は中国暦の4月5日で祖先や亡くなった人々を悼む(2015年3月28日中国江蘇省南京)出典:VCG/VCG via Getty Images
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この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授
産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。