「令和4年の年賀状」団塊の世代の物語(6)
【まとめ】
・芥川の人生最後の時点での書くことへの執念が、私をして毎晩のように『或阿呆の一生』を聴かないではおられない理由である。
・芥川にしても三島にしても、文章がいまでも読まれることがあるのは、文章の力ということになるのだろうか。
・作者が自殺しているという事実こそが重く、同時代人でない人々にも関心がもたれる理由なのではあるまいか。
夜近く、ベッドをみると嬉しくなります。我が心とは信じられません。スマホで漱石、鴎外の朗読を聴きながら寝入る「喜悦の時間」が、最近の夜ごとの愉しみなのです。
7年前に、「10年は大丈夫ですから、お国のために尽くしてください」と医者に言われたことがありました。つい最近、同じ先生に「まだ10年は行けますよ」と言われました。
その日その日をなんとか生きてきたら、72歳を過ぎていました。酔生夢死。尤も、最近はアルコールとの縁が薄れつつあります。過去に飲んだお酒は、ビールならば小さなプールを満たすほどの量、次いでジン、ブランディを合わせて風呂桶10杯ほどの量でした。
今や後日談です。
縁があって東京広島県人会の会長を務めさせていただくことになりました。広島県にかかわりのある方々のため、残りの時間を使うようにという天命だと受け止めています。
7月、「失われた30年 どうする日本」という連続講演・対談のプロジェクトを始めました。日本がどうして今の日本なのか、これからどうなるのか、なんとしても知りたいのです。
「スマホで鷗外、漱石の朗読を聴きながら寝入る」と書いてある。
実のところ、今も相変わらずだ。先ず、ヘミングウェイの”A Moveable Feast” が来て、次いで日本語の朗読になる。しかし、鷗外、漱石は最近では芥川龍之介に押されっぱなしになってしまっている。
なぜ私は芥川の方に惹かれるのだろうか?
それは彼が、「誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。それは自殺者の自尊心や或は彼自身に対する心理的興味の不足によるものであらう。僕は君に送る最後の手紙の中に、はつきりこの心理を伝へたいと思つてゐる。」(『或旧友へ送る手記』)と書き、そのことになんと義務感を持っていたことまでが告白しているからである。その奇妙な真剣味は深夜にふさわしい。
「僕は何ごとも正直に書かなければならぬ義務を持つてゐる。(僕は僕の将来に対するぼんやりした不安も解剖した。それは僕の「阿呆の一生」の中に大体は尽してゐるつもりである。)」とまで言う。自殺の直前、なんと一カ月前の文章である。自殺するつもりでいる芥川が持っていた書くことへの義務感というのは、いったいなになのだろうか。彼はなにゆえに自らの自殺についての文章を綴ることにそれほど自らを縛り付け、執着したのか。
芥川のそうした人生最後の時点での書くことへの執念が、私をして毎晩のように『或阿呆の一生』を聴かないではおられない理由であると思う。文章を書いて遺すということの不思議さが、夜ごとに私を圧倒するのである。もちろん半ばにも行かないうちに眠りに落ちてしまうのが常なのだが。
アルベール・カミュは「真に重要な哲学上の問題は一つしかない。自殺である。人生が生きるに値するか否かを判断する。これが哲学の根本問題にこたえることなのである。」(カミュ 『シーシュポスの神話」伊藤直 『戦後フランス思想』52頁 中公新書』と言っていた。
カミュについては、私は高校時代、手に入る限りのすべてを夢中になって読んだ。サルトルと対立したという『反抗的人間』もそのなかに入っている。
彼は44歳でノーベル賞をもらっていたうえに、ファセル・ベガという当時のフランス産の最高級車に乗っていて46歳で事故に遭って死んでしまっていた。ガリマール書店という一流の出版社の一族の所有の車で、確か書店オーナーの長男が運転していたと記憶している。その車の外観を私は小学校のときに世界の車の写真集で見て以前から知っていた。ずいぶん昔にはフランス製の自動車に相当の存在感のあった時代があったのである。もちろんシトロエンのDSというシリーズがあって、カミソリのようなフロント部分が印象的なデザインだった。確か、車高が上下する車だった。ときどきこの車に言及した文章に出逢うことがある。
芥川の問題意識は三島由紀夫の自決を思いださせずにおかない。
三島は自決の3か月前に『果し得てゐいない約束――私の中の二十五年』という文章を産経新聞に書いていて、そのなかで彼は「日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。」と予測してみせた。すぐ後には「それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。」と続く。
なんと、戦後25年のときの文章である。50年以上前である。
「私の中の二十五年間を考へると、其の空虚に今さらびつくりする。私は殆ど「生きた」とはいへない。鼻をつまみ乍ら通りすぎたのだ。」と冒頭に三島は書いている。
今年、令和6年はもう戦後79年である。切腹をしなかったとしても、もう三島由紀夫は生きていないだろう。
人は生き、そして死ぬ。それ以上、それ以外のなんでもないのだろうか。
しかし、芥川にしても三島にしても、文章がいまでも読まれることがあるのは、文章の力ということになるのだろうか。現実には、作者が自殺しているという事実こそが重く、同時代人でない人々にも関心がもたれる理由なのではあるまいかと感じもする。現に、芥川は私の同時代人ではない。もっと正確にいえば、文章の上での人気者がなぜか自分で死んでしまったという決定的な事実である。
二人の死は、文学者の死だろう。もっとも重要な哲学上の問題に対する作家としての誠実な回答なのだろう。つまり、カミュの問いに対して「人生は生きるに値しないよ」と身をもって示したということになるのだろう。
「三島みたいに腹を切って死ぬなんてことはできるもんじゃないよ」と、つい最近私に言った人がいる。
しかし、鷗外は「小さい時二親が、侍の家に生まれたのだから切腹ということが出来なくてはならないと度々諭したことを思いだす。」と書いている(『妄想』)。「その時も肉体の痛みがあるだろうと思って、その痛いを忍ばなくてはなるまいと思った」と続くのだ。鷗外の『堺事件』では次々と土佐藩士が切腹して死ぬ。その光景を検分していた外国人が堪らず止めさせたという事実が淡々と書かれている。鷗外にとっては、腹を切って死ぬことは、それほど異常なことではなかったのだろう。
それでも、乃木希典の殉死に鷗外は衝撃を受け、『興津屋五右衛門の遺書』を急ぎ書き上げている。漱石の『心』の先生が明治の精神に殉じたことはいうまでもない。
眠りに落ちるまでの一刻、私は、それまでの自分、俗世を必死に生きている自分とはまったく別の自分を生きていると感じる。
自殺といえば、萩原朔太郎が55歳のとき、『自殺の恐ろしさ』という散文詩を書いている。ビルの5階の窓から遺書を残して投身した自殺者の内面について綴ったものである。
「さあ!目を閉じて、飛べ!そして自分は飛びおりた。最後の足が、遂に窓を離れて、身体が空中に投げ出された。
だが、その時、足が窓から離れた一瞬時、不意にべつの思想が浮かび、電光のように閃いた。その時始めて、自分はと生活の意義を知ったのである。何たる愚事ぞ、決して、決して自分は死を選ぶべきではなかった。」(春日武彦「恐怖の正体」41頁 中公新書)
身体が空中に投げ出された直後といえば、映画「ダイハード」の最後近く、テロリストの親玉が高層ビルの屋上で主人公のヒーローと格闘したあげく、落下してゆくシーンが思いだされる。宙に投げ出された瞬間、もうなにも足掛かりになるものも手掛かりになるものもない空間に落ち込んでしまった瞬間の、その悪玉の表情、なにかとても意外なことが起きてしまったとでもいう顔が印象的だった。他の映画でも何回も真似られている場面だ。
そういえば、未だ大学生だったとき、学生の海外旅行が珍しかった時代に私はヨーロッパ3週間というパッケージツアーに参加したことがあった。そのとき、パリで、ノートルダムから若い女性が飛び降りたのに出くわしたことがあった記憶がある。おどろいた。
自殺者の自殺直前の意識という観点からは、石原慎太郎の第一作『灰色の教室』に描かれている自殺癖のある少年が、睡眠薬を大量に飲んでベッドに入った話を思いだす。ベッドのなかでインクポットの蓋をしめたかどうかが気になり、深甚な恐怖を感じるという場面だ。そこには経験した人間にしか書けない真実味があふれている。私は『我が師石原慎太郎』(幻冬舎)のなかで、
「この場面、初めて読んだときから私にはとても印象に残った。インクポットなど、今の人にはわかるまいが、万年筆よりも以前の時代、人々はインク瓶にペン先をつけては少し書き、またペン先を浸すという繰り返しで手紙や原稿を書いていたのだ。
この一節は自分自身の体験なのだ、と私は直感した。今も感じる。つまり、石原さんの休学の一年の理由はそうしたことだったのかと思うのである。間違っているかもしれない。もう誰もわからないだろうし、石原さんの遺した小説は文学史の一部なのだから、こうした思いつきも許されるだろう。もちろん、当の本人に尋ねたことはない。」(『我が師 石原慎太郎』30頁 幻冬舎)と書いている。
寝入る間際の、ほんの少しの限られた時間。
そこには、深夜の終わりかけた1日という感慨のもとでの、その時間だけに存在する真の自由がある。俗世の拘束からの全き自由である。もちろん、明日の朝も目覚め、1日が回帰するという確実な予感あってのことではある。
だからこそ、毎晩の脱皮のようにそれを繰り返しくりかえし聴かずにおれないのだろう。
「アルコールとの縁が薄れつつあります。」どころか、まったく飲まなくなったのは、少し寂しい。飲んでいたときの愉しかった感覚をまだはっきりと憶えているから、悲しいのだ。ああ、お酒というのは人生のときをなんの理由がなくとも愉しい時間に変えてくれる魔法だったなあという感慨を感じるのだ。
しかし、目の前で飲んでいる人がいても、自分も飲みたいとは思わない。どういうわけか、自然に飲みたくなくなってしまったのだ。
「団塊の世代の物語」(6)
「ありがとう」
三津野からその日のうちに大木に電話がかかってきた。
「驚いたね。彼女、ちっとも変わってないじゃないか」
<それはないだろう>
大木は、事務所のあるビルの1階の入り口に英子を迎えたときを思いだしながら、苦笑した。確かに、英子の手の甲には深い緑色をした静脈がなん本も浮き出していた。
ひょっとしたら、例の手を使ったのか。大木はスマホを耳に押し当てたまま、微笑を浮かべた。
両手を頭の左右にあげ、10秒そのままの恰好でいる。そして手をおろすと、不思議、静脈の太くて濃い緑色の血管が消えているのだ。
大木はそれを銀座のママに教えてもらった。席についていた馴染みのママが急に両手を上げてそのまま静かにしている。どうしたのか、と聞いても答えない。20秒ほどすると手をおろし、大木の前に差し出した。
「ほら」
「へーっ、びっくりだね」
そんなやり取りを10年以上前にしたことがあったのだ。
大木は自分で試してみたこともある。なんとも効果てきめん。しかし、瞬時のことでしかない。
<そういえば、74歳にしてはみょうに顔の皺がすくないタイプではあるかな。手術しているのかもしれないけれど>
女性が自分の顔を気にして美容整形に頼りたい気持ちは、大木にはよくわかる。以前美容整形で財をなした医者に聞いたことがあるのだ。
「そりゃ、しかたがないよ。男のせいさ。美しくなかった女性が美しくなると、それまで寄って来なかった男たちが急に寄って来る。そりゃあ嬉しいさ。だから僕のお客さん集めに宣伝は要らないんだよ。友達がそうなったと聞けば、え、どこで、ってわけで、すぐに僕の名がでてくる。自慢するわけさ。僕は座って待っていればいいってわけだ。女医さんをたくさん雇っている」
ほんとうはそれだけではないことを大木は知っていた。ネット広告をどう使うかの違いなんだと同じ男に聞いたことがあったのだ。
「大木さん、ありがとう」
三津野は心から感謝している様子だった。
「今日もお会いする。
僕はね、彼女のためならなんでもするつもりなんだ。
今日はいっしょに寿司を食べることになってる」
ああ、いつもの久兵夷だなとわかった。
「なんでも、上場企業の少数株をたくさん持っているそうだ。特に親子上場のヤツね。
あれはオレも前からどうかなと思っていたから、大いに岩本さんを助けてあげたい。
そのときには、あんた、大木先生の出番だからな。
逃がさんよ。あんたが開けたとびらなんだからね」
驚いた。
電話口からの大きな声が三津野の高揚した気分をあらわにしていた。
「大丈夫かな」
それが大木の最初の感想だった。三津野は組織で偉くなった人間だった。団塊の世代はほとんどがサラリーマンになっている。そのなかで気の利いた男だけが大きな組織の階段を昇っていく。社長になれると思って入社する人間などいない。
いや、一人いたか。
大木が或る会社の社外監査役をいっしょにやった大阪の会社のトップがそうだった。大阪商工会議所の会頭にもなっていた方だった。
大木が、
「佐藤さん、社長っていつごろから『俺は社長になるな』って自分でわかるものなんですか」と会食のおりにたずねると、
「私は、入社する前からそうおもっとったよ」
と、こともなげに言い放った。
「えっ?会社に入る前ですか。
自分が社長になるだろうって?」
大木が間の抜けた質問をすると、
「ああ。入る前から、って言ってもいいな」
そう答えて、手もとのぶりの刺身を二切れ、器用に箸で摘み上げると、たっぷりの醤油に浸した。
<ああ、こんなに醤油に漬けちゃって。しかも二枚いっしょだから、間にも醤油がたっぷりとついちゃってる>
口には出さなかったが、きっといつもこうなんだろうな、どうも塩分摂りすぎだ、こんなじゃ高血圧になっちゃうんじゃないかと気になった。
佐藤さんは74歳で亡くなった。いまの大木と同じ年齢だった。
佐藤茂勝さんは昭和16年の生まれだった。敗戦時に4歳。戦争の話をしたことはなかった。
「先生と話していると楽しいからね」といつもねぎらってくれた。
大木はコーポレートガバナンスに興味をもっていることもあって、機会さえあれば、たくさんの社長や会長に選任の経緯をたずねることにしているのだ。たいていの方が、『私の履歴書』の定番の答えのことが多い。
「ある日、突然社長に呼ばれた」
という、あれである。
その場で「次は君がやってくれ」と唐突に告げられると、予想もしなかったことなので混乱してしまう。
「はあ、とにかく一日だけ時間をください」
と答えるのが精いっぱいだった、というアレである。
「なんで一日なんだ?」と社長にきかれて
「は、女房に相談したいのです」
と答えたと定番には書いてあるのだ。
大木は、ほんとうだろうかと疑っている。しかし、突然社長に、場合によっては会長に呼ばれて次の社長になるように言われるというのは、そうとうに当たりまえのことのようだという感触はあった。
なに、指名するほうはずっと以前から決めているのだ。しかし、当人に切り出すのは6月の株主総会を控えて、年末くらいが多いようだ。これも伝統的日本の会社の習慣だったと、もはや過去形でいうべきなのかもしれない。
三津野も、「俺なんかよりできる人がいくらもいたんだ。俺が社長に選ばれるなんて自分で思うわけがないさ」といつも言っている。大木とは個人的に親しい仲だといっていい。まんざら、いまさらぼやかしているともおもえない。
それにしても久兵夷か、と大木は思う。久兵夷は大木もよくゆく店だ。オークラの駐車場から入ってすぐのところにある。建て替えの際のホテルとテナントの交渉がこじれて裁判にまでなったと報じられたものだ。だから駐車場のすぐ前か、と誰でも思う。
だが、便利な場所ではある。5階のロビーから階段を降りてきてもすぐの位置なのだ。
安くはないが、確かに旨い。本店よりもおいしいかもしれない。
そういえば、英子はオークラに泊っていると言っていた。
<あぶないな>
そう独りちながら、大木は三津野のためにも英子のためにも心から祝福したい思いが込み上げてきた。
77歳の妻に先立たれた、功なり名とげた男と、長い間つくしてきた事実上の夫をうしなったばかりの74歳の女性。
ふと、「湯上りの肌あたたかき胸ゆえに この国に住み悔ゆることなし」
という歌を思い浮かべた。
作ったのは1919年に生まれた男である。では胸は男の胸か、それとも二人で長崎まででかけたほどの仲だった相手の女性の胸か。
そういえば、オークラは部屋によっては大きな窓から遠くまでみわたすことができるバスルームがあったと思い出した。あそこなら、二人で湯舟につかるのも悪くない。暗くした部屋とうす明かりのバスルームになるな、と勝手に想像してみた。
大人の、それどころか老い先ながくもない男と女なのだ。三津野にしても英子にしても、どこでなにをしても誰にも気兼ねすることもない境遇だ。
大木は少し羨ましかった。英子だということもその一因になっているとはおもいたくなかったが、たぶんそうだった。
<ああ いつも花の女王 微笑んだ夢のふるさと>
同じ1919年生まれの男が、若いころ、戦争に取り巻かれていた重苦しい時代に詠んだ詩だ。
<私の花の女王が、いま、ふたたび人生で大輪の花をさかせるというわけか>
ここはひとつ、おめでとうと言うべきなんだろうな。しかも相手はあの三津野さんじゃないか。と大木は自分に言い聞かせた。
それでも、男らしくってわけかと自分を嗤った。
トップ写真:新鮮なわさびを入したマグロ寿司のイメージ 出典:photo by Chadchai Krisadapong/Getty Images
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この記事を書いた人
牛島信弁護士
1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)
〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。
牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/
「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html