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.社会  投稿日:2024/9/25

相馬高校と灘校 教育でつなぐ未来


上昌広(医療ガバナンス研究所理事長)

「上昌広と福島県浜通り便り」

【まとめ】

・ともに大震災を経験した灘高校と福島高校の生徒が、ボランティア活動を通して交流を深めている。

・交流は、被災地の高校生に大きな影響を与え、進学や将来の目標設定に繋がっている。

・被災地と進学校をつなぐ取り組みは、地域復興の一端を担い、未来への希望を育んでいる。

 

 9月23日、福島民友は朝刊に「最年少市長政治の原点「福島」 震災時、生徒会で交流」という記事を掲載した。取り上げられたのは高島崚輔・芦屋市長だ。昨年4月、当時最年少だった26歳で市長に就任した。

 高島市長と私は、神戸市の灘中学・高校を卒業した同窓生だ。彼が灘に通っていた頃からの知り合いだ。

 私は、毎朝、福島民友電子版に目を通す。高島市長の記事を読むと、彼にメッセンジャーで連絡した。数回のやりとりのあと、「高校生の頃の福島での経験が今に繋がっているなと改めて実感しています。本当にありがとうございました!来月は福島高校の修学旅行生の方々にお話しする機会をいただきました。少しでも恩返しできればと思っています」と返事があった。

 高島市長の人柄が滲み出るメールだ。彼は誠実で、フットワークも軽い。

 私は、このメールを読んで嬉しくなった。灘高校と福島県の交流が、東日本大震災から13年が経過した現在も続いているからだ。

 灘高校の生徒が、東日本大震災後、福島県浜通りの被災地に初めて入ったのは、2012年3月のことだ。

 きっかけは、私から灘高の鴨野博通・数学教諭(現教頭)への電話だ。鴨野先生と私は灘中・高、東大の同期である。鴨野先生は東大工学部卒業後、教師の道を選んだ。東大時代は柔道部の主将を務めた猛者である。

 私が鴨野先生に聞きたかったのは、「阪神大震災後、灘高の受験生成績はどうだったか」ということだ。 

 意外かもしれないが、当時、被災地の住民の大きな関心は、子どもの教育だった。特に、大学受験生を抱える親は、東日本大震災・原発事故が受験に与える影響を心配していた。故郷に留まれば、十分な教育が受けられないなら、親たちは移住せざるを得ない。被災地の復興は、教育に係っているといっても過言ではなかった。

 灘高校は1995年の阪神大震災で甚大な被害を蒙った。私の恩師も亡くなり、体育館は死体置き場となった。私は、同じ被災地の高校として、当時の灘高の状況を知りたかったのである。鴨野先生の回答は「(受験の成績は)例年並みかな」だった。

 そこで、鴨野先生から「実は灘高の生徒が被災地にボランティアにいく。福島県にも行きたがっている。可能なら、引率の前川直哉先生から連絡したい。」との提言があった。すぐに前川教諭から連絡があり、話はとんとん拍子にまとまった。

 余談だが、前川先生は灘高卒。阪神大震災当時、高校3年生だった。現役で東京大学に合格し、京都大学で大学院を終えた後、母校の教員となった。

 彼は、阪神大震災で全国から受けた支援を忘れなかった。当時、担任していた学年を卒業させると、福島に移住し、子どもたちを教育するための「私塾」を開いた。教育こそ、地域の復興の根幹と考えたのだろう。その後、福島大学の教員に任命されたが、現在も、福島に在住し、地域の教育振興に従事している。

 話を戻そう。震災から一年後の2013年3月、灘高の生徒8名と前川教諭、ピーター・ファーガソン教諭が相馬市にやってきた。生徒たちは阪神大震災直後に生まれており、幼少時から震災の話を聞いて育ったそうだ。

 まず、相馬市役所を訪問した。立谷秀清市長から被災当初の状況を聞いた(トップ写真)。「震災当日に難儀したのは棺桶の手配」、「震災の当日の夜に仮設住宅の土地を押さえた」という発言には衝撃を受けたようだ。現場のリーダーの「具体的な苦労話」は現地を訪問しなければ聞くことはない。

 ついで、相馬高校を訪問し、新高校3年の生徒5人、および学年主任の松村茂郎先生と意見交換した。私は1時間ほど同席したが、途中で中座した。後で聞いた話だが、議論は随分と盛り上がったようだ。今度は相馬高校の生徒、先生が灘高を訪問することになったという。

 実は、「相馬高校の生徒で一人、稲村建君という極めて優秀な生徒がいる」と聞いていた。震災までは東北大学に進み、数学を学びたいと考えていたようだ。ところが、「彼が揺らいでいる」と教師は語っていた。

 それは、東日本大震災以降、全国から相馬市に支援者が訪れ、新たな世界を経験したからだ。その一人が、代々木ゼミナールの国語教師の藤井健志先生だった。藤井先生は、「君の実力なら、東京大学でも合格する。考えてみたら」と勧めた。

 稲村君は、東大受験は考えたことがなかったようだ。東日本大震災まで、周囲に東大関係者がいなかったからだ。相馬高校からも10年以上、東大に合格していなかった。そもそも受験していなかった。2011年度入試に限っては名門福島高校ですら、東大に合格していなかった。

 灘高校との交流は、彼に自信を与えた。稲村君は、「相馬高校も灘高校も同じ高校生。やればできそう」と筆者に語った。2013年の入試で、稲村君は無事に東大理科一類に合格する。このあたりの状況は、当時相馬高校の教員だった高村泰広先生が、「相馬高校に東大現役合格をもたらした日本の絆」に記している。是非、お読み頂きたい。

 この交流は、その後、福島県内に拡散した。稲村君の代の学年主任だった松村茂郎先生は、福島高校に異動し、灘高校や藤井先生などと福島高校の交流が活性化した。今年、高島市長のもとに福島高校の生徒が訪問するのは、このような経緯があるためだ。

 これが冒頭にご紹介した記事の背景だ。大災害を経験した福島と神戸の交流がボトムアップで進んでいる。

トップ写真:相馬市役所にて。中央が立谷秀清相馬市長、右端が前川教諭、左端がファーガソン教諭、三人目が筆者。

出典:筆者提供




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