被災地福島を支えた麻田ヒデミ先生の足跡

上昌広(医療ガバナンス研究所理事長)
「上昌広と福島県浜通り便り」
【まとめ】
・昨年末、香川県丸亀市の麻田ヒデミ医師が亡くなった。
・東日本大震災後、先生は健康診断などで被災地を支え、福島支援に大きな役割を果たした。
・彼女の貢献は長期間にわたり、被災地への大きな支えとなった。
昨年末、麻田ヒデミ先生(写真1)が亡くなった。香川県丸亀市で医療機関を経営している医師で、私とは東日本大震災以来のお付き合いだ。麻田先生を中心とした「麻田グループ」が、東日本大震災直後の福島支援で果たした役割は大きい。本稿でご紹介したい。
私が、麻田先生と知り合ったのは、小林一彦・JR東京総合病院内科医長(当時)の紹介だ。小林医師は、私が国立がんセンター中央病院(2001-5年)に勤務していたときに指導して以来の付き合いだ。経緯は不明だが、小林医師と麻田先生は古い付き合いだったらしい。東日本大震災直後、小林医師は何とかして被災地を支援したいと考えた。特に関心があったのは原発作業員だ。彼は麻田先生と相談したようで、麻田先生が保有する医療設備が整った健診車を借りて、Jビレッジに乗り込もうとした。
小林医師は、後先考えずにとりあえず動く。危なっかしくて見ていられないことが少なくない。後日、「なぜ健診車を貸し出したのか」と麻田先生に聞いたところ、彼女は「小林先生は可愛いのよ。応援してあげたくなる」とコメントした。

写真:麻田グループの健診車(2011年5月21・22日、飯館村健診)
出典:筆者提供
健診車は、一台数億円はする高価なものだ。流石に運転手は「麻田グループ」の人だったのだろうが、よくそんなものを素人に貸したものだと思う。この辺、麻田先生は腹が座っている。この時に小林医師と現地に入ろうとしたのが、彼の下で初期研修医をしていた今枝宗一郎医師だ。今枝医師は、名古屋大学医学部在学中から、当時東京大学医科学研究所内にあった我々の研究室に出入りしていた。礼儀正しく、行動力がある。誰からも愛されるキャラだ。最終的に、初期研修医である今枝医師がどこまで小林医師と行動を共にしたのかは知らないが、そのエネルギーには感服させられる。彼はその数年後、自民党から立候補し衆議院議員となる。そして、文部科学副大臣などを務める。権力者になっても、謙虚な姿勢は変わらない。私が注目している国会議員の1人である。このように、東日本大震災直後の福島には、色んな人物が集まっていた。
話を戻そう。事前に何の調整もせず、原発事故の中核であるJビレッジに乗り付けようとしても、無理がある。相手にされる訳がなく、中には入れて貰えなかった。小林医師は途方にくれた。この時、私は小林医師から「どうしたらいいでしょう」と電話で相談を受けた。そこで小林医師に紹介したのが、立谷秀清・相馬市長だ。
立谷市長とは、東日本大震災の数日後、仙谷由人・衆議院議員の紹介で知り合っていた。携帯電話で話すだけで、その実力がわかった。彼なら、小林医師のことも何とかしてくれるだろうと考えた。現に、立谷市長は「お引き受けしましょう」と私に答えた。

写真:麻田グループのスタッフの皆さん(2011年5月21・22日、飯館村健診)
出典:筆者提供
私の勧めに従い、小林医師と「麻田グループ」は、福島県内を北上し、相馬市に入った。そこでは、立谷市長からの依頼で、震災後、不眠不休で働く相馬市役所のスタッフや消防団員の健診を行った。その翌週には釜石市役所を訪問し、職員健診を実施した。これが、麻田先生たちのチームと東日本大震災の被災地のはじめての接触だ。このことをきっかけに、私たちのグループとともに、「麻田グループ」と福島県の人々の交流が始まる。
次は、2021年5月21-22日に実施された飯館村の住民の健康診断だ。菅野典雄・飯舘村村長から、立谷相馬市長を経由して依頼されたのがきっかけだ。私に対して菅野村長は、「住民は皆不安に怯えている。健康のチェックと、ぜひ話を聞いてやってほしい」と依頼した。
菅野村長は優秀な人物だった。情報を集め、冷静に判断していた。原発周辺の自治体では、原発事故直後に取るものもとりあえず避難せざるをえなかったが、避難の最中に多くの高齢者が亡くなった。避難先を転々としたこと、十分な医療体制が整備されていなかったこと、持病を有する高齢者が生活環境の激変についていけなかったことなどが関係している。
原発事故から数日で、飯舘村の汚染が高度であることがわかった。ところが、菅野村長は移転先がはっきりし、準備万端となるまで、村民と共に飯館村に留まることを選択した。この間、早急に住民を避難させず、不要な被曝を与えていると行政の不作為を追求するマスコミや有識者が大勢いた。彼らの発言は、良心からだったのだろうが、机上の空論に過ぎず見当違いだった。そして、被災地の住民を不安に陥れた。
村民健診の打合せをしている時、私は菅野村長に対して、「なぜ、私たちに依頼するのですか」と聞いた。政府や福島県が対応してくれているはずだと思っていた。ところが実態は違った。菅野村長は、「誰に頼んでいいかわからないんです。先生たちしか頼れる相手がいないんです」と回答した。これが原発事故被災地のリアルだ。
私たちは健康診断の専門家ではない。ノウハウも設備も持っていない。医師や看護師、さらに医療系の学生を動員することができるだけだ。ここでも麻田先生におすがりした。彼女に飯館村住民健診のサポートを依頼するために携帯電話に連絡すると、「わかりました。喜んで協力します」とだけ返事があった。
健康診断の当日、麻田先生とともに、「麻田グループ」メンバーがやってきた。新名光伸・運行課課長、篠原裕弥・放射線科科長、東原瑛氏(企画課)らだ。香川県から健診車に乗り込み、新潟経由で飯舘村に入った。二日がかりである。新名さんは元自衛隊のレンジャー部隊。端から見ても、このような行動に慣れていることがよくわかった。彼は麻田先生を心から尊敬し、私たちの会話では「親分」と彼女のことを言った。
初日には、麻田理事長自ら香川県から応援に駆けつけそた。こうやって、何とか飯舘村の健康診断を終えることができた。麻田先生の御厚意で、検査の実費だけを請求し、残りは「麻田グループ」の持ち出しだった。
この健康診断は好評だったようだ。その後、福島県相馬市、川内村など複数の自治体から、数年間にわたり依頼があった。いずれの健康診断も、「麻田グループ」がサポートしてくれた。彼女がいなければ、長期間に渡る原発周辺自治体での健康診断など、とてもできなかっただろう。彼女の被災地への貢献は大きい。
私は、彼女の功績を記録に残したいと思い、この文章を書いた。心からご冥福をお祈りしたい。
トップ写真:麻田先生の自宅にて。左から2人目が麻田先生、三人目が筆者(2024年3月30日、丸亀市)
出典:筆者提供
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