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.国際  投稿日:2025/2/25

日本の若者、必見、世界の5か所 とくにManzanar War Relocation Center について


押味和夫(元順天堂大学医学部血液内科教授)

【まとめ】

War Relocation Center の実態は日系アメリカ人の強制収容所である。

日系アメリカ人の志願兵はヨーロッパ戦線に送られた。

彼らは数々の殊勲を立て、ファシズムと人種差別という2つの敵に勝利したと讃えられた。

 

 日本の若者が世界の5か所を見るならどこを見るべきか。数人の友人に聴いて、彼らの意見を参考にしながら、80歳の私がこれまでの経験を基に、1位から5位までを選びました。

1.アウシュヴィッツ強制収容所

2.ベルリンの壁

3.Manzanar War Relocation Center

4.広島の原爆ドームと平和記念資料館

5.長崎原爆遺跡

 

他に見て欲しい場所としては、沖縄戦の戦争遺跡、真珠湾、知覧特攻平和会館、オホーツク海の流氷、北方領土の貝殻島が見える根室市納沙布岬の丘、などです。最後の2か所は、北海道に住む私としてはぜひお薦めしたい場所です。とくに北方領土が見える根室の納沙布岬は、全国の高校生に修学旅行でぜひ訪れて欲しい場所です。

 

 Manzanar War Relocation Centerとは

私がお薦めします1位から5位までのうち3位のManzanar War Relocation Centerを除いて皆さんよくご存じのはずですので、ここではManzanar War Relocation Centerについて書きます。

 War Relocation Center あるいはJapanese American Internment と呼ばれる場所はアメリカ本土に10カ所ありますが、その実態は日系アメリカ人の強制収容所です。しかし彼らは強制収容所とは言いませんので、Manzanarの強制収容所もここでは彼らが言うようにManzanar War Relocation Centerと呼ぶことにします。次の2つの写真がそうです。なおManzanarはスペイン語で 「リンゴ園」 を意味します。

 

写真)Manzanar War Relocation Center (2009)

筆者提供

写真)Manzanar War Relocation Center (2009)

筆者提供

 Manzanar War Relocation Centerは2009年の元日に訪れました。Death Valleyにいたとき、西隣りのOwens Valleyに日系人の強制収容所があるのをガイドブックで見つけ、何の予備知識もなしに、地図を頼りにこの写真の場所に行き着いたのです。西に向かうと3,000m、4,000m級のSierra Nevada山脈が聳え、砂漠のような土地にバラック建ての建物が残っていました。

このバラック建ての強制収容所の内部は、後になって復元・公開されました。次の特集記事の写真の10枚目です。https://globe.asahi.com/article/13249096 

これを見ますと狭いベッドが並んで置いてあるだけで、隣りのベッドとの間に仕切りはなく、プライバシーは全くありません。トイレにも仕切りはありませんでした。しかし入所者は工夫を重ねて、徐々にカーテンや壁板などで仕切りを作っていきました。

 有刺鉄線で囲まれた収容所の周りには、8つのGuard Towerがあったそうです。しかし私が訪ねたときGuard Towerは撤去されていて見当たりませんでしたが、後になってこのように1塔だけが復元されました。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Manzanar_(2013)_05.JPG#/media/File:Manzanar_(2013)_05.JPG

Guard Towerと言いますが、一体これは誰を守っていたのでしょうか。収容所内の日系人でしょうか。いえ違います。銃口は日系人に向いてました。脱走しようとして射殺された日系人が数人います。

 このManzanar War Relocation Centerには、多いときには1万人を超える日系人が収容されていました。なお日系人とは厳密には日本から外国に移住した日本人の子孫を指しますが、これらのWar Relocation Centerには一世の日本人もいましたので正確には日系人とは呼べませんが、ここではまとめて日系人と呼ばせていただきます。

 

 日系アメリカ人の強制収容所について

日系アメリカ人の強制収容所は、下の地図に示しますように、米国本土では★印の10か所に作られました。もちろんManzanarはその1つで、赤枠で囲ってあります。

図)米国本土の日系アメリカ人強制収容所

出典)Britannica

この地図の中の太平洋岸沿いのピンク色の地域がExclusion areaです。Exclusion areaに住んでいた日系人は強制的に排除されて、10カ所の収容所のいずれかに送られました。当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは、日本による真珠湾攻撃を考えると、日本軍がこの地域の日系人と合流して太平洋沿岸からアメリカ本土に侵攻する可能性が高いと判断して、1942年2月、大統領令9066号に署名し、強制的にこの地域の日系人を排除することを決定したのです。

この地域から強制排除されたのは、アメリカ国籍を持たない日本人、アメリカ国籍を持つ一世移民、その子孫で16分の1以上の日本人の血液を持つ日系アメリカ人の、合計12万人でした。日系アメリカ人が3分の2、日本国籍者が3分の1を占めてました。

移住のために与えられた準備期間は1週間で、移動時に持ち運ぶのが許されたのは両手に持てるだけの荷物でした。多くの移住者は自宅や農場、事務所などの全ての財産を失うか、二束三文で売り払うことになりました。

 1942年から1946年までの強制隔離の間、各地に収容された日系人はどのような生活を強いられたのでしょうか。

すべての収容所は人里離れた内陸部にあり、その多くは砂漠地帯でした。住居はいずれも急ごしらえの木造バラック建てというお粗末なもので、その後もまともな家に建て替えられることはありませんでした。暖房も冷房もなく、砂塵が容赦なく部屋の中に吹き込みました。それでも彼らは、砂塵を防ぐために壁や床板の隙間を塞ぎ、日本庭園を造ったり野球やバスケットボールに興じたりして楽しんだようです。Manzanarには今でも日本庭園の池の跡が残っています。コロラド州Granadaでは、墓地、貯水池、井戸、タンクなどの保存運動が起きているそうです。

写真)Manzanar War Relocation Center

筆者提供

 

 再びManzanar War Relocation Centerについて

Manzanarでは、有刺鉄線が張り巡らされた収容所の外側でも、畑を作って野菜の栽培を始めました。最初は監視人が配置されていたのですが、脱走する者はいないというので、自主管理になりました。豊作だった年のトマトは、他の町に売りに出して大儲けしたそうです。

Manzanarの収容所内で亡くなった人は150人に上りますが、その多くが乳幼児や未熟児でした。今でも大きな慰霊塔が残っていて、その横には見事な字で、「千九百四十三年八月 満砂那日本人建之」と書いてあります。「日本人」と明記してあるのです。慰霊塔の下には、引き取り手のない小さな墓がまだいくつか残っていました。

写真)Manzanar収容所 慰霊塔

筆者提供

写真)Manzanar収容所 お墓

筆者提供

Manzanar の収容所で医療関係者はどのような仕事をしていたのでしょうか。収容所が開かれるとすぐに病室が2つ作られ、ロサンゼルスの病院から日系人の外科医が来て診療を始めました。やがて病室は250床まで拡張されました。強制収容された日系人のなかには4人の歯科医がいて、11人の助手と毎日60~70人の外来患者を診ていたそうです。Manzanar病院では看護学校の日系人の生徒が米国人の看護師長の指導で看護師の資格を取り、伝染病予防のための腸チフスワクチンを打ったり、540人の赤ちゃんを取り上げたりしました。 [Images of America, Manzanar] (2008, Arcadia Publishing)

 日系アメリカ人の志願兵は、太平洋方面ではなくヨーロッパ戦線に送られました。第442連隊戦闘団です。彼らは勇猛で数々の武勲を立てましたが、死傷率は極めて高かったそうです。Manzanarの復元されたInterpretive Centerに展示してあるサダオ・ムネモリ(旨森貞雄)上等兵ですが、イタリアのピサに近いセラヴェッツァでドイツ軍と闘い、ドイツ兵が投げた手榴弾を体で覆って爆死し、塹壕にいた2人の仲間を救いました。もう少しで終戦という1945年4月のことです。

写真)Manzanar Interpretive Center展示サダオ・ムネモリ(旨森貞雄)上等兵

筆者提供

ムネモリの母は、「日本人として祖国アメリカのために闘いなさい」 と言って、息子を送り出しました。激戦を繰り返すうちに彼より上の兵士は死ぬか傷つくかして、若かった彼が部隊の指揮官になり、部下を救おうとして自ら犠牲になったようです。彼はこの勇敢な行為によって、軍の最高の名誉勲章Medal of Honorを受章しました。イタリアのピサの近くに彼のブロンズ像があるそうです。ロサンゼルス空港へ向かうハイウエーのインターチェンジには、彼の名前が付いているそうです。この展示板の下方に母親の写真がありますが、これは彼のポケットから出てきた遺品で、Mom, Thanksgiving 1941と書いてあります。

 

日系アメリカ人の強制排除・強制移住に対するアメリカ政府の謝罪と賠償 

 日系アメリカ人の強制排除・強制移住についてのアメリカ政府による謝罪と賠償ですが、1976年2月19日、ジェラルド・R・フォード大統領は大統領令9066号の正式な終了を確認する布告「アメリカの誓い」 に署名し、我々は当時から理解すべきだったことを今日になってようやく理解した、日系人の強制収容は誤りだっただけでなく彼らは当時も今も忠実なアメリカ人である、と述べました。

1988年8月10日、ロナルド・レーガン大統領は「市民の自由法」(日系アメリカ人補償法)に署名して、日系アメリカ人の市民としての基本的自由と憲法で保障された権利を侵害したことに対し、国を代表して公式に謝罪しました。また1人当たり2万ドルの賠償金が生存者に支払われ、全米の学校で日系人の強制収容に関する教育を行う為に総額12億5千万ドルの教育基金が設立されました。レーガン大統領はさらに次のように讃えました。日系アメリカ人の第442連隊戦闘団はヨーロッパ戦線でダッハウのユダヤ人強制収容所の解放というアメリカ陸軍として最高の殊勲を立てただけでなく、ファシズムと人種差別という2つの敵と闘いその両方に勝利した。

2000年、クリントン大統領はホワイトハウスに日系アメリカ人兵士やその家族を招き、次のように演説し、彼らの活躍を讃えました。この演説は、読む毎に目頭が熱くなります。

(この記事は、MERIC by 医療ガバナンス学会 Vol.25033 「日本の若者、必見、世界の5か所  とくにManzanar War Relocation Center について」2025.2.21 の転載です)

 

押味和夫 略歴

1971 東大医学部卒業 同 東大医学部附属病院内科研修医 

1972 米国 New Jersey College of Medicine and Dentistry 内科インターン 

1973 米国 University of Louisville School of Medicine 内科レジデント 1974 東大第3内科医員 同 自治医大アレルギー膠原病科助手 

1978 自治医大アレルギー膠原病科講師 

1980 東京女子医大血液内科講師 

1988 同助教授 

1992 同教授 

1994 順天堂大学血液内科主任教授 

2007 第49回日本臨床血液学会総会 会長 

2008 Eisai Research Institute of Boston, Medical Research Advisor 2012 釧路労災病院血液内科 

2012 つるい養生邑病院内科 2024 日本血液学会功労賞受賞

 

トップ写真)マンザナー収容所・移転センター跡地にあるマンザナー墓地記念碑の全景 -2024年9月22日 カリフォルニア州マンザナー

出典)AaronP/Bauer-Griffin/GC Images

 




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