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.国際  投稿日:2025/4/30

ベトナム戦争からの半世紀 その7 この闘争の起源


古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)

「古森義久の内外透視」

【まとめ】

・ベトナム戦争の起源は、フランスの植民地支配に対するベトナムの民族独立闘争。

・第二次世界大戦中、日本軍の進駐がフランスの植民地支配を事実上終わらせ、ベトナムの独立につながった。

・第一次ベトナム戦争後、ジュネーブ会議で南北ベトナムが分断され、その後の武力闘争がアメリカの介入を招き、ベトナム戦争へと発展。

 

南ベトナムでの報道活動は戦時中とはいえ、楽しい部分もあった。日本の新聞記者だというと多くの人々が好意的な反応をみせてくれるのだ。街の普通の人たちから政府や軍の要職にある人たちまで同様だった。私はベトナム語を少しずつ学んだが取材には不十分で、英語に頼った。政府の関係者はみな英語での意思疎通は円滑だった。フランス語を子供のころから学んでいた人たちが多いことも英語での会話を容易にしたようだ。

そんな取材対象のなかに南ベトナム政界の長老とされるチャン・バン・ド元外相がいた。

ド氏はベトナムの南北分断を決めた1954年のジュネーブ会議の南ベトナム政府首席代表だった。1967年までに南ベトナム、つまりベトナム共和国の副首相や外相を務めた。

フランスで高等教育を受け、フランスの医師資格をとり、ベトナムに戻っても当初は医師だった。私がある人の紹介でド氏を知り、話を聞くようになったときは彼はもう70代だった。時のグエン・バン・チュー政権とはやや距離をおいていた。

ド氏をサイゴン中心部の自宅に訪ねると、いつも温かくもてなしてくれた。南ベトナムの政情について尋ねるのが主だったが、ド氏の長い政治歴をたどり、このベトナム戦争の起源の部分の話を聞くことも有益だった。彼はフランス語なまりのある英語を流暢に話した。

もっとも私はとくにド氏から聞かなくても、ベトナムの民族独立闘争の歴史はそれまであれこれと調べて、その概略は知っていた。この戦争のそもそもの発端はベトナム民族がフランスの植民地支配を排そうとして民族独立闘争だった。

1887年10月、フランスはベトナム側との数回の戦争を経て、ベトナムを支配するインドシナ連邦の成立を宣言した。日本側ではこの地域を仏印と呼んだ。ベトナムとカンボジア、そして後にラオスを含む植民地だった。フランスはいわゆる欧米列強とされた植民地支配のパワーのなかでも、植民地の統治は巧みだった。基本的にはベトナムの国家資源を搾取しながらも、経済のインフラ建設や医療、衛生、教育、福祉、通信などベトナムを近代国家へと発展させた。

だが宗主国に支配される植民地側の常としてベトナムでも当然ながら反フランスの独立運動が起きた。明白な動きは1930年ごろからだった。1930年には北部のイエンバイ省でベトナム国民党を名乗る一団が武装蜂起をした。すぐにフランス当局に鎮圧されたが、象徴的な意味は大きかった。同じ1930年、ホー・チ・ミンがインドシナ共産党の設立を香港で宣言し、改めてベトナムの独立を求めた。その後の独立闘争は複雑な過程をたどった。その事情をチャン・バン・ド元外相は丁寧に説明してくれた。

「フランスの植民地支配と闘うという勢力は当初、ベトナム国民党、大腰党、共産党など多様でした。あらゆる政治イデオロギーを越えて各派が民族の独立を目指すという状況でした。だがそのなかでホー・チ・ミンの率いる共産党が他派を排除していきました。マルクス・レーニン主義を信奉しないという勢力は暗殺や欺瞞などあらゆる手段で除去されていったのです。民族主義者であっても共産主義者でなければ、真の愛国者ではないという鉄の規律が築かれていったのです」

このベトナムの独立闘争に決定的な影響を与えたのは実は日本だった。日米戦争の直前の1940年、日本軍が北部ベトナムに進駐した。翌1941年には南部ベトナムにも日本軍が派遣された。この動きはフランス本国がドイツに占領され、親ドイツの傀儡とされたビシー政権が成立し、当時の日本との協調関係ができた結果だった。

だから日本軍はアジアでのアメリカ、イギリス、フランスなどとの戦争に備え、ベトナム領内に基地を建設した。いざ開戦となると、その航空基地から日本軍の攻撃機や爆撃機が出撃して、欧米軍に打撃を与えた。その間、ベトナム国内では日本軍とフランス植民地軍が表面では友好を保ちながら共存していた。

ところが1945年、欧州ではドイツの敗北が確実となった。太平洋戦線でも日本軍の後退が決定的となった。ベトナムでは植民地軍がこの情勢に反応して、日本軍への敵意をちらつかせるようになった。その危険を察知した日本軍は1945年3月、ベトナム、ラオス、カンボジアでフランス植民地軍の将兵を武装解除と称して、一斉に拘束した。この結果、フランスの何十年にもわたったベトナムの植民地支配が事実上、終わったのだった。

その結果、ベトナム南部ではバオダイ帝がベトナム帝国の独立を宣言した。半年、遅れて1945年9月、日本の降伏を受けて、ベトナム北部ではホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の樹立を宣言したのだった。日本軍がフランスの植民地支配に終止符を打ったといえるのだ。この点についてド氏は当時の私にとってきわめて意外なことを語った。

「ベトナムに駐留した当時の日本軍はきわめて規律が厳しく、ベトナム側への悪事と呼べることはまずしませんでした。ベトナム領内で戦闘をすることがなかったせいもあるのでしょうが、住民との接触も自制されていました。当時のベトナム人も日本軍を畏怖していたといえますが、敵意や憎悪という反応はほとんどなかったのです」

当時の私は「アジア諸国に出撃した日本軍は残虐行為を働き、地元住民からは憎まれた」という教育を受けた世代だったから、ベトナムでの日本軍が地元住民からむしろ好意さえ抱かれていたという話にはびっくりしたのだった。その後のベトナム滞在で私はこの点を他の多くの中高年以上の市民たちにも尋ねてみた。だがみな日本軍は悪いことはしなかったという答えが返ってきた。

さてその日本軍が去り、民族解放勢力が独立を宣言したベトナムに対してフランスが依然、宗主国の権利を主張して、植民地支配を続けようとした。独立勢力の武力での抵抗に対してフランスは大規模な軍隊を送りこみ、鎮圧を図った。新たな戦争の始まりだった。このベトナムの抗仏闘争は第一次ベトナム戦争とか第一次インドシナ戦争と呼ばれた。

この戦争は8年以上も続いた。都市部はフランスが支配し、べトミン(ベトナム独立同盟)が山間部で活動するという構図で武力衝突が延々と展開された。べトミンは実態としては共産党があくまで主力だったが、表面的には「共産主義」を後退させ、ベトナム共産党も公式名称をベトナム労働党へと変えていた。

この第一次ベトナム戦争のクライマックスが1954年の北部山岳地帯ディエンビエンフーでの激戦だった。それまで各地の小規模な戦闘に応じてきたフランス植民地軍はディエンビエンフーの要塞に1万数千の兵力を終結させ、べトミンへの決戦を挑んだ。だがこの戦いで後に名将とされたボー・グエン・ザップ将軍指揮下のべトミン軍が大方の予想に反して、このフランス軍の要衝を攻略してしまったのだ。フランス軍将兵の多数が降伏し、べトミン側の捕虜となる光景が全世界に流され、衝撃を生んだ。

この結果、フランスは公式にベトナムの植民地支配を放棄した。そのための国際協議が1954年にスイスのジュネーブで開かれた。10数ヵ国が参加する国際会議だった。フランスはベトナム北部のベトナム民主共和国と南部のベトナム国をそれぞれ独立国家として認めた。私がサイゴンで話を聞いたチャン・バン・ド氏はこの南部のベトナム国のジュネーブ会議での代表だったのだ。

この会議は南北ベトナムの住民の国内での移住を認め、2年後の1956年には全土の総選挙を実施して、ベトナム全体の将来を決めるということになっていた。だが南ベトナムの代表はその総選挙という部分には合意していなかった。ド氏が当時を回顧して語った。

「北ベトナムはすでに共産主義国家としてソ連や中国の全面的な支援を得ていました。一方、南部のベトナム国はフランスやアメリカとも友好的な絆を保っていたから、その政治体制の違いは大きかった。当時はアメリカとソ連が正面から対立する東西冷戦の最中です。その政治体制の相違のために当時の北ベトナム住民の200万人もが南部への移住を求め、実際に移りました」

それ以後に北ベトナムが武力で南ベトナムという国家を倒そうとする闘争が始まったわけである。その闘争がアメリカが介入してのベトナム戦争へとつながっていく。だからその戦争は一部では第二次ベトナム戦争とも呼ばれたのだった。

(その8につづく。その1その2その3その4その5その6

トップ写真:ディエンビエンフーの戦い 出典:Apic/Getty Images




この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授

産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

古森義久

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