福島・浜通りが野球界にもたらした「炭鉱の気骨」と「武士の精神」

上昌広(医療ガバナンス研究所理事長)
【まとめ】
・磐城高校の野球部は県内屈指の名門、福島県立磐城高校は文武両道の伝統を受け継いでいる。
・浜通りの復興は、野球を介して様々な人物が交叉する。
・磐城は、武士精神を継ぐ城下町の気風と炭鉱がもたらした開かれた文化が交錯した地。
11月8日と9日、阪神甲子園球場で「マスターズ甲子園」が開催される。2004年に始まったこの大会は、今年で第22回を迎える。全国各地の地区予選を勝ち抜いた20チームが出場する。
今回、福島県からは県立磐城高校OBチームが出場する。東日本大震災以降、私は福島県浜通りの方々とご縁を持つようになったが、感心させられるのは、彼らがいまもなお文武両道の伝統をしっかりと受け継いでいることである。
磐城高校は、この地域を代表する進学校である。東京大学医学部に進学した卒業生もおり、私の一学年下で現在ナビタスクリニックの小児科医として活躍する高橋謙造医師もその一人だ。
私が育った関西では、進学校とスポーツの強豪校が分かれていることが多いが、福島は異なる。たとえば、2000年以降だけでも、磐城高校ラグビー部は4度、相馬高校男子バレー部は15度の県大会優勝を誇る。
私が取り組んできた剣道について言えば、福島県内でも屈指の進学校である福島高校から筑波大学に進学した原田悟氏が、2005年の全日本剣道選手権大会で優勝している。学業とスポーツの両輪を重んじる伝統が、今も息づいている。
冒頭で触れた野球もまた例外ではない。磐城高校の野球部は県内屈指の名門として知られる。2000年代に入り聖光学院の台頭により甲子園からは遠ざかったものの、これまで夏の全国高校野球選手権大会に7回出場している。昨夏は準決勝で聖光学院に10対5で敗れ、最後の甲子園出場は1995年である。なお、前述の相馬高校もその年、ベスト4に進出している。
1971年夏、磐城高校は夏の甲子園大会で準優勝を果たし、その名を全国に轟かせた。
エースの田村隆寿投手は、全試合で先発・完投し、決勝戦でもわずか1失点という圧巻の投球を見せた。身長165センチ前後と小柄ながら、緻密な制球と卓越した投球術で「小さな大投手」と称された。その活躍は、漫画『ドカベン』の主人公・里中智のモデルではないかとされ、「いわき東高校=磐城高校」「里中=田村」という説が広く語られている。
磐城高校の快進撃は、いまも高校野球史に刻まれる伝説である。
この活躍は偶然ではない。前年にも夏の甲子園に出場し、1回戦でPL学園に敗れたものの、延長戦にまでもつれ込む接戦(2対1)を演じた。さらに1975年には諫早高校(長崎県)と秋田商業(秋田県)を破り、ベスト8に進出している。地元で最難関の進学校である磐城高校の野球部が、なぜここまで高い競技力を維持できたのか――その背景は実に興味
深い。
あまり注目されることはないが、浜通りが野球界に果たしてきた貢献は大きい。前述の田村隆寿氏は日本大学を卒業後、地元に戻り、母校・磐城高校や聖光学院の野球部監督を務めた。いまや全国的な強豪校として知られる聖光学院は、1991年、田村監督の指導のもとで福島県大会を初制覇している。
この地域で忘れてはならないもう一人の野球人が、江川卓氏である。1955年、栃木県西那須野町(現・那須塩原市)に生まれたが、父の転勤により幼少期をいわき市で過ごした。父は新潟出身の鉱山技師で、古河好間炭鉱(いわき市好間町)に勤務し、坑道支柱の設計や建設に携わっていたという。
江川少年はこの時期、地元の小学校に通いながら、友人たちと白球を追い、野球に親しんでいたという。この体験こそが、後に「怪物」と称される野球人生の原点となった。
江川氏自身も後年いわきを訪れた際、「自分の野球の出発点はいわきにある」と語っている。余談ながら、作新学院で江川氏の女房役を務めた小倉偉民氏は、福島県伊達郡桑折町出身の衆議院議員・亀岡高夫氏の養子となり、その地盤を継いで衆議院議員に当選した経歴を持つ。
また、1971年の夏の甲子園で磐城高校を破って優勝した桐蔭学園の主将・土屋恵三郎氏は、のちに法政大学へ進学し、江川氏とバッテリーを組んだ。その後、母校の監督として高橋由伸(元読売巨人監督)ら多くの逸材を育成した。甲子園優勝こそ果たせなかったものの、名指導者として知られる。桐蔭学園を退いた後は星槎国際高校野球部の監督に就任し、この星槎グループは東日本大震災以降、浜通り地域の教育支援を続けている学校法人として知られている。浜通りの復興は、このように野球を介して、様々な人物が交叉する。
繰り返すが、この地域は進学校がスポーツも強い。なぜ、この地域で文武両道の伝統が育まれたのだろうか。
私は二つの要因を考えている。一つは城下町だったことだ。この地域を治めたのは譜代大名たちであり、その中核を担ったのが安藤家の磐城平藩である。当主はいずれも優秀で、第五代藩主・安藤信正は老中として幕政を主導した。幕末、坂下門外の変で失脚し、強制隠居と所領の減封(7万石から4万石)を受けたが、その後も幕府への忠誠を貫いた。戊辰戦争では、磐城平藩は旧幕府方として奮戦し、平城は激戦の末に落城したが、その忠節は東北諸藩の中でも高く評価された。安藤家は武士の文化を引き継ぐ、気骨がある家だったのだろう。
磐城高校は、旧磐城平藩の藩校「日知館」の流れをくむ学び舎であり、校地は旧平城下に位置する。藩主・安藤家が重んじた文武両道の精神は、今も校風の根幹をなしている。
この地域のもう一つの特徴は、「寄せ集め集団」としての多様性である。その基盤を形作ったのが常磐炭田の存在だ。最盛期の1950年代には年間約700万トンを産出し、北海道の釧路炭田、九州の筑豊炭田と並ぶ日本三大炭田の一つとして栄えた。全国から労働者とその家族が集い、文化や価値観が交錯した。江川家もその一例である。
伝統的に城下町では武道が盛んで、海外から「輸入」された球技は根づきにくい。港町として早くから開かれた横浜や神戸とは対照的だ。しかし、いわきは異なる。多様な人々の流入が、新たな文化を受け入れる土
壌をつくり、野球文化を地域に根づかせたのだ。
映画『フラガール』に描かれた世界も、まさにこの風土が育んだ象徴である。
武士の精神を受け継ぐ城下町の気風と、炭鉱がもたらした合理的で開かれた文化が交錯した地――それが磐城である。伝統と多様性が響き合うこの地域には、常に新しい時代を切り拓く力があった。
東日本大震災で甚大な被害を受けた今も、その精神は決して失われていない。むしろ逆境の中でこそ、人と人の絆、地域への誇りが磨かれ、次の世代へと受け継がれている。
文武両道の伝統を礎に、困難を力へと変える磐城の伝統に期待したい。
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出典:Buddhika Weerasinghe /Getty Images
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この記事を書いた人
上昌広医療ガバナンス研究所 理事長
1968年生まれ。兵庫県出身。灘中学校・高等学校を経て、1993年(平成5年)東京大学医学部医学科卒業。東京大学医学部附属病院で内科研修の後、1995年(平成7年)から東京都立駒込病院血液内科医員。1999年(平成11年)、東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。専門は血液・腫瘍内科学、真菌感染症学、メディカルネットワーク論、医療ガバナンス論。東京大学医科学研究所特任教授、帝京大学医療情報システム研究センター客員教授。2016年3月東京大学医科学研究所退任、医療ガバナンス研究所設立、理事長就任。

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