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.社会  投稿日:2022/10/12

仙谷由人・元官房長官の命日に寄せて


上昌広(医療ガバナンス研究所理事長)

「上昌広と福島県浜通り便り」

【まとめ】

・仙谷由人氏はわが国の医療にとってかけがえのない人物だった。福島県立大野病院産科医逮捕事件でも氏の対応から多くを学んだ。

・「警察も検察も法務省も影響を考えずに動くことがけしからん、困るのは患者だろう!」と怒り、国会で取り上げた。マスコミも動いた。

・「分娩休止」が報じられ「医療崩壊」が国民のコンセンサスとなった。仙谷氏は、医療に関することは超党派で汗をかいてくれた。

  

10月11日は仙谷由人・元官房長官の命日だ。亡くなってから4年が経過した。あまり知られていないが、仙谷氏はわが国の医療にとってかけがえのない人物だった。彼が存命なら、コロナ対策の迷走も現在とは違ったものになっていただろう。本稿では、仙谷氏の医療、特に産科医療にまつわるエピソードをご紹介したい。一部は、過去に紹介したことがある内容だ。現状に合わせてアップデートしたい。

私が仙谷氏と知りあったのは、2005年の国立がんセンター(現国立がん研究センター)中央病院在籍中の時だった。当時、仙谷氏は2006年に成立した議員立法のがん対策基本法に取り組んでいた。胃がんを患い手術を受けた経験からも、がん医療を良くしたいという熱意を感じた。2005年10月、筆者は国立がんセンターを辞職し、東京大学医科学研究所に異動した。付き合いが本格化したのは、それ以降だ。

2006年2月18日に福島県立大野病院産科医逮捕事件が起こった。その時の仙谷氏の対応から筆者は多くを学んだ。

筆者が、この事件に関与するようになったきっかけは、3月5日、逮捕された医師をよく知る亀田総合病院の鈴木真医師から「とんでもなくおかしなことだ。何とかしたい。応援して欲しい」と連絡があったことだ。

その時、私は鈴木寛・参議院議員(当時)と京都にいた。西田幸二・大阪大学医学系研究科教授(眼科)や森勇介・大阪大学工学系研究科教授(電気電子情報工学)らとともに、『賀茂川塾』という勉強会を開催していた。

私が「産科医が業務上過失致死で起訴されるらしい」と事件の概要を鈴木氏に伝えると、彼は表情を変えた。そして、「そんなことが起こったら、医療は崩壊する」と言った。

当時、私は鈴木氏と共に「現場からの医療改革」をモットーに活動を始めたところだった。鈴木氏がすぐさま連絡したのが、仙谷氏だった。国会議員になる前、仙谷氏は弁護士だった。刑事事件を皮膚感覚で知っている。多くの事件に関わり、優秀な弁護士だったようだ。例えば、1969〜71年にかけて発生した土田・日石・ピース缶爆弾事件だ。18名が逮捕、起訴されたが、全員が無罪となった。

贈答品に偽造した郵便爆弾が爆発し、妻を亡くした土田國保・警視庁警務部長(当時、後の警視総監、防衛大学長)は、筆者が学生時代に所属した東京大学運動会剣道部の先輩だった。世代の近い方からは「仙谷(の弁護)にやられた」という話を聞いた。後日、このことを告げると、仙谷氏は「事件があった時間帯に1人だけパチンコをしていたのがいたのよ。アリバイが証明され、検察の主張は信頼されなくなったのよ」と語った。

話が脱線した。元に戻そう。鈴木議員から連絡を受けた仙谷氏はすぐに動いた。私は議員会館の仙谷氏の部屋で、事情を説明した。仙谷氏は目を閉じて黙って全てを聞いていたが、私の説明が終わると同時に目を見開いて、「メッ」と大喝した。そして「こんな大きな問題なのに、警察も検察も法務省も、考えもなしに動くことがけしからん。この事がどんな影響を与えるか。困るのは誰なんだ、患者だろう!」と怒った。その表情は沈痛だった。私はそれまで、医療関係者以外で、仙谷氏のように大きな憤りを表明した人を見たことがなかった。

当時、医療系団体は厚労省にアプローチしていたが、仙谷氏は「そんなことやっても無駄。起訴するのは検察なんだから。法務省に言わんと」といって、司法研修同期の法務省幹部に電話した。法務省幹部には「あれは筋が悪い。もう数日早ければ、起訴はとめたのに。今さら無理だ」と言われたそうだ。

仙谷氏は「こうなれば法務省にアプローチをしても動かない。世論勝負するしかない。メディアがどう報じるかだ」と言った。法務大臣のような権力者に「陳情」しても、もはやどうにもならないと判断したようだ。

すると、鈴木氏は「すぐに支援の会を立ち上げて、署名活動をしよう」と提案した。当時、医療界では幾つかの署名活動が始まっていた。筆者に、この事件を伝えてくれた鈴木医師が所属する亀田総合病院でも院内で署名活動が始まっていた。まず私はこのようなグループと連絡をとった。

3月9日に、加藤医師の恩師である佐藤章・福島県立医科大学産科、婦人科教授に連絡がつき、私は「国会議員の仙谷氏、鈴木氏が応援してくれる」と伝えた。佐藤教授からは「はじめて支援してくれるという人が現れた。どこにでも伺う」と言われた。翌日、都内で初めて佐藤教授と仙谷氏を含む我々のチームが面談した。

我々は有志を募り、『周産期医療の崩壊をくい止める会』を立ち上げた。代表は髙久史麿・日本医学会会長にお願いした。髙久氏は東京大学第三内科の恩師で、医療界でずば抜けた実力の持ち主だ。「これは放置できない。喜んで協力する」と快諾いただいた。別の医学界の重鎮にもお願いしたが、「立場上出来ない」と断られた。

▲図1 署名の進行状況 松村有子氏(東京大学医科学研究所、当時)作成 ※Drは医師、Nsは看護師、助産は助産師を意味する。

3月10日午前1時30分、インターネット上で署名活動を開始した。当日の12時30分には署名は700人を超え、急速に広まった(図1)。当時、電子署名のアプリなど存在するわけもなく、メールやFAXで送られてくる署名をスタッフは徹夜で整理した(写真1)。

▲写真1 東大医科学研究所の研究室での署名集計の光景。左から湯地晃一郎医師、濱木珠恵医師、松村有子医師(筆者提供)

3月17日、前日までに集まった6,520名の医師を中心とした署名を、佐藤教授から川崎二郎厚労大臣(当時)に届けた(写真2)。衆議院会館で記者会見も行った。筆者も参加したが、人生で初めての経験だった。

▲写真2 左から海野信也・北里大学産科主任教授、佐藤章・福島県立医科大学産科、婦人科教授、川崎二郎厚労大臣(筆者提供)

国会では、3月17日に仙谷氏が厚労大臣や法務大臣に質問を行った。筆者が記憶に残っている発言は以下だ。

「事件の論評をしますと弁護士と検事が何か論争しているようになりますからやめますけれども、しかし、捜査で、最初、一回の取り調べが一年ぐらい前にあって、その後に急に一挙に逮捕して持っていった、それで勾留をした。こういう突発性湿疹のような捜査のやり方をやったというのは、私は、この種の過失事案、そして、本来は医療の行為というのは正当行為でありますから、刑法35条でありますから、この種の手法は余りなじまない、そういう捜査手法だったんじゃないかという感想を持っております。これはお答えいりません。」

「ただ、問題は、医療の世界で大変大きな動揺と波紋が広がっている。このことを法務省あるいは検察当局は予想していたのか。まさに、今の周産期医療がどのような状態にあって、この事件に対して、つまり、これは事故調査委員会の報告も出ておるわけでありますが、この事案に1年後に急に有無を言わせず逮捕して勾留をしてしまう、そのことによって、産科、婦人科、周産期医療の世界で大変大きな波紋が広がったということを、そして現在も大変大きなうねりになっているということを、法務省はどういうふうに受けとめていらっしゃいますか。

「今度の、どちらが事件になるのかわかりませんが、つまり、検察庁が、あるいは警察、検察が起こした事件というふうに将来なるのではないかと私は思っておるんであります。」

仙谷氏に続き、与野党を問わず、多くの議員が国会でこの問題を取り上げた。

マスコミも取り上げた。特に効いたのがワイドショーだった。ワイドショーと我々を繋ぐきっかけは舛添要一・参議院議員(当時)だった。舛添氏からも「この問題を解決するのは世論。国民が如何に考えるかだ。国民に広く問題を伝えるには、テレビ、特にワイドショーが報じないとダメだ。政治家だけがいっても国民は信じない」と言われた。

ここで舛添氏と我々を繋いでくれたのも、鈴木寛氏だった。「自民党で日本医師会に染まらずに動ける実力がある中堅議員は、舛添、塩崎(恭久)、世耕(弘成)さん」と言い、彼らと繋いでくれた。その後の彼らの活躍はご存じの通りだ。

話を戻す。ワイドショーだと言われても私はどうしていいか分からなかった。当時、私が唯一知っていたテレビ関係者は、東京大学剣道部の2年先輩で、丁度、フジテレビの『とくダネ!』を担当していた宗像孝さんだった。久しぶりに携帯電話でコンタクトしてみた。事情を伝えると「難しい。被害者がいるのに、医師を擁護することはできない」と回答された。当時、医師不足は喧伝されておらず、「医師=金持ち」というイメージができあがっていた。医療事故が起きれば、「医療ミス」で医師を断罪するのが常だった。

ただ、この事件は福島県で起こった。宗像氏は福島県出身だ。地元のことで関心もあったのだろう。彼は「後輩に頼まれた」と、優秀な女性スタッフを紹介してくれた。東大医科研の研究室にきてくれた彼女に、およそ2時間をかけて状況を説明した。私の説明を聞いた彼女は「これは医師が可哀想ではなく、この事件をきっかけに産科が崩壊したら、国民が可哀想ですよね。動きます」と言って戻った。

数週間後、彼女から電話があり、「見つけましたよ。放送も決まりました」と連絡があった。4月27日の放送で、この事件が取り上げられ、その中で産科医逮捕をきっかけに、全国の産婦人科医がお産の取り扱いを辞めようとしている現状、およびそのような病院に通院している妊婦の悲痛な声が紹介された。「見つけましたよ」とは、番組で証言してくれる妊婦のことだ。

▲図2 当時の全国紙の紙面の情況 瀧田盛仁氏(東京大学医科学研究所、当時)作成

『とくダネ!』での報道をきっかけに、他局や全国紙も、この問題を扱った(図2)。一連の報道後、「医療ミス」という論調はなくなり、2006年には「分娩休止」に関する記事が急増、翌07年には「医療崩壊」が国民のコンセンサスとなった(図3、 4)。

▲図3 全国紙における「分娩休止」の記事数。日経テレコンを用い、瀧田盛仁氏(東京大学医科学研究所、当時)が調査

▲図4 全国紙における「医療崩壊」の記事数。日経テレコンを用い、瀧田盛仁氏(東京大学医科学研究所、当時)が調査

そして、07年7月に厚労大臣に就任したのが舛添氏だった。マスコミが「医療崩壊」に関心があったのは09年までの2年間(図5)。舛添氏の厚労大臣任期と重なる。舛添氏は世論の後押しと、参議院のねじれを利用して、日本医師会が抵抗する医学部の定員増などの政策を断行した。舛添改革を応援したのは、民主党の仙谷氏や鈴木氏だった。仙谷氏は、医療に関することなので超党派でやっていこうと汗をかいてくれた。当時、様々な医療問題で超党派の議員連盟が出来たが、仙谷氏の存在抜きでは語れない。

▲図5 全国紙での「医療崩壊」の記事数。日経テレコンを用い、岸友紀子氏(東京大学医科学研究所、当時)が調査

大野病院事件の活動を通じ、仙谷氏と佐藤教授は信頼関係を構築していった。2008年8月20日、福島地裁は加藤医師に無罪判決を下した。その日、仙谷氏は福島を訪問し、鈴木氏、世耕氏とともに『福島大野事件が地域産科医療にもたらした影響を考える』シンポジウムに出席した。そこで「医療という行為と刑法との関係、今回の事件を教訓にして、法務省・検察庁には深い洞察をしてもらいたい」と発言した。

この時、仙谷氏は「佐藤先生は人物よ。あの人がおらんかったら、ここまで来てないわな」と評した。

佐藤教授が立派だったのは、患者視点を忘れなかったことだ。無罪判決後は、自ら寄附を申し出て、『周産期医療の崩壊をくい止める会』とともに、「妊産婦死亡の遺族を支援する募金活動」を始めた。佐藤教授は「判決が出るまでは動けなかった。しかしながら、これからは違う。百万言を費やすより行動で示すべきだ」と語った。

▲写真3 左から仙谷由人氏、佐藤章氏(筆者提供)

佐藤教授は、仙谷氏への感謝の念を忘れなかった。写真は2009年11月の東大医科研講堂で開催された『現場からの医療改革推進協議会シンポジウム』の模様だ(写真3)。仙谷氏は発起人の一人で毎年参加していた。当時、病気治療中だった佐藤教授は「どんなことがあっても仙谷さんに御礼を言いたい」と参加されたのだった。

2010年6月28日、佐藤教授は肺がんで亡くなった。当時、官房長官だった仙谷氏は福島市内で行われた葬儀に駆け付けた。一参列者として弔問の列に加わり、そのまま帰京した。義理人情に篤い人だった。

そして、2011年3月の東日本大震災以降、我々のグループは福島での医療支援活動を続けているが、そのきっかけを与えてくれたのも仙谷氏だった。

震災数日後に「相馬市の立谷さんって知っている?凄いのがいるけど、苦労しているので、応援してやってくれないかな」と電話がかかってきた。

立谷さんとは、立谷秀清・相馬市長のことだ。現在、全国市長会会長も務める。相馬市の人口は約3万5000人、史上、もっとも小さい都市からの選出だ。私は、仙谷氏に言われた番号に電話して、少し話すだけで、彼が仙谷氏と同じタイプの人間であることがわかった。相馬市の震災後の復興は速かった。

立谷氏は「仙谷さんは別格の政治家だった。被災地を本当に助けてくれた」と言う。彼は、余程感謝していたのだろう。2012年、仙谷氏が落選した衆議院選挙では、徳島まで応援演説に駆けつけた。立谷氏は自民党系の政治家だ。事前の予想では仙谷氏は敗色濃厚で、官房長官時代にすり寄っていた人たちは既に去っていた。筆者は一流の政治家の行動を垣間見た。私は、仙谷氏から多くを学んだ。ご冥福を祈りたい。

11月26〜27日、東京都港区三田の建築会館で、仙谷氏とともに立ち上げた「現場からの医療改革推進協議会」の第17回シンポジウムを開催する。最近、プログラムを公開した。現在、参加者を募集中だ。オンライン、現場の何れでも参加可能である。ご興味のあるかたは、是非、お申し込みいただきたい。

トップ写真:記者会見に臨む仙谷由人官房長官(2010年6月8日 首相官邸) 出典:Photo by Koichi Kamoshida/Getty Images




この記事を書いた人
上昌広医療ガバナンス研究所 理事長

1968年生まれ。兵庫県出身。灘中学校・高等学校を経て、1993年(平成5年)東京大学医学部医学科卒業。東京大学医学部附属病院で内科研修の後、1995年(平成7年)から東京都立駒込病院血液内科医員。1999年(平成11年)、東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。専門は血液・腫瘍内科学、真菌感染症学、メディカルネットワーク論、医療ガバナンス論。東京大学医科学研究所特任教授、帝京大学医療情報システム研究センター客員教授。2016年3月東京大学医科学研究所退任、医療ガバナンス研究所設立、理事長就任。

上昌広

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