ベトナム戦争からの半世紀 その52 正規軍の入城
執筆:古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
【本稿のポイント】
・北ベトナム正規軍の兵士を乗せたソ連製トラックがサイゴン市内に入城した。
・入城した兵士は北ベトナム正規軍だったが、北側の公式見解に基づき全員が軍の肩章を外して武装していた。
・北ベトナム側がサイゴンの通信センターを占拠し、国外へのテレックス回線がすべて遮断された。
・戦争終結と共に通信回線が遮断されたことで、自由な海外発信が途絶え報道の自由が消滅した。
1975年4月30日正午すぎ、ソ連製トラックに乗った北ベトナム正規軍がサイゴンへ入城し、南ベトナムは完全に崩壊した。当時、毎日新聞サイゴン支局長であったジャーナリスト・古森義久氏はこの出来事を目撃していた。サイゴン陥落、そして戦争終結。あの激動の現場にいた当事者が、半世紀という歳月を経て真実を綴る 。
■サイゴン入城ーー姿を現した北ベトナム正規軍
4月30日の正午すぎ、私はサイゴン川岸の波止場の光景をみつめていた。波止場の古い舟艇に乗り込み、脱出を図った多数の市民が革命側ゲリラの「帰ってこい!」という叫びに促され、重い足取りを陸地への向ける光景だった。すると周囲のあちこちから新たな声があがった。
「来た!」、「来た!」――波止場の妙に虚脱したような空気を切り裂くような声が広がった。ふと眺めると、見慣れぬ形のトラックが疾走してくる。サイゴン川に並行して延びるバクダン通り南べトナム海軍司令部の方向から泥にまみれた緑色の大型車がみるみる近づいてきた。
車体には擬装用の木の枝があちこちにくくりつけられていた。先端のエンジン部はふっくらとして円形だった。それまでのサイゴンではみたことのない形だった。このト車はソ連製のモロトフ・トラックであることが後でわかった。
トラックの広い荷台には草色の制服、同色のヘルメットの兵士たち20人ほどが固まって立っていた。みな完全武装で、しっかりと銃を構えている。その若者たちはみな陽に焼け、きりりとした顔つき、体つきだった。
どんな動きにも瞬時に対応するような敏捷な鋭さを感じさせる。戦闘に必要のない贅肉はすべて削ぎ落したような小柄ながら、引き締まった体躯の青年ばかりだった。まちがいなく北ベトナムの正規軍の兵士たちだった。
ただし年度も説明してきたように、北側の公式主張では北ベトナム人民軍は南領内にはおらず、存在する将兵はみな南ベトナム解放勢力の戦闘要員とされたから、その将兵はみな北の人民軍の肩章などは外していた。
その肩書はどうあれ、いま私の目の前に現れたのは革命戦争に青春のすべてを捧げてきた若い兵士たちだった。その兵士たちが長年の苦しい闘争の末、いまや完全な勝利を果たしたのだ。
トラックの兵士たちはときおり体の底からこみあげてくるような喜びを明るい笑顔でみせていた。その底からは純朴そのものという感じがあふれる。彼らにとっては長年の苦闘の末、ついにつかんだ大勝利だった。
■北ベトナム軍への共感と記者としての葛藤
その闘争の敵の本拠地サイゴンへいまや堂々の入城を果たしたのだ。
そんな兵士たちを乗せたトラックがすぐ目の前を通り抜けるとき、私が改めてみあげると、なかの1人と視線が合った。その若い兵士は白い歯をこぼし、なんとも明るい笑顔をみせた。そしてはっきりと私に向かって、手を大きく振ったのだ。その瞬間、私の体をなんともいえない感情が走った。感激と呼んでもよいだろう。気がつくと、私もその兵士に向かって手を振り返していた。
トラックは走り去っていった。すると私はこんどはその感激のような気分とはまったく異なる自省のような感情に襲われた。ついさっきまで南ベトナムという国がみじめに崩れ去るのを悲痛な出来事として感じ、胸を痛め、悲しんでいたのに、こんどはその悲劇を引き起こした勝者の姿に心を動かされ、手を振ってまで歓迎する。
自分は一体、なんなのだろう。新聞記者だから、そんな両面への反応をするのか。どちらの側の動きをも追って、報じなければならないことは確かだった。だが個人としての節操とか信条はどうなのか。「客観」とか「中立」という響きのよい言葉で個人の日和見志向をごまかしてはいないのか。私はこのとき、たぶん職業的とも呼べる自分自身の感受性にひどく後ろめたい思いを感じたのだった。
■戦争終結ともに失われた報道の自由
こうしたサイゴンでの歴史的な場面の数々をまた記事にして東京の送ろうと支局に一度、戻った。いつものようにテレックスの回線を東京本社につなげようと、まずサイゴンのテレックスセンターを呼ぶボタンを押した。だがいくら押してもいつものような即時の反応がない。
テレックスはつい先ほどまで、途切れ途切れとはいえ、きちんと通じていたのだ。政府全体が崩壊したような時点でも海外へのテレックス送信ができたのはふしぎなほどだった。だがこんどはボタンを押しても叩いても、通じない。いらだってテレックスセンターに電話をかけてみた。
「こちらは毎日新聞だが、大至急、東京本社につないでください。大至急です」
「すみません。国外へのテレックス回線はすべて切るように新しい命令が出たのです」
「どうして?」
「新しい上司からの命令なのです。次の命令が出るまでは一切、つなぐことはできません」
ふだんならば冗談までまじえて、なごやかに応対してくれるテレックスセンターの女性職員の声は打って変わって堅苦しかった。「新しい上司」という言葉の意味は明白だった。通信センターも革命側が占拠したのだ。
そして海外への通信を遮断したのである。思えば皮肉だった。ベトナム戦争の長い年月、サイゴンから日本でもアメリカでも外国への発信はまったく自由だった。南ベトナム政府下での外国メディアにとっての報道の自由は完全に確立されていた。ところがその戦争が終わった瞬間にその報道の自由がなくなった形なのだった。
この時点で私が自分の腕時計をみると、正午すぎの15分ほどだった。ベトナム戦争の終わった日の歴史的な出来事はまだまだ続いていた。
(つづく)
■歴史を深く知るためのFAQ
Q1:入城した北ベトナム兵たちは、なぜ「肩章」を外していたのですか?
A: 兵士たちは草色の制服とヘルメットを着用し、完全武装していました。肩章がなかったのは、北ベトナム政府の「南国内に北の人民軍は存在せず、すべて南の解放勢力(ベトコン)である」という公式主張に合わせるための政治的措置です。
Q2:「モロトフ・トラック」とは具体的にどのような車両ですか?
A: ソ連製の軍用大型トラックです。先端のエンジン部が丸みを帯びた形状が特徴で、車体には擬装用の木の枝がくくりつけられていました。アメリカ製車両が主流だった当時のサイゴンでは見慣れない、勝者側の勢力を象徴する装備でした。
Q3:サイゴン陥落以降の南ベトナムはどのような体制になったのですか?
A:サイゴン陥落の後、ベトナムは一時的に「南北2つの政府」が並立する形となりました。終戦直後、「南ベトナム臨時革命政府」が南ベトナム地域の政府となったが、1976年の南北統一の達成により北ベトナム政府に併合され消失した。
Q5. ベトナム戦争は国際政治的にどのような意味を持ちましたか?
A.ベトナム戦争は、米ソ冷戦の中での代理戦争として、アメリカの対外政策の転換(軍事介入への慎重化)や、国際世論に大きな影響を与えた重要な歴史的事件です。
■ シリーズ・アーカイブの紹介
本連載は、歴史の目撃者である古森義久氏による貴重なアーカイブです。過去の記事も併せて読むことで、サイゴン陥落に至るまでの緊迫した推移を知ることが出来ます。
▶[連載「ベトナム戦争からの半世紀」バックナンバーはこちら]
写真)サイゴン陥落後、祝賀ムードに包まれるベトナムの人々。1975年4月30日 ベトナム・サイゴン
出典)Jacques Pavlovsky/Sygma via Getty Images
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この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授
産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

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