ベトナム戦争から半世紀 その58 サイゴン陥落翌日の虚実
執筆:古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
「古森義久の内外透視」1081回
■本稿のポイント
・1975年5月1日、サイゴン陥落翌日の街には混乱とは対照的に市民の日常が戻ったかのような光景が広がっていた。
・革命側兵士は市民や外国人記者に驚くほど友好的・規律正しく接し、北の若い兵士はサイゴンの豊かさに率直な戸惑いを見せた。
・革命当局は現地取材は許容しつつ国外発信は禁止しており、当初の“寛容さ“は変化していった。
1975年5月1日、サイゴン陥落から一夜明けた街を、約3年3カ月にわたり南ベトナムを取材してきた国際ジャーナリストの古森義久氏が歩いた。革命側兵士の友好的な態度、北の若者がみせたサイゴンへの戸惑い、そして外国報道陣への“寛容さ“の裏で進む発信統制。陥落初日の虚実を記録する。
■サイゴン陥落翌日、街に戻った“奇妙な日常”
1975年5月1日、陥落から一夜が明けたサイゴンは快晴の朝を迎えた。シトシトと陰鬱な小雨が降った前日の朝とは打って変わった好天気だった。前日までこの地を統治してきたベトナム共和国、つまり南ベトナムの政府機構はすべて崩壊した。その機構を守る軍隊も攻略してきた北ベトナム人民軍に戦闘の停止という形で全面降伏した。この地にとって、またそこに住む人々にとって、すべてが新しい環境となったわけだ。
この朝のサイゴンはまばゆい陽光の下で街路には市民があふれた。自転車やバイクが車道いっぱいにせわしく往来する。自動車がその波の中をときおり、ゆったりとした速度で抜けていく。興奮と不安と安堵とが入り混ざったような奇妙な空気に、だれもが酔ったようだった。前日の緊迫しきったパニックのような空気はもうまったく感じられなかった。しかしこの朝の多人数の市民の流れは、いったいみななんのために、なにを目指して、動いているのだろう、と疑問を感じさせられるほどだった。
この表面だけの明るさはなにか異次元の世界さえを感じさせた。3月10日の中部高原のバンメトートの陥落から4月30日のサイゴン陥落まで、わずか52日の間に、一つの政府が、一つの国家が崩れ去ったことや、100万以上もの軍隊が潰え去り、30年もの戦争が幕を閉じたことも、この朝日のきらめきの下では、まるで別世界の出来事だったかのように思わされるのだった。
ただし街を歩くサイゴンの女性たちの服装や化粧はふだんよりは目にみえて地味になっていた。やはり革命側が派手な外見は好まないだろうという自己規制のようだった。ただし革命側の将兵はこの日は初めてとあって、市民に対しても丁重で友好的だった。そして会話にはためらわずに応じていた。サイゴンの市民側も最初は当然ながら、恐る恐るだったが、革命側の将兵の反応が友好的だとわかると、一気にくつろいだ会話ともなっていった。
私もこの日、新生の南ベトナムの首都サイゴンの実態をみようと、市内を広範に動き回った。サイゴンを占拠した革命側の将兵の規律のよさは驚くほどだった。10数万という大規模な部隊が入城したのに、略奪とか暴行は皆無だった。将兵たちは市民にも外国人にも丁重で穏健な態度を保っていた。個々の兵士に行き届いた上層部の政治教育の徹底さがうかがわれた。
兵士たちを間近にみても、みな青春のすべてを闘争にのみ捧げてきたことが明白な純朴な若者たちだった。そんな彼らにとって欧米の影響さえ豊富な大都市のサイゴンはおよそ異質な世界だった。社会主義、共産主義のストイックな環境に育ち、南ベトナムを腐敗や堕落の逸脱世界と教えられてきた彼らがいざ実際にみたサイゴンの豊かさにとまどうのも当然だった。
■北と南の若者たちが交わした率直な会話
市の中心部の一角で22、3歳にみえる兵士が1人、サイゴンの少年たち数人に囲まれて、話しあう場面に私は出会った。意外とリラックスして、なごやかに響く会話だった。耳を傾けた。なにしろ北と南とはいえ同じベトナム人同士である。交わされる言葉のアクセントの違いは私でもわかったが、すべて同じベトナム語だった。わからない部分はこの日すでに同行してくれたロック記者が手際よく通訳してくれた。
「ハノイでは映画も見られるの?」
「もちろん、毎月1回は上映するよ」
「たった月に1回か。サイゴンでは毎日1回だって見られるよ」
「へえ、本当か」
「ハノイの人たちは自動車はどのくらい持っているの?」
「そんな贅沢品は普通の人間は持ちはしない。自動車は政府所有のものだけだ」
こんな単純な会話が交わされていた。だが次元が低いとはいえ、友好的なこんな言葉の交流が成り立つこと自体、驚くべきだといえた。
私たちが話しかけた兵士たちはみな一様にサイゴンの豊かさへの驚嘆を素直に述べていた。高く大きな建物は外国のようだと言い、サイゴンの女性はすばらしい、とも語った。「サイゴンは貧困に苦しんでいるから解放せねばならないと教えられて、きてみたら大違いだった」と認める兵士もいた。しかしどの兵士もサイゴンの繁栄ぶりを認めた後には、あわてて気づいたように「ただしこれはみな外国に援助された偽りの繁栄だと思う」とつけ加えるのがパターンだった。
■外国人記者には自由取材を許可、しかし発信は禁止
革命当局は新生サイゴンの初日、外国報道陣に対しても寛容だった。アメリカ人をも含む外国人記者たちが市内を自由に動き、革命側の将兵や一般市民に話しかけ、写真を自由に撮影しても、当局側はなにも抑制はしなかった。ヨーロッパからの記者の一部は自分たちが革命勢力が敵としたアメリカの記者と誤解されると、トラブルが起きるかもしれないと懸念して、最初は自国の国旗や国名を明示するサインを上着につけていた。だが革命側の将兵がすべての外国報道陣に同様に寛容なのをみて、すぐにそんな国旗などを取り除くという一幕もあった。
ただしサイゴンから外国への発信はすべて禁止されていた。革命当局がサイゴンの制圧と同時にとった発信禁止令が徹底されていたのだ。だから記者たちにとってはこの歴史的な場面での取材は自由にできても、その結果を記事にして本国や外部世界に送ることはできなかった。ジャーナリストにとっては欲求不満を絵にしたような状況だった。
しかしサイゴン陥落後の第一日の革命当局はその将兵たちの信じられないような寛容さや友好ぶりはやがて微妙ながらも着実に変わっていった。当初の状態には明らかに虚構と呼べる部分もあったのだ。(つづく)
【よくある質問(FAQ)】
Q1. サイゴン陥落とは何か、いつ起きたのか?
A. 1975年4月30日、北ベトナム人民軍が南ベトナム首都サイゴンを制圧し、ベトナム共和国(南ベトナム)政府が崩壊した出来事を指す。3月10日のバンメトート陥落から52日でベトナム戦争は事実上終結した。
Q2. サイゴンは現在何という名称か?
A. 1976年7月のベトナム社会主義共和国成立に伴い、ホーチミン市に改称された。現在も同国南部の最大都市である。
(本稿のポイント、リード、FAQの文責:Japan In-depth編集部)
トップ写真:北朝鮮兵士と話すサイゴン市民 1975年4月 ベトナム・サイゴン
出典:筆者撮影
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この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授
産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

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