無料会員募集中
.国際  投稿日:2026/5/7

ベトナム戦争から半世紀その60ボート・ピープルという悲劇


 

執筆:古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)

古森義久の内外透視」1078回

本稿のポイント

・サイゴン陥落後、外国人記者には厳重な事前検閲が課せられ、日本語での発信も禁止、厳しい情報統制が敷かれた。

・旧南ベトナムの軍人・政府職員は巧みな二段階の手順で強制収容され、10数万人が「政治教育収容所」に数年から十数年、拘束された。

 ・共産党一党支配への抑圧と文化統制を逃れるため、南ベトナム市民が小舟で南シナ海へと脱出する「ボート・ピープル」の悲劇が生まれ、約200万人、全人口の10分の1が国外へ逃れた。

サイゴン陥落後の南ベトナムでは、革命当局による情報統制や文化弾圧、そして旧政権関係者の大規模な強制収容が始まった。街はやがてホーチミン市と改称され、1976年には北ベトナムへの吸収統一が決定。共産党独裁支配の現実に直面した多くの市民が、生命の危険を冒してでも国外脱出を図り、「ボート・ピープル」と呼ばれる難民の流れは実に1995年ごろまで約20年にわたって続いた。歴史的な「解放」の陰に隠れたこの悲劇を、毎日新聞サイゴン支局長だった古森義久氏が現地で目撃し記録した。(Japan In-depth編集部)

サイゴン陥落後、外国人記者はいつから記事を送信できたか

陥落後のサイゴンではまもなく外国人も改めて革命当局に出頭し、出自や職業を届け出ることを命じられた。ただし外国報道陣に対しては5月7日から海外への記事の送信が認められるようになった。しかし厳重な事前の検閲が課せられた。すべての記事は英語かフランス語と命じられ、書き上げた原稿は2通、当局に事前に提出しなければならない。

検閲官がその内容を読み、発信の適否を決めるのだ。ただしその判断の結果は知らされない。だから記者の側は自分が提出した記事が果たして、本国の本社に届いたかどうかも、すぐにはわからないわけだ。

日本語は禁じられた。日本語を読める検閲担当者がいなかったからだろう。だから日本人記者も英語かフランス語で自分の記事を書かねばならなかった。私の場合、アメリカでの大学のジャーナリズム学科への留学経験が英文発信にはいくらか役立った。だがいずれにしてもベトナム戦争中には存在しなかった事前の検閲が戦後には厳しく実施されるようになったのだ。

外国人記者はどのようにしてサイゴンを脱出したか

ただしサイゴンに残っていた外国人ジャーナリスト合計120数人の多くは国外への移動を求めるようになった。ベトナム戦争は終わってしまったのだ。その後の革命がいかに歴史的な出来事だといっても、戦争の展開と終結にくらべれば、大ニュースとはいえなかった。だがサイゴンは陥落以降は文字通りの陸の孤島だった。国外へ普通の方法で出ることはまったくできなかった。記者の多くは革命当局に国外や本国への帰還を要求した。

その結果、革命当局は5月24日、ソ連製イリューシン⒙型旅客機を使って、外国人記者の中の希望者82人をラオスの首都ビエンチャンまで空輸した。そこからはタイのバンコクでも、フィリピンや香港でも、通常の国際便で移動できるわけだった。

この旅客機には毎日新聞の升岡忠敏記者やサンケイ新聞の近藤紘一記者も乗っていた。私はなお残って新生の南ベトナムの状況を報道し続けることとなった。

旧南ベトナムの軍人・政府職員はなぜ強制収容されたか

南ベトナム側の軍人や政府職員は当初、革命当局にまず届け出ることを命じられた。首都圏の各所で数千、数万とみられる元将兵、元官僚たちが出頭した。なかには大臣とか将軍だった旧要人も含まれていた。最初の出頭ではみなその日のうちに帰宅を許された。

ところがその後、2週間ほどすると、みな再度の出頭を命じられ、こんどはそのまま強制連行されて、地方に開設された「政治教育収容所」へと入れられたのだった。毎日新聞の関連でも取材に協力してくれたガ少佐も、ベトナム通信のトイ記者も軍籍があるということで強制収容されてしまった。

このあたりは革命当局の新統治の巧みさだといえた。旧敵方の要員に出頭を求め、なんの強制的な措置も示さずに解放し、相手が安心したところで再度の出頭を求めて、有無をいわさずに連行してしまう。その収容者は南ベトナム全土で少なめにみても10数万を記録した。そして大多数はその強制収容から数年、さらには十数年も帰ってこなかった。

統一後のベトナムはどのような国になったか

北ベトナム側が制圧してから2ヵ月、3ヵ月のサイゴンはやがて暗く重苦しい街となっていった。大多数の住民は共産主義の厳しい支配に抑圧を感じるようになったからだ。現実に北側の革命勢力の人たちが旧政権下で暮らしてきたサイゴン側市民を支配するような構図が明確になったのだ。「カクマン」とみずからを呼ぶ革命側は旧来の市民たちを「グイ(傀儡)」と蔑称で呼ぶようになった。

革命側は外来の文化や芸術を排すると宣言し、フランス、アメリカなどの音楽や文学、芸能などを禁じていった。欧米の書籍を禁じる焚書のような措置も実際に頻繁にとられるようになった。

旧サイゴン側でも反発は起きた。革命当局の要員への抵抗がテロの形で実行されるようになった。革命側もそれに断固と対決して、抵抗する分子を捕らえて、人民裁判から公開処刑までを断行するようにもなった。

やがてかつての首都サイゴンはホーチミン市と改称されることが決まった。そして南ベトナム全体が北ベトナムに吸収される形で翌年の1976年にははやばやと統一されることも決定された。新国名はベトナム社会主義共和国とされ、共産党一党支配の政権の基本的な性格が明示された。

ボート・ピープルはなぜ生まれ、何人が脱出したか

そんな流れの中で南ベトナムからは政権の禁を冒して、国外へ脱出する市民の数が急増していった。サイゴン陥落の最中でもすでに10数万の南ベトナム国民が祖国を離れていた。ところが解放されたはずの新生ベトナムからさらに多くの一般住民が生命の危険を冒してまで国外へ脱出するようになったのだ。その理由は明らかに共産党独裁、北ベトナムが支配する旧南ベトナムという社会での生活を苦痛に感じたことだといえよう。

しかも大多数の脱出者たちは自分で小さな舟を調達し、南シナ海の荒波へと乗り出していった。そして近くを通る諸外国のより大きな船舶に緊急の助けを求めるのだ。そんな危険な国外脱出はベトナムでの長い戦争の期間でも皆無だった。

この種のベトナム難民を指しての「ボート・ピープル」という言葉が生まれた。思えば悲しい用語だった。この種の人々はまずアメリカ、さらにはベトナムの宗主国だったフランス、そしてカナダ、オーストラリア、イギリスなど文字通り全世界の多数の諸国に受け入れを求め、認められた。

このボート・ピープルの流れはなんとサイゴン陥落直後の1975年春から20年も、1995年ごろまで続いたのだった。脱出を果たした南ベトナム国民の総数は約200万にも達した。当時の全人口2000万ほどだったから、なんと全住民の10分の1が国外へと逃げてしまったことになる。ちなみにその大多数を迎えたアメリカでは半世紀後のいまベトナム系市民の人口は240万にも達している。
(つづく)

【よくある質問(FAQ)

Q1イリューシン18型とはどのような航空機ですか?
A:ソ連が開発したプロペラ式旅客機で、冷戦期に共産圏諸国で広く使用された。北ベトナムもソ連から供与を受けており、陥落後のサイゴンで外国人記者の移送にも使われた。

Q2「焚書」とはどういう意味ですか?
A:権力者が思想統制のために特定の書籍を集めて焼き捨てる行為。古代中国の秦の始皇帝による焚書が有名で、歴史上、独裁政権による言論弾圧の象徴的行為として繰り返されてきた。

Q3ビエンチャンはどこにある都市ですか?
A:ラオスの首都。ベトナムと国境を接しており、冷戦期には東南アジアの外交・移動の中継地点として機能した。

Q4「人民裁判」とはどのような制度ですか?
A:共産主義政権下で行われた、正規の司法手続きによらない公開裁判。民衆を集めた場で被告を断罪する形式をとり、政治的な見せしめとして機能することが多かった。

Q5南シナ海はなぜボート・ピープルの脱出ルートとなったのですか?A:南ベトナムが面する南シナ海は、フィリピン・マレーシア・タイなど複数の国に向けて開かれた海域であり、小舟でも近隣諸国や通過船舶に接触できる可能性があったため、陸路より現実的な脱出経路とみなされた。

(本稿のポイント、リード、中見出し、FAQの文責:Japan In-depth編集部)

シリーズ・アーカイブの紹介

本連載は、歴史の目撃者である古森義久氏による貴重なアーカイブです。過去の記事も併せて読むことで、サイゴン陥落に至るまでの緊迫した推移を知ることが出来ます。

▶︎ [連載「ベトナム戦争からの半世紀」バックナンバーはこちら]

トップ写真:The Fall Of Saigon
出典:Dirck Halstead / 寄稿者 / GettyImages




copyright2014-"ABE,Inc. 2014 All rights reserved.No reproduction or republication without written permission."