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.国際  投稿日:2026/5/7

ベトナム戦争から半世紀その58 闘争の真の主役とは


執筆:古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)

古森義久の内外透視」1077回

■ 本稿のポイント

・北ベトナム軍によるサイゴン占領は当初、虐殺も弾圧もない異例の穏健さをみせたが、「サイゴン解放」という表現は実態を著しく歪めるものだった。 

・5月15日祝賀集会では北ベトナムの国家元首・党幹部が主役として登壇、「南に北の軍は存在しない」という長年の公式見解を革命側自身が事実上放棄。この戦争が北ベトナム主導の共産主義革命であったという真実が露呈。 

・戦後南ベトナムでは住民監視組織の整備、非共産党団体の強制解散、脱出者資産の接収、民間企業への国家介入が相次ぎ、一党独裁と私有財産の否定を柱とする共産主義体制への転換が急速に進展。

毎日新聞サイゴン支局長として現場に立ち続けたジャーナリスト・古森義久氏が目撃した、戦後サイゴンの実像。1975年4月30日、北ベトナム軍による占領は虐殺も弾圧もない異例の穏健さで幕を開けたが、「サイゴン解放」という宣言とは裏腹に市民の大多数は革命を恐れていた。5月15日の祝賀集会では革命側自身が北ベトナム主導という実態を公然とさらけ出し、戦後は住民監視・資産接収・非共産党団体の強制解散が相次ぐなど、この戦争が民族独立を隠れ蓑にした共産主義革命であったという真実が白日の下にさらされた。(Japan In-Depth 編集部)

穏健な占領、そして始まった支配の実態 

さて長い戦争が終わった南ベトナムでその後になにが起きたのか。ベトナム戦争全体の俯瞰や位置づけのためには戦後の点検も、ある程度は欠かせないだろう。私は戦後のサイゴンに残留して、かなりの期間、戦後の革命の進展を目撃した。

1975年4月30日にサイゴンを占拠し、南ベトナムという国家を粉砕した北ベトナムの人民軍は敗者に対しては当初は驚くほど寛容だった。戦争の最終段階では虐殺も弾圧もなかった。勝者は敗者の軍隊も政府の要人も危害を加えず、降伏をそのままに受け入れた。

この点での規律に満ちた、人道主義的とも呼べる北ベトナムの全面勝利はその穏健さにおいて歴史に特筆されてもよいだろう。

しかし北ベトナムが南ベトナム解放勢力という名の下で開始した新しい支配はその後、予期されなかった新展開の厳しさをもみせていった。同時に北ベトナムは長年、全世界に向けて主張してきた闘争の実態の虚構をみずから、あっさりと投げ捨てた。この戦争の真の実態の露呈だった。

革命側による戦後の初の勝利祝賀の大集会は5月15日に催された。場所はすでに独立宮殿と正式に呼ばれるようになった旧大統領官邸だった。この集会は南ベトナムの解放、あるいはサイゴン解放の祝賀と呼ばれていた。

革命勢力にとっての南ベトナム制圧は30年にもわたる抗仏、そして抗米の戦いの大勝利だった。外国勢力の支援を受けた政権下にいた市民、人民を解放したという宣言は自然だった。

サイゴン陥落「解放」という虚構 

だがサイゴン、あるいは南ベトナムの国民の反応をみれば、大多数は明らかに革命側の攻撃や制圧を恐れていた。革命側に同調して決起する南ベトナムの住民は最後まで皆無に等しかった。この状態をみれば、「解放」といえないことは明白だった。

日本の新聞やテレビでも革命側の主張に同調して、一時は「サイゴン解放」とか「南ベトナム解放」という用語を使うことが多かった。だが私は現地からの報道としてあくまで「サイゴン陥落」という用語を使った。アメリカやヨーロッパのメディアもみな「陥落」という表現を使っていた。やがて日本のメディアでも識者の間でも、「サイゴン陥落」という用語が定着した。

祝賀集会が暴いた「北の戦争」の真実 

さて5月15日の革命側勝利祝賀大会ではこの闘争の主役が実際には北ベトナムだったことが革命側自身によって誇示された。

この集会の主舞台の独立宮殿の前面には北ベトナム(ベトナム民主共和国)の建国の祖、独立革命闘争の指導者のホー・チ・ミン元大統領の巨大な肖像画が掲げられた。そしてそのすぐ下にこれまた巨大な横断幕が目立った。

「独立と自由より尊いものはない」

ホー・チ・ミン氏の革命闘争への宣言だった。

国家として、民族として独立と自由より大切な価値観はない、という金言である。当然ながら独立や自由は平和より大切だという明言でもあった。平和を犠牲にしても独立や自由のために戦う、という決意だった。ちなみにわが日本の憲法第9条がうたう不戦の宣言とは正反対の価値観である。

この集会は本来、建前としては南ベトナム領内での革命勢力が主体となり、その勝利を祝うという趣旨だった。だがきらびやかな壇上に並ぶ要人の最高の主役は北ベトナムのトン・ドク・タン大統領だった。さらにハノイを本拠とするベトナム労働党のレ・ドク・ト政治局員や北の人民軍大将の肩章をつけたバン・チエン・ズン参謀総長が並んだ。

本来の主役であるはずの南ベトナム臨時革命政府の諮問評議会のグエン・フー・ト議長はタン大統領の脇に立ったが、脇役であることは明白だった。建前としてはト議長は南ベトナムの新政権の国家元首のはずだった。

だが実際に南領内の革命勢力の最上位として紹介されたのは北ベトナム労働党の中央委員会政治局員のファム・フン氏だった。正式の肩書は労働党の南ベトナム支部の書記長だった。その北の政党の幹部が南ベトナムの新たな国家元首に当たるト議長よりも上位に位置づけられたのだ。

この集会での大勝利を祝う10項目のスローガンも南の革命政府ではなく北の労働党によって決められていた。

 「ベトナム労働党万歳!」

 「人民の革命闘争勝利を祝う」

 「栄光のマルクス・レーニン主義よ、永遠なれ!」

たびたび指摘してきたが、北ベトナムの労働党というのは前身はインドシナ共産党、ベトナム共産党であり、実態はマルクス・レーニン主義、つまり共産主義を信奉する政党だった。

要するにベトナム戦争の革命側の主役は北ベトナムに一貫して本拠をおいてきた共産主義政党、共産党政権だったのだ。その真実を北ベトナム側当局自身があっさりと明示するようになったのだ。「南ベトナム領内に北ベトナムの軍隊は入っていない」という虚構を全面勝利後にその当事者が公然と認めたわけだ。革命の大義のためには、そんな虚偽やウソは許される、ということだろう。

共産主義支配の実像 監視・弾圧・接収 

この時点あたりから勝者の革命勢力はこの闘争が民族独立とともに共産主義革命を達成することが核心の目標だったという基本姿勢を明確にするようになった。そして新生の南ベトナムではそれまで第三勢力と呼ばれてきた非共産党の仏教徒組織やカトリック集団を政治団体としては否定するようになった。強制的に解散させる弾圧措置をもとるようになったのだ。

一般住民に対しても、一党独裁の共産主義体制が敷かれていった。サイゴン市内の各地区を人民革命委員会と称する新組織が細分し、監視するシステムが築かれていった。最小単位は「トー」(細胞という意味)と称する末端の革命委員会組織で、20世帯前後の隣組をまとめて監督するようになった。

共産主義らしく私有財産にも当局の監督のメスが大胆に加えられた。サイゴン地区で海外に脱出した人たちの住宅や商店、工場などは当局が人民の財産として、どんどん接収していった。その他の民間の商業、工業の施設も当局が経営に介入し、私有の根本を否定する政策を明示するようになった。(つづく)

【よくある質問(FAQ)

Q1:トン・ドク・タンとはどのような人物か?
A:北ベトナムの第2代国家主席。ホー・チ・ミン死去後の1969年に就任し、5月15日の祝賀集会では最高の主役として登壇した。南ベトナムの臨時革命政府を名目上の主体としながら、実質的な権力が北ベトナムにあったことを象徴する人物です。

Q2:ベトナム労働党とはどのような組織か?
A:北ベトナムを支配した共産主義政党で、前身はインドシナ共産党・ベトナム共産党です。マルクス・レーニン主義を奉じ、ベトナム戦争を通じて革命運動の実質的な指導部として機能しました。統一後は「ベトナム共産党」として現在も一党支配を続けています。

Q3:南ベトナム臨時革命政府とはどのような組織か?
A:北ベトナムが南ベトナム領内の解放勢力として対外的に打ち出した政治組織です。「南の自発的革命」という建前を演出する役割を担いましたが、祝賀集会での扱いが示すように実権は北ベトナム労働党が握っており、独立した政府としての実態は極めて限定的でした。

Q4:「トー」とはどのような組織か?
A:戦後サイゴンで構築された末端の革命委員会組織で、「細胞」を意味します。20世帯前後の隣組単位で住民を監視・管理する仕組みで、一党独裁体制を市民生活の隅々まで浸透させるための装置として機能しました。

Q5:戦後サイゴンの私有財産はどのように扱われたか?
A:共産主義体制の下、海外に脱出した市民の住宅・商店・工場が「人民の財産」として当局に次々と接収されました。残留した民間企業にも国家が経営介入し、私有財産の否定を柱とする社会主義的経済政策への転換が急速に進められました。

(本稿のポイント、リード、中見出し、FAQの文責:Japan In-depth編集部)

シリーズ

本連載は、歴史の目撃者である古森義久氏による貴重なアーカイブです。過去の記事も併せて読むことで、サイゴン陥落に至るまでの緊迫した推移を知ることが出来ます。

▶️連載「ベトナム戦争からの半世紀」バックナンバーはこちら]

写真)Fall of Saigon
出典)Jacques Pavlovsky/Sygma/CORBIS/Sygma via Getty Images




この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授

産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

古森義久

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