ベトナム戦争から半世紀 その61 惜別
執筆:古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
「古森義久の内外透視」1079回
【本稿のポイント】
・1975年7月22日、筆者はサイゴン陥落から83日後に革命側軍事委員会から国外退去を通告された。「要請」と説明されたが、「選択の余地はありません」と事実上の退去命令だった。
・約3年3カ月にわたり南ベトナムで戦争と革命を取材してきた筆者は、現地の友人や協力者を残して去ることに強い苦痛を感じ、革命当局に滞在延長を訴え続けた。
・革命当局は旧政権下で赴任した外国人記者を順次退去させる方針を維持し、筆者は1975年9月6日、送別会での別れを経て、雨のサイゴンを離れた。(Japan In-depth編集部)
1975年7月、サイゴン陥落後の南ベトナムで、約3年3カ月にわたり現地取材を続けていたジャーナリストの古森義久氏は、革命側軍事委員会から国外退去を通告された。筆者は革命後の社会変化を追い続けたいとの思いから滞在延長を訴えたが認められず、現地の友人や協力者との別れを惜しみながら、1975年9月6日に雨のサイゴンを離れた。
「サイゴン陥落後、外国人記者はなぜ退去を命じられたのか」
サイゴンは陥落の直後からもう首都ではなくなった。戦時中に南ベトナムに入国していた外国人記者はすべて国外への退去を求められるようになった。ただし革命当局は強引な方法はとらず、時間をかけての退去の作業だった。
私がサイゴンを支配する革命側の軍事委員会から国外退去の命令を受けたのは1975年7月22日だった。サイゴン陥落から83日が過ぎていた。軍事委員会の新聞局と称する部門の担当者のニャンという人物に呼び出され、はっきりと告げられた。
「あなたに南ベトナムから去ることを公式に要請します。ただしいろいろ残務処理もあるでしょうから、実際の出発は8月末ごろで結構です」
この出国は追放なのかと問うと、ニャンさんはごく事務的な口調で答えた。
「いえ、決してそうではありません。革命当局は旧政権時代に入国した外国人記者にはすべて順番に去ってもらうのが基本方針なのです。しかもその方針はあくまで要請であって、強制とか追放ではありません」
確かにその時点で私はUPI通信のアラン・ドーソン記者や朝日新聞の山本博昭記者にも同様の出国要請が告げられたことを知っていた。だがあくまで「要請」であれば、要請を告げられた側にそれを受けるか否かの選択の余地があるのかどうか、あえて問うてみた。
「選択の余地はありません」
ニャンさんの答えは明確だった。ただし私が去っても毎日新聞サイゴン支局はなお存続を許されるという。現地のロック記者やアンさんというベトナム人スタッフが当面は運営を続けていけるというのだ。
「それでも筆者がサイゴンに残りたかった理由」
しかし私はなおサイゴンに滞在したかった。その願望は強烈だった。サイゴン陥落の直前に東京本社から撤退の指示がきても、なお現地に残りたいと願ったときの気持ちと同様に自分自身では疑問の余地のない強烈な残留を欲する意志だった。
国家や社会の根底を変える革命はいま始まったばかりだ。その行方を追いたい。ベトナム報道を続けたい。長い間、苦楽をともにしてきた人たちから離れたくない。とくに取材に協力してくれた知人、友人、仲間をいきなり放棄したくない。個人的にも親しくしてくれた人たちとのつながりを突然に切りたくはない。そうした現地の人たちがいま苦境にあるだけに、私だけがあっさりと去ってしまうことには、誇張ではなく、胸を裂かれるような辛い思いに襲われるのだった。
考えてみれば、奇妙な心境だともいえた。私には日本という祖国がある。親もあり、親友もいる。職業的にも生きがいを感じる新聞記者という活動にはまだまだ広い世界での明るい展望さえある。客観的にみれば、その時点での職業人の私にとっては、南ベトナムというのはきわめて特殊な、しかも狭い地域だともいえた。だから一面、私は南ベトナムで体験し、慣れ親しむ対象は自分の人生ではやはりごく一部であり、本筋からは離れた異端の経験だろうという意識もあった。
だがそれでもなお眼前の心情として、この地から、ここの人々からはいまはどうにも離れ難いという思いは抑えきれなかった。なにしろ私の南ベトナムでの生活はその時点で3年3ヵ月に達していた。その間に情勢の激変、戦争での激動、そしてまったく異質の革命と続き、現地の人々は奔流のような変動に突き動かされてきた。そんな環境の中で、多くの人たちが私の報道活動に貴重な貢献をしてくれたのだ。だから去りたくなかった。自分の生きる世界は当面は南ベトナムしかないとまで感じてしまうのだった。せめてあと1年でも滞在したいと思った。
だから自分の帰属するのはあくまで日本であり、日本の新聞社だと意識はしながらも、滞在の延長を新聞局に改めて申請してみた。他のルートをたどって、サイゴンの革命当局の上層部にも必死の思いで、訴えてみた。だがすべては徒労だった。旧政権下で南ベトナムに赴任してきた外国人ジャーナリストは遅かれ早かれ、すべて退去させるという方針がかなり高いレベルで決定していたようだった。
毎日新聞サイゴン支局をとにかく存続させるための種々の手続きをロック記者やアンさんと相談して、進めた。しかし出国の日が近づくにつれ、去り難い思いはさらに強くなった。自分が南ベトナムという地にどれほど慣れ親しみ、没入していたのかを身を切られるような辛さで知らされた。もう二度と戻ってこられないかもしれないという思いが滞在への執着をさらに強くした。胸にのしかかる重苦しい思いに眠れない夜も続いた。そんなときの払暁、アパート近くの薄闇の街路から「モッ、ハイ、バ、ボン(1,2,3,4)」という革命軍兵士たちのかけ声が低く、重く響いてくることも、よくあった。起床直後の体操のかけ声だった。
「1975年9月6日、雨のサイゴンとの別れ」
日本大使館の代表やなお残留する少数の日本人記者たちが朝日新聞の山本記者と私のために送別会を開いてくれた。こういう際のねぎらいは素直にうれしかった。ベトナム人の友人や知人たちも多様な形で別れを惜しんでくれた。
毎日新聞サイゴン支局としても私の送別会を催してくれた。なお支局に勤務するロック記者や助手のアンさんだけでなく、他の協力者たちも加わってくれた。旧南ベトナムの英字紙のサイゴン・ポストのリウ記者や毎日新聞プノンペン支局で働いていた劉文徳記者も参加した。劉記者は私がときおり取材に出かけていたプノンペンで協力してくれた中国系カンボジア人だったが、ポル・ポト革命政権による全市民追放でサイゴンに避難してきたのだった。送別のパーティーは和やかに始まったが、まもなくアンさんが涙をこぼし始めて、しばらくは通夜のような空気ともなった。だが私にはこの人たちが本当に別れを惜しんでくれるという実感があった。
1975年9月6日、出発の日、サイゴンはまた朝から雨だった。一つの戦争の終焉、一つの国家の崩壊を見届けたことへのジャーナリストとして感じてもよい満足感はツユほどもわいてこなかった。空港への途、車窓から見るサイゴンの街は音もなく降る雨に濡れていた。(つづく)
【よくある質問(FAQ)】
Q1. 筆者はいつ国外退去を通告されたのか?
A. 1975年7月22日。サイゴン陥落から83日後、革命側軍事委員会から退去を要請された。
Q2. 革命当局は外国人記者を強制追放したのか?
A. 本文では「要請」という形式だったが、担当者は「選択の余地はありません」と説明しており、事実上の退去命令だった。
Q3. 筆者はなぜサイゴンに残りたかったのか?
A. 革命後の社会変化を取材し続けたいという思いに加え、長年交流してきた現地の友人や協力者たちと離れ難かったため。
Q4. 毎日新聞サイゴン支局はどうなったのか?
A. 筆者の出国後も、ロック記者やアンさんら現地スタッフによって当面の存続は認められていた。
Q5. 筆者はいつサイゴンを離れたのか?
A. 1975年9月6日。送別会を経て、雨のサイゴンを離れた。
(本稿のポイント、リード、FAQの文責:Japan In-depth編集部)
トップ写真:「サイゴン入城」
アメリカ軍撤退後、共産側軍が1975年4月30日、ベトナムのサイゴン市(後のホーチミン市)に入城した。
出典:Photo by PhotoQuest/Getty Images
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この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授
産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

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