[為末大学]【私たちは決してわかり合えない】~マスコミ批判の裏にある同調圧力の正体~
為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)
マスメディアへの批判が最近は強い。まず第一に日本では、“誰もがそうだと信じられる真実の中心があり、幾つかの障害はあっても努力していけばそこに辿り着けるはずだ”という前提があると思う。私はこれが同調圧力の正体だと考える。偏向報道という言葉があるのも、嘘を言っているマスメディアという批判もあるのも、誰もが納得出来る真実は努力すれば見つかるはずだという前提がある。そして日本のメディア自体が(新規参入を制限する代わりに)放送をする者の責務として中立的に報道するべしという縛りを自らに課してもきた。
マスメディア特にテレビと関わっているとこの緊張感はかなり高い。この意見は中立だろうかということを驚くぐらい意識している。こちらを立てれば必ず反対側という議論が会議でよくされている。私は思い込みが強い人間なので時々、反対側から見るとこう見えていますとアドバイスを受けることもある。
中立と呼んでいるものは今の時代の中立でしかないのが真実だろうと思う。山本七平氏なら時代の空気の中心を中立と呼んでいるだけだろうと喝破するだろうか。第二次大戦では戦争をして相手国の国民と殺しあうというのが世界中の中立であったと思うけれど、時間軸を伸ばしてみれば偏りがあるのがわかる。
また、人間の認知にはバイアスがかかっていて、例えば実際に網膜に映っている情報からどれを切り取って認知するかは人によって偏りがある。しかもそれは意識的にではなく、無意識でどの情報にフォーカスするかが選ばれそれを私たちが意識的に考える。すでに偏りが無意識の世界の情報の取捨選択で起きている。いわんや、わかりやすいように番組構成を作り、カメラを通して映し、編集し、ナレーションをつけて時間内に放送するというメディアが偏らないでいられるはずはない。意図的かどうかは別として。
もし一次情報が欲しければ(認知のバイアスはかかるが)現場に行くしかない。殺人の現場、国会の中、企業の不祥事を犯した人との対談。けれども、それが現実的に不可能だからメディアがいるのは、何も知らないよりはよっぽどましだからだ。むしろ何層にも認知を介して伝わってきた情報が全く歪みのない真実になり得ると考える方が無理があると思う。
日本では“誰もがそうだと信じられる真実の中心があり、幾つかの障害はあっても努力していけばそこに辿り着けるはずだ”という前提があると思う。つまり、あなたが私と同じように見たり感じたり考えたりしていないとしたら、私たちの努力がたりないからだ。さあ話し合おう、または少数の同じように感じていない人たちを矯正してあげよう、となる。しかし現実はいくら話し合っても認知にバイアスがかかっている以上、青がみんなに青に見えることはない。
同調圧力の奥にはいつかはわかりあえるという世界観があるが、私たちはまさに違う世界を生きていて、決してわかりあえないと私は考える。だからこそ見方による偏りをなるべく多様にし、その中でそれぞれが自分なりの考えを持っていくべきで、部分的合意さえすればそれでいいと思っている。経験上、自分は偏ってなんかいないし今後偏ることもないと信じている人の偏りがもっとも過激になる。