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.国際  投稿日:2016/8/6

柔道を国際化した日本人たち


古森義久(ジャーナリスト・国際教養大学 客員教授)

「古森義久の内外透視」

ブラジルのリオデジャネイロでまもなく幕を開くオリンピックでは日本が開祖の柔道が全世界からの注視をあびる。純粋に日本で始まり、これほどの国際的な認知や人気を得たスポーツも芸術もまず他にないだろう。その柔道をアメリカでこれまで60年にもわたって指導してきた日本人の柔道家が首都ワシントンで亡くなった。宮崎剛氏、85歳、アメリカ柔道界では広く知られた人物だったが、日本では著名とはいえなかった。だが全世界での柔道の今日の隆盛はこうした地味な日本人柔道家たちの知られぬ努力の成果といえるようだ。

柔道を諸外国に広めた日本人指導者といえば、戦前ではブラジルで活動し、グレーシー柔術の誕生にまで寄与した前田光世、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領一家に柔道を教えた山下義韶、フランス柔道の最高師範となった粟津正蔵などの各氏が広く知られてきた。

戦後では1950年代から60年代にかけて、大学柔道で活躍した名選手2、30人がまず海外に指導に出かけていった。講道館から派遣された指導者もいた。日本大学出身の米塚義定氏がアメリカへ、中央大学出身の中村浩之氏がカナダへ、早稲田大学出身の石井千秋氏がブラジルへ、と渡り、みなその地に永住して柔道を盛り上がらせた。

慶應大学柔道部の主将だった宮崎剛(つよし)氏もそうした戦後の早い時期の海外雄飛組の1人だった。1955年(昭和30年)に慶應義塾大学法学部を卒業した宮崎氏は学生時代から傑出した実力で学生柔道の雄だった。卒業時にすでに講道館5段だった。

1957年に当時、就職していた企業を休職する形で講道館からアメリカへの2年の予定で柔道指導に派遣された。最初は西海岸のポートランド、次に中西部のシカゴの各柔道クラブで指導にあたった。日本の学生柔道界のトップ級だった宮崎氏は寡黙に稽古を続け、得意の大外刈で巨漢のアメリカ人たちを投げ飛ばし、その一方、懇切丁寧に技や精神を教えた。当時、人気こそあったが国際的な実力の伴わないアメリカ柔道界では大いに尊敬され、重用された。

宮崎氏はアメリカ人の英語教師のジャネットさんとめぐりあって、結婚したこともあり、その滞米は最初の予定を越えて長くなった。その後、なんと60年ほどにも及んだのである。その間、ニュージャージー、ニューヨーク、ワシントンDCなどに住み、それぞれの地のクラブや道場で指導を続けてきた。

ただし宮崎氏が他の在米日本人柔道指導者と異なったのは、柔道を主要な職業とはせず、ビジネスの世界でも立派な活動を続けてきた点だった。その実業も1990年代末には引退し、ジャネット夫人とともに子息のマイケル氏が通ったジョージタウン大学のある首都ワシントンに居を移した。そして首都では有名な「ジョージタウン大学ワシントン柔道クラブ」の師範となった。

以来20年近く、70代から80代になっても毎週3回の同クラブの練習に出て、立ち技、寝技の指導など積極的にかかわっていた。2013年には日本政府から「アメリカにおける柔道の普及」を讃えられ、外務大臣表彰を受けた。

その宮崎氏がこの7月29日夕、ワシントン市内のハワード大学病院で亡くなった。心不全だった。ジャネット夫人によれば、安らかに眠るような静かな旅立ちだったという。

折からブラジルで始まるオリンピックでの国際柔道競技、その熱気や人気は宮崎剛氏のような日本人指導者たちの努力の精華だともいえるだろう。

トップ画像:1998年、全米柔道マスターズ大会65歳以上の部で宮崎剛氏が優勝した時。当時67歳


この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授

産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

古森義久

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