象徴天皇は私たちがつくった その2 日本憲法起草者が語った
古森義久(ジャーナリスト・国際教養大学 客員教授)
「古森義久の内外透視」
日本国憲法の草案作りでは中核となる起草運営委員会を構成したケーディス陸軍大佐、マイロ・ラウエル陸軍中佐、アルフレッド・ハッシー海軍中佐の3人が憲法前文を書いた。憲法全体でほぼ各章ごとに8つの小委員会を作り、法務経験のある米軍人がそれぞれの小委員会の責任者となり執筆した。9条のある第二章はケーディス大佐自身が書いた。とくに重要な天皇に関する第一章の作成にもケーディス大佐が加わったという。
ケーディス氏は1906年、ニューヨーク生まれ、コーネル大学卒業後にハーバード大学法科大学院を修了して、1931年にはすでにアメリカの弁護士となっていた。連邦政府の法律専門官として働く間に第二次大戦が起きて、陸軍に入った。陸軍参謀本部に勤務後、フランス戦線に従軍した。
そしてケーディス氏は1945年8月の日本の降伏後すぐに東京に赴任して、GHQ勤務となったわけだ。だから日本憲法起草当時すでに39歳、法務一般でも十分に経験を積んだ法律家ではあった。
ケーディス氏は日本には1949年まで滞在した。帰国後は軍務を離れ、弁護士に戻った。戦前にも働いたことのあるニューヨークのウォール街の「ホーキンズ・デラフィールド・ウッド法律事務所」にまた弁護士として加わった。その後の職務では税務、証券、財政などの案件を扱ってきたという。
私が彼にインタビューしたのは1981年4月だった。彼は75歳となっていたが、週に二度ほど出勤して、実務をこなしているとのことだった。日本憲法を書いた人物がウォール街の一角で地味な法律業務をしているというのも、いくら35年という歳月が過ぎたとはいえ日本人としては奇異な印象を受けた。ケーディス氏は礼儀正しい白髪の紳士だった。日本憲法作成に関する往時の資料までを用意して、私を丁寧に迎えてくれた。
当時の私といえば、基本的には毎日新聞の記者だった。だがその1981年にはワシントン特派員から転じて、一年間という期限でアメリカの研究機関「カーネギー国際平和財団」の上級研究員として日米安全保障関係についての調査や研究にあたっていた。ケーディス氏のインタビューもその研究活動の一環だった。
ただし私にケーディス氏との会見を強く勧めてくれたのは憲法の起源の研究でも知られた評論家の江藤淳氏だった。当時、ワシントンの大手シンクタンクに招かれていた江藤氏は私に憲法起草の経緯を説明し、なお健在のその中心人物のケーディス氏から証言を得ることを提案してくれたのだった。
(その3に続く。その1はこちら。全5回。毎日午後11時にアップ予定。この論文は月刊雑誌「WILL」2016年11月号からの転載です。)
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この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授
産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。