.社会 投稿日:2014/3/4
[為末大]“気づき”はどこからくるのか〜気づいた瞬間、私たちは「自分の知らない自分」に出会う
為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)
「気づきを得た」と私達は表現するけれど、“気付き”とは何だろうか。
“気づき”は何か思い込んでいた自分に「はっ」とするという瞬間などに使われ、「ああ、そうだったんだ」という腑に落ちた感がある。そして“気づき”はいつも“ある事に気づく”感覚がある。
“気づき”というのは、その言葉通り、そこにあった事に気づいた事を表現している。つまりはどこからか新しいものがもたらされる訳ではなく、「既に自分の内側にあった事に気づくこと」を“気づき”と呼んでいる。あったのに知らなかった事を知った瞬間。
気づいていない人に気づかせる事はできるのだろうか。
知識を伝える事はできても、“気づき”そのものを与える事はできない。“気づき”はいつも自分事で、ある意味では、気づいた瞬間は、自分の知らない自分に出会ったと言えるのではないか。
教えられたというよりも、尋ねられた事で“気づき”がもたらされた事が多かったように思う。どうしてなんだろうと自分に問いかける事がまずあって、それから何かのきっかけで答えがもたらされる。僕の“気づき”はそういう感覚が強かった。
ああ、ここに立っているから対象がそう見えてたんだ。僕の最初の“気づき”はそんな感覚だった。気づいた後は、見え方が変わり、見え方が変われば自分にとっての世界が変わる。
“気づき”はいつも体験だと思う。
【あわせて読みたい】
- 食品偽装はなぜ「発覚」するのか?〜「地鶏とブロイラー」を瞬時に指摘した千原せいじは「世界中にいる」(藤本貴之・東洋大 准教授)
- 日本人がみな聡明なら「テレビなど誰も見なくなる」、馬鹿だけを相手にやっていれば「テレビの未来は暗い」(高橋秀樹・放送作家)
- 私たちの人生にも「四季」がある〜自然界と異なりひとりひとりの春夏秋冬は違う。他人と別の時間軸で生きよう。(安藤美冬・作家)
- 子供のままでいる安全性〜“いい子”になるとは“思った事”ではなく“どう思われるか”を中心に考える事(為末大・スポーツコメンテーター)
- ソチ五輪“競技を分析した記事”が少ない理由〜分析とドラマとマスメディア(為末大・スポーツコメンテーター)