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.国際  投稿日:2018/2/18

イスラム社会の目に映った日本 イスラム脅威論の虚構 その3


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録」

【まとめ】

・“黄金郷”、“列強”。古来、イスラム世界は「偏見なく」日本に注目してきた。

・日本では、イスラム系との理由による迫害はなかった。

・日本生き残りへの試金石のひとつは、イスラム系との寛大なつきあい方。

 

【注:この記事には複数の写真が含まれています。サイトによっては全て表示されず、写真説明と出典のみ記されていることがあります。その場合はJapan In-depthのサイトhttp://japan-indepth.jp/?p=38520でお読み下さい。】

 

シリーズ第一回で、日本ではイスラム世界についての知識がまったくと言ってよいほど普及していないことを指摘したが、その逆はどうなのだろうか。つまり、イスラム世界において、日本はどの程度まで知られ、どう見られてきたのか

驚くなかれ、マルコ・ポーロの『東方見聞録』に「黄金の国ジパング」が登場するより400年ほども早く、イスラム世界の文献に「黄金に満ちた島」が登場する。西暦850年頃に、イブン・フルダーズビフという人物が記した『諸道と諸国の書』に描かれた、「ワークワーク」なる島国が、日本のことではないかと言われているのだ。

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▲写真 マルコ・ポーロ 出典:パブリックドメイン

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▲写真 クリストファー・コロンブスが手書きの注釈を加えたマルコ・ポーロの「東方見聞録」写本 出典:パブリックドメイ

この人は現在のイラン北部で生まれたペルシャ人だが、当時権勢を誇ったイスラム王朝(アッバース朝)に官僚として仕える一方、ペルシャ、アラブ、ユダヤの商人による交易の歴史と、彼らが伝えてきた諸国の情報を一冊にまとめあげた。それが『諸道と諸国の書』で、アラビア語で書かれた最古の地誌とされる。それによると、ワークワークは黄金と黒檀の一大輸出国で、本国では犬の首輪や鎖までが金で出来ているという。

まさしく「黄金の国ジパング」の先達みたいな描写だが、このワークワークについて、19世紀に活躍したオランダのオリエンタリスト(東洋研究家)であるミヒール・ヤン・ド・フィーイェ(1830〜1909)が「語源は〈倭国〉であろう」とする研究論文を発表するまで、日本と結びつけて考える人は、ほとんどいなかったようだ。ちなみにワークワークの位置は「シーラの東方」とされていて、このシーラも支那(中国大陸)もしくは新羅(朝鮮半島)と推定されている。その東の島国と言えば、間違いなく日本だと言いたいところだが、実は異説も多い。

黒檀の原産地はインドであるし、犬を鎖につなぐ習慣は東洋では割と新しいものであるなど、日本の歴史的実情に合致しない描写が多い、ということで、マダガスカル説やフィリピン説がとなえられている。

あの『千夜一夜物語』にも、ワークワークが登場し、それも、かの国の王女が水浴中に着物を盗まれて帰れなくなり、やむなく異国人の妻になるという、日本の「羽衣伝説」にそっくりな伝承とされている。日本では英語版のタイトルから『アラビアン・ナイト』として有名だが、9世紀に原型ができていたものの、ワークワークの出典としては前述の『諸道と諸国の書』の方が古いようだ。

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▲写真 「千夜一夜物語」アラビア語の写本 出典:ウィキペディアコモンズ

13世紀の文献にも「ワークの島」が登場するが、こちらではなんと、700を越す島からなる国が一人の女王によって統治され、その女王は黄金の冠を被り、4000人の奴隷を従えていた、と書かれている。これはもはや、日本でも有名な『魏志倭人伝』に登場する、邪馬台国の女王・卑弥呼の伝承以外のなにものでもないと思えるが、イスラム世界にまで広まっていたのだろうか。

前にも述べたように、イスラム世界にあっては女性の地位が伝統的に低いので、豊かな国が女王に統治されていたという伝承が、非常に印象的であったのかも知れない。

いずれも、ワークワークには女性の姿をした実がなる木があり、その木の名前が語源であるとか、荒唐無稽な話が書かれているけれども、マルコ・ポーロがジパングの住民を「礼儀正しいが、人肉食を好む」などと描写したのに比べれば、偏見を助長しかねない表現はほとんどない。

ここで、視点をまたもや日本に移すと、7世紀に唐の都・長安に渡った留学生、すなわち遣唐使がアラブ商人と接触した形跡はあるものの、イスラムについて実際的な知識を得られるには至らなかった。ちなみに、彼ら遣唐使の留学費用が、日本から送られる砂金によってまかなわれていたことが、日本は大いなる産金国である、とのイメージを広める根拠となったらしい。

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▲写真 2010年上海万博「遣唐使船再現プロジェクト」に際し復元された遣唐使船。博多港にて、2010年5月14日撮影。Photo by ぱちょぴ

イスラムが中国で「回教」と呼ばれるようになり、日本にもその言葉が伝播するのは、17世紀・明の時代になってからである。この語源もよく分からないのだが、中央アジアの少数民族を漢民族がフィフィ(回回)と呼んだので、彼らの宗教も回教と呼ばれるようになった、とする説が有力だ。

話を戻して、日本が再びイスラム世界から注目されるのは、20世紀初頭のことである。

これまた前にも述べたように、18世紀から19世紀にかけて、イスラム世界は西欧列強の侵略を受け、多くの国が植民地支配に甘んじるまでになった。そんな当時、東洋の島国が「文明開化」を成し遂げ、ついにはロシアの大艦隊を対馬沖に屠って凱歌をあげた。1905年5月末のことである。

今もイスタンブールには「トーゴー通り」があるが、これはツシマ(=日本海海戦)の立役者である連合艦隊司令長官・東郷平八郎を記念した命名だ。北方のロシアから圧迫を受けていたトルコの人々が、日本がロシアに勝ったことでいかに溜飲を下げたか、想像がつこうというものだ。

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▲絵 連合艦隊旗艦三笠の艦橋で指揮をとる東郷平八郎 1905年 出典:パブリックドメイン

よく知られる通り、1917年にロシア革命が起き、日本は反革命戦争をもくろんでシベリアに出兵したが、その混乱のさなか、赤軍による支配を恐れたカザフスタンのイスラム系住民が日本軍に保護を求め、最終的には日本に集団亡命してきた。これが、まとまった数のイスラム系移民が日本にやってきた最初の事例である。

正確な人数は分かっていない。なぜならば当時、ソヴィエト革命政府を支持できないとして国外に逃れた人はかなり多く、とりわけ国籍や宗教に対して大雑把な考え方をする島国の日本では、ポーランド系であろうがカザフスタン系であろうが、ひとまとめに「白系ロシア人」とカウントしていたからだ。

いずれにせよ、イスラム系の人々が、イスラム系であるという理由でもって迫害を受けたことは、過去の日本においてはなく、彼らが歴史的に抱いてきた日本のイメージも、古代にあっては黄金郷、近代にあっては、非白人国家で唯一、列強の地位を得た国なのである。

現在でも、日本国内のイスラム系コミュニティーは、少なくとも西欧キリスト教社会に暮らす人々との比較で言えば、政治的にも経済的にも安定している。したがって、イスラム系移民の若者がテロに走る可能性は低いが、将来のことは分からない。くれぐれも特定の民族や宗教を偏見の目で見ないようにしたいものだ。

これは、決してイスラム系移民だけの問題ではない。「黄金の国ジパング」「ワークワークの島」の伝承とは裏腹に、今の現実の日本は、資源のない島国であり、また世界史的にも類例のない少子高齢化社会となっている。

そのような日本が、21世紀以降も生き残ってゆくためには、日本で働いて生活したいと考える人たちに対して、寛大な社会を築く一方、高い教育水準を保たねばならない。その試金石のひとつが、イスラム系の人々とのつきあい方ということになるだろう。

 トップ画像:図)Map of America by Sebastian Munster ジパングが描かれている世界地図 1561年 出典  Sebastian Munster


この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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