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.政治  投稿日:2015/8/18

[瀬尾温知]【日本初長編アニメは戦意高揚が目的】~戦時下のプロパガンダ映画の秘密 1~


瀬尾温知(スポーツライター)

「瀬尾温知のMais um・マイズゥン」(ポルトガル語でOne moreという意味)

執筆記事プロフィール

戦局が苛烈を極めた太平洋戦争末期、爆撃によって辺り一面が焼け野原となっていく中で、一本の映画がつくられた。それはアニメーションだった。海軍省の命令によって戦意高揚を目的に制作されたが、作者は国家と異なる思想を持っていた。完成した作品は、戦闘場面が少なく、子どもたちに夢や希望を届けたいという平和への願いが秘められていた。

「戦争の記録と映画・戦争映画の視点」と題し、さまざまな観点から戦争を検証する終戦70年企画が、川崎市市民ミュージアムで開催されている。8月16日は、“プロパガンダと映画~セレベスをめぐって”をテーマに、松竹動画研究所によって制作された「桃太郎 海の神兵」が上映された。

終戦の4か月前、1945年4月に封切りされた「桃太郎 海の神兵」は、日本初の長編アニメーション映画だった。映画は当時、最大のメディアで、アニメは年少者の感情を煽動するのに打ってつけだった。戦意高揚を意図したプロパガンダは、若年層より下の年代にも対象が拡げられていたということである。ところが、映画の冒頭は、海軍に出征していた犬、猿、雉、熊が帰郷してくる叙情的なシーンから始まる。動物たちがアイウエオの歌(作曲:古関裕而、作詞:サトウ・ハチロー)を合唱するシーンなどもあって、プロパガンダ映画なのに、牧歌調な趣が滲み出ていた。

作品ができたときに、「平和すぎる。もっと戦闘場面がほしい。それでなければ戦意高揚にならない」と、脚本・演出・撮影を手がけた監督の瀬尾光世は海軍省から叱責された。1911年生まれの瀬尾監督は、31歳のときに制作した真珠湾攻撃がテーマの中編「桃太郎の海鷲」で観客動員に成功。それに気を良くした海軍省が1943年3月、長編を命ずる。それなら落下傘で作りたい、従軍させてくれと申し入れたが、落下傘部隊は秘密部隊だからと断られた。それでも瀬尾監督は、実際に見なければ脚本も書けなければ絵も描けない、アニメーションだからといって架空のものでは困ると力説し、1週間の入隊が許された。瀬尾監督はそこで、セレベスに降りて実戦を経験した海軍空挺部隊の将兵から戦闘様式を聞き、また、どういう兵器を使ったかを実際に目で見るなど、綿密な取材をした。

松竹動画研究所の制作スタジオは、東京・銀座の歌舞伎座隣ビルに設けられ、男30、女40の割合で約70名のスタッフを集めた。制作費は27万円(現在の貨幣価値換算で約4億円)という巨費だった。瀬尾監督は「大袈裟な言い方かもしれないが、特攻隊の隊員になったつもりだった。アニメーションと一緒に自爆してもいい」との覚悟で、思い残すことがないよう新しい技法をふんだんに活用した。

立体的な奥行きを表現するマルチプレーン、シンクロナイズさせるために音声や台詞を先に録音してそれに合わせて作画するプレスコ、下から光を入れて絵の明暗を浮き立たせる透過光などを使い、日本アニメーション界の技術の粋を結集させた。透過光の特殊効果を用いたのは世界で初めてとも言われている。

制作にあたった1943、44年というと、召集令状が多くきた年で、女性にも徴用がきた。軍需工場で爆撃にあったアニメーターなどの戦死者が出て、1944年12月に完成したときにスタッフは15名ほどになっていた。悲愴な場面、それに輸送機を実証的に描きすぎた場面は軍規に触れるということで、海軍省の指示によりカットとなった。作り直すのに手間取り、公開は空襲に晒されている最中の1945年4月になった。その封切り初日に映画館へ観に行ったのが、この映画を楽しみに待ち焦がれていた青年、ちょうど20歳の手塚治虫だった。

【手塚治虫がアニメ製作を決意した日】~戦時下のプロパガンダ映画の秘密 2~ に続く。このシリーズ全2回)

※トップ画像:軍用機から姿を見せる桃太郎、出典「桃太郎 海の神兵」(松竹)


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