[林信吾]【ロマとムスリム「移民問題」の源流】~ヨーロッパの移民・難民事情 その8~
林信吾(作家・ジャーナリスト)
「林信吾の西方見聞録」
ボヘミアンという言葉がある。流れ者、といった意味合いで、フランス語起源の英単語だが、もとはと言えば、15世紀にロマ(ジプシー)の人たちがフランスに流入した際、彼らがボヘミア=現在のチェコ西部からやってきた、と誤解されたことに起因する。ロマの独特の風俗が当時のフランスの人々を大いに驚かせたことは想像に難くないが、なぜそこでボヘミアが連想されたのかまでは、残念ながらよく分からない。ボヘミアは牧畜が盛んな土地なので、フランスの農民とは服装や生活習慣がだいぶ異なる、といった程度の知識のみ広まっていたのかと推測される程度だ。
ジプシーという呼称にしても、差別的なニュアンスがあるということで、最近はあまり使わないようになってきているが、これとて語源はエジプシャンで、中世の地中海世界にあって、彼らがエジプトの逃亡奴隷の子孫である、と考えられたことを証拠立てている。
近年、遺伝子の研究が長足の進歩を遂げたこともあって、ロマの人々については、遺伝的・言語的特徴から、インド北部にルーツを持つらしい、というところまでは分かってきた。しかし、どうして彼らが父祖の地を離れて流浪し、ヨーロッパにまで行き着いたのかは、皆目分からないそうだ。
一説によれば、古代インドにおいて、西に行けば理想郷にたどり着ける、という迷信が広まり、その結果、多くの人が西を目指したのではないか、という。仏教にも西方浄土という理念があるし、迷信だと一蹴するわけには行かない、彼らにとっては説得力のある話だったのかも知れない。
いずれにせよロマの人々は、フランスをも通り抜け、ピレネー山脈を越えて、スペイン南部の地中海岸までたどり着いた。ここが「伝説の理想郷」だと考えたのかどうか、資料的な裏付けはまったく得られていないのだが、この地で彼らが、洞窟住居を築いて定住生活に移行したことは確かである。
今もスペインの古都グラナダを旅したならば、有名なアルハンブラ(現地では一般にアランブラと読む)宮殿のほど近くに、こうした洞窟住居の跡が観光名所となっているし、中にはタブラオ(フラメンコが鑑賞できる居酒屋)として利用されている洞窟もある。ちなみに、スペイン語ではロマをヒターノと呼ぶが、これも語源は「エジプト人」だ。
また、最近は日本でもよく知られるようになってきたが、ヒターノ=ロマの伝統的な音楽と、ムーア人と呼ばれる北アフリカのムスリム(イスラム信者)のそれとが融合し、フラメンコが生まれてきた。18世紀頃のことだと考えられている。
音楽だけでなく、アンダルシア地方は方言も独特だが、中南米のスペイン語は、このアンダルシア方言を基礎にしている。今すぐ思いつく例を挙げると、Z(セタ)の発音は、スペインでは英語のthのように舌をはじいてツァ、ツィ、ツェに近いが、中南米では日本語のサ行と同様に発音する。これは大航海時代に、赤土に覆われて農地に恵まれなかったアンダルシア地方から、多くの移民が新大陸に渡って行ったという歴史を反映したものだ。
そもそもアンダルシアという地名自体、アラビア語のアル・アンダルス=ヴァンダル人の土地をスペイン語に読み替えたものである。ヴァンダル人とは、はじめヨーロッパ中部平原(現在のドイツ語圏)で暮らしていたものが、ゲルマン人に追われてイベリア半島に移り、やがて西ローマ帝国に迫害されて北アフリカまで逃れた。
その後イスラムが北アフリカに広まると、真っ先にその信仰を受け容れ、やがてイスラムのウマイヤ朝がジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に攻め込むと、その尖兵となった……とされるが、これは多分に伝説的な話に過ぎない。
その後イベリア半島はイスラムの勢力圏となるが、キリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)の結果、1492年に北アフリカに押し戻された後も、地名だけは生き残ったというわけだ。今もイスラム文化はかの地に深く根付いている。
外からもたらされた文化を大いに採り入れ、一方では新大陸に多くの移民を送り出した、アンダルシア地方の歴史と習俗は、本当はヨーロッパの縮図なのだが。
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。