全国トップの出生率「奇跡の村」とは
相川俊英(ジャーナリスト)
「相川俊英の地方取材行脚録」
地域内の出生率を上げ人口減少に歯止めをかけるのが、地方創生のメインテーマである。だが、国が大号令を掛ければ事態は改善するというほど、現実は甘くない。人口流出と少子高齢化の負のスパイラルが加速するばかりだという自治体は少なくない。
そんな地方自治体の関係者から「奇跡の村」と呼ばれているのが、長野県下伊那郡下條村だ。辺境の小さな山村でありながら、全国トップクラスの高い出生率(14年は2.03人)を誇り、約4000人の人口を維持し続けているからだ。
それだけでなく、ムダを徹底排除する手堅い財政運営が村の伝統となり、例えば「実質公債費比比率」は全国で最も低いマイナス6.4%(14年度)という驚異的な数値をたたき出している。つまり、悪条件下にある下條村は全国の自治体が地方創生の模範とすべきところなのだ。下條村を1992年から6期・24年にわたって牽引している伊藤喜平村長の手腕によるところが大きい。
その伊藤村長が3月23日の村議会で、今期限り(7月まで)での引退を表明した。「奇跡の村」の立役者が身を引き、次なる世代へのバトンタッチを明らかにしたのである。
ところで、下條村はなぜ奇跡を起こせたのだろうか。結論をズバっと言ってしまえば、国の補助制度などに安易に飛びつかず、地域の実情に合った施策を自らの創意工夫で編み出し、地道に取り組んできたからだ。周囲に流されずにとるべき道を自分たちで考え、選択し、自力で歩む自治の本来の姿である。
下條村の奇跡の第一歩は、合併浄化槽によるトイレの水洗化を選択したことからだ。バブル経済期に全国の自治体は下水道事業に力を入れ、国が推進する公共下水道整備に飛びついた。事業費の半分を国の補助金、残りも起債で賄えるとあって、どの自治体も我も我もと競い合うように手をあげた。自分たちの地域性など考えずに「右へ倣え」したのである。
ところが、南信州の山間地に広がる下條村は違った。下水管の敷設は地域の実情に合わず、金利や維持管理コストなどが将来、村財政にとって大きな負担となると判断し、戸別に設置する合併浄化槽を選択したのである。国策と一線を画すもので、行政の常識ではあり得ない決断だった。実はこの合併浄化槽を推進したのは、当時の村議会議長の伊藤さんだった。村議会の意見をまとめあげ、行政と議論して方針転換を導いたのである。
その後(1992年)、村長に就任した伊藤さんは真っ先に行財政改革に取り組んだ。全職員を民間企業に研修に出して意識改革を迫り、縦割り行政の弊害をなくすために課を総務課・振興課・福祉課・教育委員会の4つに統合した。「少数にすれば精鋭になる」との考え方で職員数を類似自治体の半分ほどに減らしていった。こうして下條村職員は1人で何役もこなす「プロの公僕集団」に変貌し、その一方で職員の人件費総額は少なくなっていった。
伊藤村長は住民にも地域のために自ら汗を流すことを求めた。村が資材を支給し、住民自らが村道や水路などの整備や補修を行う「資材支給事業」を発案したのである。実施まで村民との間にすったもんだがあったが、もともとあった共助の慣行が復活し、村の隅々に広がった。そして、公共事業費の削減につながり、村の財政は強固になっていった。
一連の独自施策の上に少子高齢化対策が加わった。1990年代後半で、国や他の自治体が課題として取り組み始めるずっと以前のことだった。若者定住促進住宅を村内に建設したが、国の補助金を活用すると様々な縛りを受けるため、あえて村の単独事業とした。家賃を格安にし、子持ちか結婚予定者、さらには村の行事と消防団加入などを入居条件にした。同時に子育て環境の整備にも力を入れた。村の単独事業による医療費補助や給食費補助、保育料の低廉化などを積み重ねていったのである。
こうした下條村の独自の子育て支援策が評判となり、若者の村外への流出が減り、村外からの流入が増え、子どもたちの姿が目立つ山村となった。そして、いつしか「奇跡の村」と呼ばれるようになったのである。
1990年の国勢調査で3859人だった下條村の人口はその後、4024人(2000年)、4204人(2005年)と増加していった。そんな下條村でさえここにきて人口が想定よりも早く微減しはじめている。2010年の国勢調査では4163人となり、2015年の国勢調査では4000人の大台を割り込み3986人となった。村内に高校がないので、子どもの高校進学を機に村外に転居するケースが生れているのである。
奇跡をおこした下條村に新たな課題が迫りくるなかで、81歳のカリスマ村長が次なる世代へのバトンタッチを表明した。これまで培ってきた下條村の自治力が改めて問われる局面といえよう。
拙著「奇跡の村 地方は人で再生する」(集英社新書)
*トップ写真:下條村の伊藤村長©相川俊英
*文中写真1:下條村役場内©相川俊英
*文中写真2:村営の若者定住住宅©相川俊英
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この記事を書いた人
相川俊英ジャーナリスト
1956年群馬県生まれ。早稲田大学法学部卒。放送記者を経て、