15年前の大量殺人から何をくみ取るべきだったのか 障害者施設殺傷事件
山口敦(産經新聞大阪本社 社会部次長)
「Osaka In-depth」
また、大量殺人事件が起きた。
神奈川県相模原市の障害者施設に侵入した男が19人を殺害した事件。警察の移送車両のなか、大量のフラッシュを浴びて笑顔をみせる植松聖容疑者の姿に、大阪教育大付属池田小学校(大阪府池田市)で、23人の児童らが殺傷された際にも感じた、何とも言えないどす黒い感情がこみ上げてくる。
植松容疑者が措置入院から退院した後に事件を起こしたことが、附属池田小事件の宅間守元死刑囚に共通することから、専門家からは「過去の事件の教訓が全く生かされていない」という声があがっている。
時間帯も襲撃の対象も異なるが、徐々に明らかになりつつある相模原事件の凶行と、付属池田小事件での宅間元死刑囚の行状は、「狂気」という点で確かにつらなってみえる。
高台にある緑豊かな名門小学校で、あの日どれほどの不条理が行われたのか。
二つの大量殺人事件について改めて考えるために、付属池田小事件について詳細に調べ続けた遺族たちが、発生から1年5カ月後、自ら現場の教室に立ち、犯行を再現した際の取材から、振り返っておきたい。
「最初に刺されたのは出入り口近くにいたうちの娘です。娘の腹を刺すために(宅間元死刑囚は)かがみ込んで手で娘をおさえて刺したそうです。逃げようとする娘の髪を引っ張り、さらに背中から突き刺しました」(2年南組女児の母)
平成13年6月8日午前10時すぎ、付属池田小学校。車で小学校に乗り付けた宅間元死刑囚は、開きっぱなしだった同校の自動車専用門から、出刃包丁や文化包丁の入った緑色のビニール袋を持って校内に侵入した。
最初に標的にしたのは、授業を早めに終えた担任が、学級の菜園に出かけたばかりの2年南組だった。1階にあった教室に数人の児童が残っていた。最初の女児を刺した後、宅間元死刑囚は、教室の前の方で折り紙などをして遊んでいた児童たちを次々と切り付けた。
「ここで刺され、その後なくなった4人のうち3人はうつぶせになって倒れていた。救急隊員が着くまで25分間、放置された。隊員が駆けつけたときには一人にハートビート(心臓の鼓動)があり、救急車のなかで心停止になったのが悔やまれる」(2年南組女児の父)
4人のうち1人は廊下まで逃げた。
「娘は、教室から廊下を39メートル逃げました。走ったり、止まったり、蛇行しながら、血をぼとぼと流して、隣のクラスから逃げた子に追いぬかれ、前のめりに倒れた。着ていたブラウスは血で染まり、真っ赤なジャンパーを着ているように見えた。『うう痛い』。そんな声を聞いた子もいます」(2年南組女児の父)
宅間元死刑囚は南組からテラスを通り、東隣の2年西組の児童を襲った。クラスは席替えを終えたばかりだった。担任が通報のため教室を離れた後も凶行は続いた。
「娘は廊下に出ようとしたところで刺され、60メートル先の事務室前まで逃げました。廊下伝いの壁には、ハケで掃いたような血の跡も残っていました。血痕を府警にDNA鑑定していただいて、その様子がようやく分かったのは、事件から3カ月後でした」(2年西組女児の両親)。二つの血染めの小さな手形が残された事務室近くのコンクリートの床は、遺族の要望でその場所だけ切り出された。
西組を出た宅間元死刑囚は廊下を通り、さらに東隣の2年東組に入った。担任にイスで抵抗され教室を出たが、そこでも児童を次々と切り付けた。
テラスに出て、西へ走り出した宅間元死刑囚は、タックルした教諭を刺して重傷を負わせ、なお西へ向かい、音楽の授業から帰ってきていた1年南組の児童を見つけた。
「息子は(宅間元死刑囚と)鉢合わせになって逃げようとしたが、机などがあって逃げられず刺されたようです。壁に背中をすりつけて倒れました」(1年南組男児の母)
宅間元死刑囚は、この教室で、必死に追いすがった教員たちに取り押さえられた。10分足らずの犯行で、8人の児童が殺害され、15人が重軽傷を負った。
宅間元死刑囚は、事件後の精神鑑定で当時の心境について「国家の命令で戦争しているような感じ。自分が悪いんと違うて。戦争は国の命令やから、冷静に皆戦ってるでしょう。ああいう。びびってもせえへん。何となく終わりやなあと」(「宅間守精神鑑定書 精神医療と刑事司法のはざまで」より)と、語ったという。
担当した弁護士によると、接見時には「本当に申し訳ない気持ちがある」と語ったこともあったというが、公判では行為は認めても、罪は認めようとせず、数々の暴言を吐き散らし、最後まで謝罪しなかった。事件から3年3カ月後、死刑が執行された。
そんな事件から、我々は何をくみ取るべきだったのだろうか。付属池田小事件を受け、17年には重大な他害行為を行った精神疾患の患者を対象に、心神喪失者等医療観察法が作られた。
宅間元死刑囚が事件前、精神疾患を装って何度も「罪」を免れていたことを受けた法整備だった。同法に基づく医療観察制度では、精神疾患のために刑事責任を問われなかった患者の入退院を、医師の判断だけに委ねるのではなく、裁判官と精神科医が合議で決める。
退院や治療終了を決める審判は、単に症状の改善を判断するだけではなく、被害者に対する考え方、病気をいかに理解しているかも裁判官に問われ、審判結果に反映される。司法の関与が明確になり、退院後も保護観察所の指導で通院させることもできるようになった。
法務省によると、17~26年度に同制度に基づき2248人が入院、495人が通院の決定を受けた。うち治療期間中に再び同制度の対象になる事件を起こした者は11人(27年末現在)だったという。「一定の効果はある」と、複数の医療関係者が言う。
ただ、相模原事件の植松容疑者は、異常な行動が数々確認され、傷害事件も起こしていたものの、重大な他害行為を起こしたとはみなされず、医療観察法の対象にはなっていなかった。その場合、精神保健福祉法に基づく措置入院から退院した後、通院を強制したり、行動を把握したりする仕組みはない。
そもそも、最終的に、精神疾患ではなく人格障害と裁判で認定された宅間元死刑囚のような「境界線上の人」の凶行を防ぐ仕組みも、未整備のままだ。
「宅間守精神鑑定書」の著者で、宅間元死刑囚の裁判で精神鑑定を担当した岡江晃氏=25年死去=も、著書のなかで、「医療観察法があったとしても付属池田小事件(あるいは類似の事件)を防ぐことは難しかったのではないか」と記している。岡江氏の危惧は現実となった。相模原事件を受け、厚労省は、今回問題となった措置入院の制度や運用の在り方について見直しを検討する方針だ。
「罪の自覚もなしに、刑罰を受けても犯罪は防げない。刑罰と治療を一貫して決める刑法のシステムが必要だ」と訴える専門家もいる。ただ、むろん精神疾患の患者全員が重大な事件を引き起こすわけではなく、患者の治療や入院を強制する制度の強化は、深刻な人権侵害や差別を招くとする声は根強い。そのなかで、少しでも改善につながる具体的な仕組み作りを急がなくてはならない。
付属池田小事件は今年6月、発生から15年となった。犠牲になった8人の同級生は、多くが社会人になる年齢を迎えている。当時8歳だった2年生の娘を失った母親は、「つらくなると、原点に戻ろうと自分に言い聞かせるんです。あれだけ苦しんだあの子のことを思えば、あれ以上苦しいことはないって」と語った。消えることのない、悲しみやつらさを抱えながら、家族との今を、懸命に生きている。事件後に苦労して産んだ長男は、亡くなった姉の年齢を追い越し10歳になった。
宅間元死刑囚があれほどの凶行を引き起こしても、決して壊せなかった家族の確かな15年の営みが、そこにはある。理不尽な凶行によって壊されてはいけない、人々の営みの尊さを、再確認するところから始めたい。
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この記事を書いた人
山口敦産經新聞大阪本社 社会部次長
平成7年、産経新聞入社、松江支局配属。12年から大阪社会部。高槻通信部、南大阪(動物園)担当、大阪府警捜査一課担当、大阪府庁担当、大阪市役所担当、府警担当サブキャップ、府庁キャップ、京都総局デスクなどを経て現大阪社会部デスク。大教大附属池田小の児童殺傷事件やJR福知山線の脱線事故、地方自治、人権・同和問題取材などを担当。20年、取材班とともに「生活保護が危ない~『最後のセーフティーネット』はいま~」(扶桑社新書)を出版した。
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