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.国際  投稿日:2016/9/1

ダイアナ元妃の悲劇の本質 知られざる王者の退位その7


林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

“The King reigns, but does not govern.”

英国王室のあり方について述べた、有名な言葉である。「国王は君臨すれども統治せず」が日本語の定訳だ。

しかし、この言葉について、あまり知られていない事実がある。「そもそも、どこの誰が言い出したか分からない」ということだ。たしかに歴代の英国王で、このような布告を出した国王もいなければ、演説が行われた事実もない。19世紀に、ヨーロッパ大陸諸国(フランスともポーランドとも言われる)の学者が、どこかに書きとどめたものが、さらに後年、人口に膾炙するようになった、といった経緯であるらしい。

このことからも分かる通り、英国王室は、自発的に政治権力を手放したわけではなく、議会との長い対立抗争の歴史を経て、たまたま現在のようなあり方になったのである。

象徴的な話を、もうひとつ。わが国では、定例国会の冒頭、首相が施政方針演説を行うが、英国では国王がこれを行う。「私の政府は……」

という言い方で、その年の施政方針を発表するのだ。そして、この演説が行われている間、日本でいえば幹事長に相当する与党の大物議員は、議会でなくバッキンガム宮殿にいる。国王が議会から無事に戻れることを担保すべく、議会の側が人質を差し出した故事に由来するのだ。

議長就任の儀式も一風変わっていて、指名された後、首を振っていやがる新議長を、数人の議員が強引に壇上に引きずり上げてしまう。かつて、議長に指名されるということは、国王の意に沿わぬ法案を上奏すべく王宮まで出向き、下手をすれば首と胴とが切り離されて戻って来なければならない、という職責を担うことであったのだ。

今となっては、どちらかと言えば皆で面白がっている伝統だが、前回私が述べた、英国の国王は政治との関係に非常に敏感だ、と述べた理由は、これでお分かりいただけたことと思う。

それでは、もうひとつ指摘させていただいた、国民世論と王権との緊張関係、とは具体的にどのようなことか。1997年8月31日、ダイアナ元妃がパリで悲劇的な事故死を遂げた。事故が起きたのは深夜2時少し前(ロンドン時間)のことで、彼女が死去したとの第一報は、午前4時頃に入ったが、多くの英国民がその報に接したのは、夜が明けてからのことであった。

その日のうちに、多くの市民がバッキンガム宮殿を訪れ、献花して立ち去ったが、その量たるや、フェンスの外に堤防が突如現れたかのように見えた。ニュース映像などで、ご記憶の読者も多いかと思われる。

同時に、宮殿に半旗を掲げず、スコットランドの避暑地から動こうとしなかった女王夫妻らに対して、非難の声が巻き起こったのだ。実際にインタビューに対して、「このような冷酷な王家を、税金で維持する意味があるのか」と語った人もいた。生前退位をめぐる議論どころの騒ぎではない。

ダイアナに対する同情ももちろんあったが、それ以上に、王室の伝統文化といったものが、もはや国民に理解されていない、という問題であった。

まず第一に、私が一貫して元妃と記していることからもお分かりのように、この時点でダイアナはチャールズ皇太子と離婚しており(1992年より別居、96年に離婚)、とっくに王室の一員ではなくなっていた。女王がどうして、一私人たる女性の事故死に際して、涙を見せねばならないのか、ということになるーー王室の側の論理では。

しかし国民は、そのようには理解しなかった。

そもそも離婚の原因がチャールズ皇太子の不倫(相手は現在のカミラ夫人)にあったこともよく知られていたし、英国民はダイアナを依然として「悲劇のプリンセス」と見なす一方、女王のことを、死んだ後までも嫁に対して冷酷な姑、と言わんばかりに非難の対象としたのだ。これではまるでホームドラマだが、今や王家は、そのような形でしか、関心の対象となっていないのである。

現在、英国王室は、世界的な人気を誇るサッカークラブであるマンチェスター・ユナイテッドの広報担当者だった人物をヘッドハンティングし、語弊を恐れず言えば「人気取り」にこれ務めている。女王の衣装デザイナーも、チームが一新された。

一方、事故現場に駆けつけた消防士の証言によれば、ダイアナの最後の言葉は「Leave me alone. 放っておいて」であったという。彼女の本当の悲劇とは、常に好奇の目にさらされる立場であったこと、それ自体であったに違いない。そして、エリザベス2世女王もまた。


この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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