シリア情勢と米大統領選挙 アレッポを巡る米露土三国の思惑
山内昌之(東京大学名誉教授・明治大学特任教授)
■アレッポの現況
シリア情勢は、アサド大統領の政府軍によるアレッポ包囲やロシア軍の空爆によって緊迫した様相を呈している。シリア北部アレッポで、ロシアが人道支援名目で実施した一時停戦が10月22日午後に期限を迎え、空爆と戦闘が再開された。
9月30日の世界保健機関(WHO)の発表によれば、北部の中心都市アレッポへの政府軍とロシア軍の空爆により,その1週間で子ども100人を含む338人が死亡したと伝えられる。そのうえ,30人足らずの医者が運営する6病院だけで数十万人の患者を治療しているという惨状には目を覆うほかない。9月23日から10月8日にかけて,包囲中の東アレッポで呻吟する住民は27万人に上り、この期間の死者総数は406人であった。そこには子ども114人,女性56人以上も含まれ、負傷者は1384人(子ども279人,女性110人以上)に及ぶという悲惨さである。
アレッポの帰趨については、アラブ世界のインターネット・メディアでも二つの異なる見方が存在する。『シリア・ダイレクト』(10月6日)によれば、シリア政府軍はアレッポの戦闘が長期に及ぶと予測しており、東アレッポへの地上侵攻の本格化の前に、東アレッポ自体を二つに分断する狙いをもって包囲戦を慎重に進めているというのだ。その目的は,アレッポ郊外の反政府勢力に市内への戦闘員補充や物資補給をさせないことにある。
他方レバノンの『デイリー・スター』(10月6日)は、アレッポが数週間以内に陥落すると見ている。米政府は2つの事後シナリオを想定しているらしい。第一は、分散した戦闘員たちが後方からシリア政府軍やロシア軍に脅威を与える可能性である。第二は、彼らが拠点とするイドリブやホムス,ハマ,ダラアなどの県農村部に人員を集結させ、アメリカやトルコ,ヨルダンやサウジアラビアなどが軍事支援を強化するという展望なのだ。
■トランプの見たシリア情勢
重要なのは、アサドの政府軍がロシアやイランから来た外国人に指揮されているということだ。給与面ではイランの革命防衛隊グッズ(エルサレム)軍団が援助しており、地対空ミサイルや戦闘爆撃機の作戦はロシアが担当している。10月4日,ロシア国防省のコナシェンコフ報道官は,S-300対空ミサイルをタルトゥース海軍基地防衛のために配置すると発言した。匿名の米軍高官はこれが要衝のバニヤス山地に配置されるなら、米軍パイロットも脅威を受けるとCNNに懸念を表明している。そのうえ10日になると、ロシア国防省は、シリアから租借中のタルトゥース基地をロシア軍の恒久的な海軍基地にすると発表した。
また、アサド政権をめぐる多くの「神話」や「嘘」の一つは、外国人テロリストやホーム・グロウン・テロリストであれ、彼らこそテロリズムと対決しており、アサドはシリアの国家主権を守っている愛国者だというものだ。ロシア紙『イズヴェスチヤ』(10月22日号)によれば、アサド大統領は政府軍が戦っている相手の大多数を、アルカーイダの教義に忠実なタクフィーリスト(論敵を不信者と断定して処刑を正当化する過激派)だと断罪していた。興味深いことに、こうしたアサドの主張は、時にはアメリカの大統領選挙でも超保守派の目をくもらせる一因にもなった。
10月の論戦でトランプ共和党大統領候補は、こう述べている。「私はアサドがまったく嫌いだ。しかし、シリアはISを殺している。ロシアもISを殺している。そしてイランもISを殺している」と。ISを殺せば、皆が正義の徒になると言わんばかりの単純な論理である。
しかしトランプは、アサドが殺害しているシリア人の一般市民の被害を見ようとしないことだ。デラアに本拠をもつ「南部戦線」のような穏健反対派や市民を数万人も殺している非良心を続ける限り、これから数年間にわたってシリア問題はますます過激化する材料に事欠かないだろう。アサドその人こそ過激派の運動を刺激する要因なのである。
■アメリカ新大統領とロシアとトルコ
いずれにせよ、ロシアとイランによるシリア政権への支援とアサド大統領の耐久力は、アレッポ北東部のバーブ市への攻勢を展開できるほど優勢に転じた。アサドのシリア政府軍とシーア派同盟者はバーブ市をすぐに再制圧できる力量をもたないかもしれない。にもかかわらず、アサドはプーチンとともに、クルド人とアラブ人の連合体の「シリア民主軍」(SDF)によるバーブ制圧を許すか支援によって、東アレッポ占拠中の反政府勢力や、市外にいるISとの衝突を促進して、漁夫の利を得る可能性を検討しているに違いない。
ただし、SDFのバーブ進軍の援助はトルコの敵意を買う危険が大きい。10月のイスタンブルにおけるプーチンとエルドアンの会談を経て修復に向かったトルコとロシアとの関係を再び悪化させかねないからだ。また逆にトルコは、支援する反政府派に迅速なバーブ制圧を唆すかもしれない。
その結果は,対IS戦でアメリカが頼りにするクルドをめぐる米露トルコの思惑を対立させシリア情勢をさらに複雑にしかねない。というのは、SDFとは、2015年10月以降にシリアのクルド人民防衛隊(YPG)が、複数のアラブ系反政府勢力と正式に同盟を組んだ武装集団だからである。トルコは、YPGを自国のテロリスト集団と見なすクルディスタン労働者党(PKK)のシリア・フラクションと見なしている。その一方ロシアは、SDFについて、アサド政権打倒を優先目標としてきた他の反政府勢力と異なり、ISとの対決を主な目標としていると評価している。SDFはユーフラテス川以東を主要活動地域としており、シリア政府軍の作戦範囲とはあまり重ならないのだ。SDFとロシアやアサド政府との間には、相互不干渉の関係が成立しており、この点だけはアメリカによるSDF受容とも利害が共通しているといえよう。
アメリカは特異な大統領選挙キャンペーンに足を取られ、中東外交で積極的に出る暇がなかった。ロシアはこの点を見切って、自らアレッポ攻撃の主力になることを決意したのである。有利な現状を積み重ねる老獪なラヴロフ外相は、停戦や休戦の図式にこだわるケリー国務長官に和平や停戦の交渉で主導権を決して与えていない。クリントンとトランプのいずれが大統領になろうと、新政権はロシアとのタフな交渉を覚悟せざるをえない。もはやケリーのような首尾一貫しない外交アプローチを放棄せざるをえないだろう。
ヒラリー・クリントンは,かつて飛行禁止区域の部分的設置を提唱したことがある。これはシリアにおける米軍の軍事関与を増大させることにつながる。しかし、仮にトランプがアメリカの新大統領になっても、強力なミサイル防空システムと戦闘爆撃体制を整備したロシアに正面から圧力をかける勇気を発揮できるだろうか。それにもまして、クリントンは正面からの米露対決を辞さない決断を下せるだろうか。まもなく、その答えが出ようとしている。
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この記事を書いた人
山内昌之東京大学名誉教授、明治大学特任教授
1947年生まれ、北海道出身。歴史学者。専攻は中東・イスラーム地域研究、および国際関係史。北海道大学卒業、東京大学学術博士。カイロ大学客員助教授、東京大学教養学部助教授、トルコ歴史協会研究員、ハーバード大学客員研究員、政策研究大学院大学客員教授、東京大学中東地域センター長などを経て、東京大学教授を2012年に退官。フジテレビジョン特任顧問、三菱商事顧問も務める。著書に『スルタンガリエフの夢』(東京大学出版会)、『ラディカル・ヒストリー』(中央公論社)、『中東国際関係史研究』(岩波書店)、『