日本解凍法案大綱 13章 公開議場での秘密暴露
牛島信(弁護士)
桃井弁護士が教えてくれていたとおりの台詞で梶田健助社長が開会を宣言し、桃井の言ったとおりの順番で進んでいった。
話が取締役解任の議題のところへ来たとき、沙織は小学校の生徒のように勢いよく挙手して口を開いた。
「はーい!」
88歳とは思えない、自分でもびっくりするくらい張りのある声だった。梶田健助が指名して発言をうながす。
「提案の理由は質問は前もって提出した解任の理由にあるとおりです。
読み上げましょうか?」
緊張のためか、少し声が震えた。
「いいえ、わかっていますから結構です」
梶田健助が遠慮がちに応答する。
「じゃあ、一番目の理由から。ちょっと中味を追加しますからね」
手元の紙を見ながら、沙織がもう一度声を張り上げた。
「ゴルフの費用のこと。
社長の梶田健助さん。あなた去年の12月24日、茨城県の日の出カントリークラブへ行ってますね。その費用のことをおたずねします」
「そんなこと、この株主総会と何の関係もないでしょう?」
「いいえ、大ありですよ。あなたの取締役からの解任がこの株主総会の議題なのです。私の提出した解任の議題に理由があるかどうか、あなたにお答えいただかなくてはなくてはなりません。
その賛否のためには、あなたが会社の金を私的目的に使っていないか、公私混同がないかどうかがとても重要です。私は、あなたに公私混同があるから解任を提案したのです。」
「そのことはもう、それは招集通知にも載せてありますし、いいでしょう」
梶田健助が遮ろうとする。
「いいえ、そこにはごく抽象的にしか書いてありません。
私の申し上げますことは、あなたにとって不愉快な事実かもしれません。でも、あなたは向島運輸株式会社という法人の取締役、それも代表取締役社長という立場におありになる。個人的なこと、プライバシーの問題、名誉にかかわるといったことでいい加減に済ますことは許されません」
梶田健助は黙ってしまった。
不意打ちだった。こんな可能性については前原弁護士はひとことも言ってくれなかった。たった今、沙織が目の前で老人とも思えないハリのある声で言った詳細な事実など知らされていなかったのだ。
取締役席で一番梶田に近い場所に座っていた妻の梶田紫乃が、さきほどとは打って変わって、三津田沙織の言うことを一言も聞き漏らすまいと熱心に沙織を凝視していた。
「そのゴルフ、あなた、中野光江という女性といっしょだったでしょう。あなたの愛人。それなのに、会社の経費で落としている。
それだけじゃない。
その女性の経営する銀座のクラブに週に2回行って、一回につき約5万円を会社の経費で支払っていますね」
梶田が答える前に、紫乃が首を横に回して梶田の顔を見つめた。
梶田が答える間もなく、紫乃が、
「え?そういうこと?本当なの?三津田さんのおっしゃるとおりなの?」
「梶田紫乃取締役、未だ株主の質問中。黙っていなさい」
沙織が自分でもびっくりするくらい、ピシャリとした声が出た。沙織はわくわくしてきた。こんな気分は何十年ぶりだろうか。
「梶田健助。あなたはその中野光江という女性との間に子どもがありますね。いま8歳の女の子。中野万喜絵という名前の子。」
紫乃は梶田の顔を見つめたままだった。なんの表情も顔には現われていない。その場にいるのは、三津田沙織と前原弁護士を除けば、全員が向島運輸の取締役でなければ従業員なのだ。梶田紫乃専務取締役にとってはどれも部下になる。
(私がこの場で取り乱すことは会社のためにも許されない。もし慌てたら自分の顔に自分で泥を塗ることになってしまう。私はそんなみっともない女なんかじゃない。)
その必死の思いが紫乃を支えていた。
梶田は、かろうじて、
「これで株主総会は終わり」
とだけ言って唐突に立ち上がると、そそくさとその場から退出してしまった。
三津田沙織が、梶田健助の後姿に、
「会社っていうのは社外取締役を入れないとダメなの!」
と鋭利なナイフのような声を投げかけた。桃田弁護士が教えてくれたセリフだった。
梶田健助は一瞬その場に立ち止まったが、なにも耳に入らなかったかのように後ろを振り返らず、そのまま急ぎ足で出口の扉から出て行ってしまった。
前原弁護士がドアのところま駆け寄ると、ドアから首を出して外の廊下を見やって、「梶田さん、梶田さん」と抑制した声をかける。しかし梶田健助はその声にも振り返らず、小走りに逃げ去ってしまった。
梶田健助が退場すると誰も発言するものもなく、三津田沙織と前原弁護士だけを残して全員が部屋から出て行った。なにがなんだかわからないまま、株主総会は終わってしまったのだ。
梶田健助は株主総会を途中で放り出すと、使い慣れた社長室に入り内側から錠ををかけた。
打ちひしがれていた。あれ以上、あの場にいて議長役を務めることなどできなかった。だから逃げ出したのだ。敵前逃亡だった。わかっていた。そのあげく、独り部屋に閉じこもったのだ。
机を前にしていると、涙がひとりでに流れ出てくる。右のこぶしで拭う。子どものころに似たことがあった。なぜかわけもなく悔しかった。放っておくとつぎからつぎに両の目から勝手にあふれ出してくる。椅子に座っていたからズボンの上にぼたぼたと音を立てながら落ちて円い染みをいくつもつくった。
(俺は、こそこそと逃げ出さなくてはならないような、なにか悪いことをしてきたのだろうか?)
みずから問いかけてみて、
(していない)
と、いつもの結論になる。なんども自問自答したことだった。
(光江とのゴルフを会社につけたのが悪いってか?
ふん。会社の奴らは知らないが、光江は会社のアドバイザーなのだ。金も払い、アドバイスも受けている。うちだけがアドバイスしてもらっているってわけでもない。あいつは他からも稼いでいる。それだけの能力のある女性だ。客観的に証明されていることだ。中川先生も認めた払いだ。
そういうコンサルタントがウチのために時間を使ってくれている。だから報酬を支払う契約をしている。報酬は他の会社と同じ水準だ。あいつがそう言っていた。
光江が得意先への酒の飲ませ方を教えてくれて、どれほどウチが儲かったことか。ウチは建物を貸してなんぼの商売だ。大きな会社でウチのようなところを担当している人間は役得が楽しみなのだ。酒かゴルフ。ゴルフならあいつに聞くことなんか何もない。俺がよくわかっている。酒、それも夕飯に誘うときの場所の選択、酒の選択。シャンパン、赤白のワインでもブルゴーニュなのかボルドーなのか、それともカルフォルニアか。日本酒、焼酎なら?。季節ごとの肴。
それを楽しみにしていてる店子、つまり賃借り人側の担当者が何人もいる。おかげで家賃の値上げはスムーズに進む。もちろん家賃の金額に大きな違いのないことは大前提だ。そうでなければ酒などともにできない。家賃の値上げを大家に言われたとおり承諾するかどうか、どのくらいがちょうどいい加減かなど、組織のなかでは下のほうにいる人間に任されているものだ。そんな人間には会社への忠誠心はあっても、なにかついでに、ほんの少し得をしたいと願っているものなのだ。もちろん会社によるが、ビルを借りることがメインの仕事だという会社などない。
金は理由なしに渡すことはできない。お世話になったからと一献傾けさせてほしいと言えば、断ればかえって角が立つ。懇親ならおごってもらう正当な理由もあろうというものだ。俺もバカじゃない。1回目は契約の更新が終わった後にやる。2回目からは相手の担当者が期待する。まったく、役得ってのはよくできた言葉だ。アルコールは人の感覚を緩く、大きくするものだ。珍しい酒、高いワインと言われて飲めば、次からは隠微な共犯者だ。
うちにしてみればひと月分の家賃が1%変われば利益は20%は増える。いやもっとかもしれない。上げてもらった家賃、下げないままにしてくれた家賃は、丸々儲けといってもいい。経費は少しも増えないのに家賃だけが上がる。
中川先生にそう説明したら、うーんとうなって、「ま、ほどほどならいいでしょう」と言ってくれた。税務署もとおしてくれた。先生にしたって、光江と俺とが深い関係とは想像もしなかったってわけもあるまい。
光江にはこれからも大いに働いてもらうつもりだった。会社のためになる。
それがおかしい?数字はウソをつかない。確かにあいつは会社が払うぶん以上に儲けさせてくれたのだ。
アドバイザーとゴルフをすらりゃ会社が払うってのは当たり前じゃないのか?
社長と深い仲の女だから、それだけで会社の得になることでもダメだっていうのか?
ウチは上場会社じゃない。
やっぱり俺は悪くない。
じゃあ、どうして俺はこそ泥みたいに逃げたんだ?
そうだ、俺は弁解するのが面倒くさくなったんだ。嘘を積み重ねるのがなんともわずらわしくて堪らなくなったんだ。
嘘?誰への?会社?会社って誰だ?紫乃か?結局そこへ行くのか?
嘘じゃない。俺は真っ当なことを言っている。しかし、世間の連中には嘘としか聞こえない。だから、なにを言ってみても嘘にしかならない。紫乃に、実はあの女とは体の関係があるけど、でも会社に儲けさしてくれるいいコンサルなんだ、だから接待する、なんて言えるわけがない。だから、嘘をつく。紫乃のためでもある。
その挙句、俺はいつもびくびくしながら行動しなきゃならない。
そいつが嫌になったんだ。
それだけのことだ。そこに到達するのにこれだけの時間がかかった)
梶田健助は立ち上がるとティッシュー・ペーパーを2,3回摘み上げてズボンを拭いた。前の部分が濡れているからなんとも格好が悪い。誰も涙などと思いはしないだろう。机を大きく回りこんで、左側にあるソファに倒れるように横になるとあおむけになって天井を眺めた。自分の部屋なのに、これまで天井などしみじみと見たことなどありはしない。
(紫乃からしてみれば、なんとも耐えられないことだろうな。許せない、ってところだろう。
分かる。分かる。だから俺はこれまで隠していた。隠し通してきた。
株主かなにか知らないが、どうして赤の他人にこんなことを暴かれなくてはらないのか。それも公開の場で。女房が嫉妬に狂って口走るのならともかく、会社の株主って、いったいなんなんだ。
あの場に柴乃がいた。だから、もう止めだ止めだ、っていう気になった。
紫乃からすれば最悪の事態だろうな。他人に、夫に騙されているバカな妻だということを突きつけられて、実は自分たち夫婦はとっくに破綻していることを暴露されてしまった。それなのにその場で取り乱すわけにも行かない立場に縛り付けられていて。まるで、片方の頬を動かないように壁に押し付けられて、もう片方の頬を殴られているようなものだ。それも拳骨で、思いっきり。
済まないことだった。こんなことになるとは思いもしなかったんだ。悪気はなかった)
そこまで考えてきて、健助は上半身だけ起き上がるとその場で座りこんだ。背もたれに首ごともたれかかって目をつぶる。
(我ながらバカなことを言っているな。
もうお終いだ。なにもかも。
やっと、だ。
俺は会社のためにと思って働いてきた。
だが、もうそれも止めだ。自分で自分の首切りだ。
カジタケンスケ、お前は社長の任に堪えない。よって解職する。即刻荷物をまとめて出て行け。
はいはい、そういたします、ってとこだな。
この部屋も今日が見納めってわけだ)
大きなため息をつく。また横になって仰向けになる。そのままの姿勢で、器用に両足を動かして靴を片方ずつ宙に放り出すように脱いだ。両方の靴を脱ぎ終わると、次に右足の親指を左足の靴下のゴムの部分に差し込んでそのまま右脚を伸ばして靴下を脱ぐ。左足でも同じことをする。両足がむき出しになった。
両足の裏を空中で二、三回叩き合わせてみる。
(「やれ打つな ハエが手をする足をする」の図だな。俺は200年前に一茶の目の前を飛びまわっていたハエの生まれかわりってことか)
笑いがこみ上げてくる。鼻先と唇だけで自分を笑ってみる。
(さてさて。退任する社長さんがなにをしておいてくれないと会社は困るかな?
鍵の類は、机の上に置いておきさえすれば全部総務課長が分かる。
ハンコは、手元にはいくつもありゃしない。だいいち、いずれにしても直ぐに切り替えるだろう。
店子との契約は業務課で扱っているから、誰が社長でもとどこおったりしない。
不動産の管理なのだ。仕事なぞ大したものはありゃしない。個人で不動産をたくさん持っているのと何も変わらない。税金のために株式会社という形を利用しているだけなんだから)
梶田健助は伸びをした。それから大きな忘れ物をしていたことに気づいた。
(14章に続く。最初から読みたい方はこちら)
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この記事を書いた人
牛島信弁護士
1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)
〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。
牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/
「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html