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.経済  投稿日:2017/4/15

日本解凍法案大綱 14章 社長の離婚


牛島信(弁護士)

(あ、こりゃ離婚になるな)

梶田健助は、ソファに仰向けに横になったまま大事な忘れ物をしていたことに気づいた。

(俺はなにも要らない。紫乃が好きにしたらいい。

俺の財産なら、なにもかも全部あいつが取ればいい。慰謝料はいくらでも払う。もっとも、おれ自身は金というものを持っていないから、払いようがないがな。

弁護士さんのご登場ってことになるのかな。

今回だけは中川先生に頼むってわけにもいかないか。会社の税理士さんだからな。あの先生が一番中味をわかっているんだがなあ。

ここはやっぱり弁護士さんでないとダメか?           

法律でバッサリ。それも明快でいいかもしれない。

もっとも、柴乃にしてみたところで俺を警察に突き出せるわけでもあるまいし、弁護士も腕の振るいようがなくてがっかりだろうがな)

ドアをノックする音がした。秘書だった。

横になったまま背広の上着からスマホを取り出すと自分の直通にかけた。電話に出た秘書に、君はなにも心配しないでいいとだけ言った。

(そういえば、ここには大事なものはなにも置いてない。

案外、自分でもいつかこんな日が来ると思ってたってことかな。

梶田健助、まったくとんでもない男だな)

そろえた両脚で弾みをつけて起き上がると、ソファのうえであぐらをかいた。

(これで光江の家に行ったとこで、「もうここには入らないで」とでも言われたらどうなるのかな?さしあたって今日はホテル泊まりか。明日は?明後日は?)

梶田健助は大声を上げて笑った。

「はははっ。こいつはおかしいや。梶田健助、三界に家なし、か」

(有難いことだ。もう世間体もないし、妻への気遣いも要らない。毎日嘘のつき続け、虚構だらけの生活を営む必要も消えた。

まったく、自分が嘘をついて暮らしていると、誰もが自分と同じ嘘つきなのだろうという気がしてくる。目の前のこいつも俺と同じ嘘つきか、って思ってしまう。一種の地獄だな。地獄とは他者がいることだって言ったのはサルトルだったか。

いったいあれはなんのための噓だったのだろう?俺はいつから、なぜ、嘘をつき始めたのだったろう?

親を騙し、妻を欺き、子をたばかった。なんのため?

その場その場でついてきたたくさんの嘘。それも巧みな。

紫乃は、俺のそうした言葉に幸せを噛みしめていたのだ。俺にはわかっていた。愛されていると紫乃が感じ、幸せだと思っていること。だから嘘をつきとおすのが義務だと俺なりに自覚していた。

嘘、嘘。

まるで本心のない人間だ。

そんなの、人間じゃない。人間失格だ。剥落?離脱?剥脱?剥離?溶解?融解?消滅?消失?いや遊離か。

今さらの泣き言か。

それでも、もし人生をやり直せるのなら、と思う。まだ61なのだ。

いや、未練だ。未練にすぎん。また同じことを繰り返すだけだ。俺はなぜかわからないが、きっとなにかに呪われているのだ。火を盗んだプロメテウスのように、神々の怒りを買ったシジフォスのように。そんなに立派じゃないが、きっとまた嘘をつくことになる。

人間、できることしかできない。

だが、そいつは、なるようにしかならないってのとは違う。

できることはやる。しかし、生きていればできないことにぶつかることがある。そこで行き止まりになる。

もう61歳、光江は43歳。

13年になる。俺が48歳、彼女が30歳だった。どちらも若かった。今じゃ信じられないほど若かった。

思い出す。子どもを作らないでいいというのが俺にとっての彼女の取り柄だった。何人かの女性と付き合ってきたが、その深さが一定の度合いを越すとどの女も子どもが欲しいという話になる。俺のほうは、いつも子どもを作らないように心がけていた。俺なりの義理合わせだ。だが相手の女にはそれとは無関係な願望がある。

あるとき光江にも同じ質問をした。潮時かと思ったのだ。どうしても子供が欲しければ別れるしかない。そう言った。だから、光江の、「そんなこと考えてもいなかった」という答は意外だった。

「女に生まれたのにどうして?」と訊いたら、「私、子ども嫌いなの」ときた。そんな女もいるのかと思った。安心した。子どもが欲しいと言われれば、こちらが気を利かして限られた関係にとどめるしかないだろうと、相手を思いやったつもりで一人合点していたのだ。

それでめでたしめでたしのはずが、4年経ったところで妊娠したと言われた。しれっとして、できちゃったみたいときた。

だが俺は腹が立たなかった。来るべきものがやっぱり来たのかという、サイコロを振って悪い目がでたときの、これ以上は悪くなりっこないという安心感みたいなのがあった。それに、男と女がすることをしてりゃ子どもができて当たり前だ。俺が油断していたってことだ。

だまされたとは思いもしなかった。できたから産みたいの、という光江に、不思議な気もしたが、女とはそういうものかと妙に納得してもいた。

本当は紫乃の手前、いやそんなことより3人の子どものために、外で子どもは作りたくなかった。子どもたちがどう思うことか。怒るのならまだいいが、とてもがっかりするだろうなと思った。

だから隠した。光江は別にそれで構わないようだった。それなりの理由はあった。紫乃とはセックスレスの夫婦というのになって、何年も経っていた。お互いに納得していた。俺が彼女以外の女性と関係していることは分かっていたことだろう。探偵でもつかって探れば必ずわかる。しかし、賢明な女はそんなバカな真似はしない。世の中には知っても仕方のないことがある。紫乃はとても賢明な女だ。

とにかく、光江は子どもを産んだ。認知はしないと言ってあった。むごいことだと思ってはいたが、俺には紫乃と子どもへの義理が勝った。

光江との子ども、万喜絵にしたって、いずれ大きくなる。大きくなれば父親のことをなんと思うのか。親が勝手にできるものでもない。生んで欲しくなかったなんて言うバカ娘に育っていれば、それこそ俺も自業自得ってことになる。万喜絵が20歳のときに俺は73歳だ。たぶん生きているだろう。俺は、遺言で認知するのかなと思ってきた。青年会議所の仲間のオヤジさんにそんなのがいたって聞いたことがあった。

だから、本当に紫乃や子どもへの義理を果たしたことにはならない。自分が生きている間に厭な目に遭いたくないだけのことだ。そいつも分かっていた。人生、思うようにはならないものだ)

ここまで考えたところで梶田は裸足のまま立ち上がった。手を伸ばして靴と靴下を集めて足元に置く。かがみこんでもういちど靴下を右足から履きはじめる。

(こんなことになったが、これはこれで悪くない再出発だ。

どうせ20年以内には死ぬだろう。

俺が光江より先に倒れたときのためにと中川先生に頼んで信託をつくっておいた。それが俺が会社から追い出されたときに役立つとはな)

なにもかも承知の中川先生は、「信託を使うのが良さそうですね」と言ってくれた。俺は、信託と言われてもなにがなんだかわからなかったが、とにかくよろしくお願いします、といつもの調子で頼んだのだ。

どうしてこんな人生になってしまったのか、自分でも分からない。

与えられた場所でそれなりに一生懸命仕事をして金を稼ぎ、限られた地域での話ではあってもそれなりの名声も築いた。家庭も持ち子どもも儲けた。女房以外の女性とも交わった。親父が死んでからは歯止めがなくなった。それでも平穏無事でなにも起きなかった。俺が生真面目な嘘を紫乃に向かってつき続けていたからだ。紫乃との間でセックスがなくなってからは、俺なりのバランスのとれた奇妙な人生ができあがったくらいのつもりでいた。

性がこの身を、この心を引きずってきた。男ってのはしょせんそんなもの。体のなかに悪魔がいるのだからな。俺ではなく、体のなかの性が俺を支配している。競馬にのめりこんだのも、わけもわからずに必死に走る馬の姿が我が姿に見えたのかもしれない。鞭を当てられると、わけもわからずよりいっそう懸命になって駆けるところなど、他人ごとではない気がしたものだ。生々しい興奮が身体のなかで猛りたち、血管が煮えたぎるようになって、そのたびごとに毎度、全身に鳥肌が立った。

まあいいさ、こんな男は、もし金が無ければ犯罪者になってでも性の欲望を遂げようとしたかもしれない。どっかの誰かさんのように痴漢で捕まって運の尽きってことだったかもしれない。そう思えば、金のおかげで助かったってことだ。

金か。

三津田の叔父の望む結婚をしたのも、金がぶら下がっていたからかもしれないな。会社を継ぐ、紫乃といっしょになる、それが当然のことのように三津田の叔父がいつも言っていた。若かったからなにも考えなかった。2歳年上の紫乃の、色気をむんむんと発散させている肉体がすぐ横にあった。もう封印が切られた女体。だから、誰になにを言われなくったって紫乃との関係は自然にできあがった。

紫乃は三津田の叔父に言い含められていたのだろうか。あいつの身も心もからめとれ、って。

紫乃が会社の実質的なオーナーだってことは、いつ知ったのだったか。三津田の叔父がどうしてそんなことをしたのか。紫乃と叔父との関係について、俺はいつ知ったのだったか。

だが、俺にとって紫乃との関係は、性も、日常生活も、とても快適だった。結婚前も後も、陶然とした日々が、手に物が触れるように確かにあった。俺には、会社が誰のものかなんて気にもならなかった。紫乃がいて、俺と一体だと思っていたからな。いや、俺は2歳年上の紫乃の下風に立っている自分が、少しこそばゆくて嬉しかったのかもしれない。

三津田の叔父が死んだとき、俺は若かった。まだ未来は弁護士になるはずの身だった。

三津田の叔母に頼まれて父親が社長になって会社に入ってきた。俺は向島運輸なんて会社には何の関心もない風を装っていた。ただ、どうやら司法試験は怪しいな、どうせ父親は雇われ社長に過ぎないし、俺はその後を継いで安楽に暮らすことができる、惚れた年上の女と二人の間に生まれた子供たちに囲まれて、地元の人に頼りにされながら、なんてぼんやりと予感していたのか。

だが、俺の体のなかの悪魔がそいつをかき回してくれたってわけだ。

なに、俺の性欲など大した欲ではない。ただ、素適だなと感じた女性と肉体の交わりを持ちたい、それだけだ。肉の交わりは心の触れあい、魂の融合。

なぜ妻以外の女性を?

体のなかの悪魔と言ってみたところで、自分でもよくわからない。

今の時代には許されない?社会での立場にもよるだろう。俺は教師ではない。政治家でもない。

誰も他人の情事そのものに関心などありはしない。よほど変わった奴は別として、誰もが同じことをするのだ。世の中が関心を持つのは、その睦(むつみ)ごとをしている人間に相当の社会的名誉がある場合だけだ。そいつが毀すに値するほどの人物である場合にだけ問題になる。

俺の場合は、多少はそいつに当たるのだろうか。小さな世界の名士ではある。商工会議所で役員もしている。だが、誰もが関心を抱くほどではない。

金を稼いできたのは性のためではない。ただ、大いに役立った。偽善者として生きるにはそれなりの元手が要る。俺にはそれがあった。もしそれがなければ、今思い出してもヒヤッとすることが現実と化していたことだろうなと思う。

だが、いつか三津田の叔母にスズメバチのように襲撃されると予期していたろうか?株主だから、と?

まさか。

考えもしない落とし穴だった。株主総会か。

もともと女房がオーナーではあった。

だから、俺の首につけられた首輪の綱はいつも女房が握っていた。上機嫌なオシドリ夫婦の夫を演じ続けてきた。少し間の抜けた、気のいい、仕事熱心な、重宝で便利な男。

こうなってしまっては、今の俺にとしてはさっさと追い出してもらって新しい暮らしを始めたい。自分から出てゆく。そうすれば、自分の良心にびくびくしないで人並みの暮らしができる。最後は光江に看取られて死ぬとなれば、なんともありがたい話だ。

あるいは光江も二心があるのかもしれない。43歳だ。出逢ったときには30歳だった。男が48歳から61歳になるまで、妻でもない女が男に操を立て通すものだろうか。別に男がいても、できていても不思議はない。

だが、見えないものは存在していない。俺は見ない。見たくもない。

万喜絵だって?

考えても仕方のないことは、考えない。

俺の体が動かなくなったら、運の尽きってこともあるのかもな。光江が俺への復讐のために放った蛇が、ナメクジが俺の体を這いまわることになるのか。誰も知らぬ間にじわりじわりと殺されるのか。

結局のところ、人は人と生まれ以上、誰にも彼にもあきれられ恨まれ疎まれるしかないのだろう。なんという人生だろう。いや、人生とはなんという仕掛けの作り物なのだろう。

もう一度己(おのれ)に問いかけてみよう。「俺は悪いことをしてきたのだろうか?」

だが、俺が俺自身に問いかけたところで、答えは決まりきっている。

ノー、だ。

誰かに、世間の基準てやつで判断してもらわなくては。

俺は本当に悪いことをしてきたのかどうか。

弁護士さんにでもたずねてみるか。この世のルールは倫理までも弁護士の仕事だというのが最近の流行りのようだからな。

あの前原俊剛弁護士にできるだけありのままを告白し、判断してもらうとするか。

梶田健助の不祥事人生についての、一人だけの第三者委員会ってことだ。

黒となれば、それなりの覚悟をしろってことだ。

(第15章に続く。最初から読みたい方はこちら


この記事を書いた人
牛島信弁護士

1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)


〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。


牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/


「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html



 

牛島信

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