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.国際  投稿日:2018/2/25

差別が過激思想の温床となる イスラム脅威論の虚構 その4


 

林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録」

【まとめ】

・モハメド・アリはブラック・ムスリム運動に傾倒し、ムスリム名を名乗った。

・この運動は1960年代後半から影響力を失っていった。

・差別構造を廃すことが過激思想の蔓延に対する最良の抑止力。

(この記事には複数の写真、動画が含まれています。サイトによって見れないことがあります。その場合はhttp://japan-indepth.jp/?p=38611で記事をお読みください)

 

モハメド・アリというボクサーは、死後3年も経たぬうちに(2016年6月3日没)、伝説の人となった観がある。特に有名なのは、現役時代、自らのボクシング・スタイルを「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と自画自賛していたことだが、たしかに、重量感あふれる肉体から繰り出されるパンチの威力にのみ勝機を求めていたヘビー級のボクシングにあって、華麗なフットワークで相手を翻弄し、左ジャブを多用するスタイルを持ち込んだことは、革命的との評価にも値する。

 

ただしこれは、彼がヘビー級ボクサーとしては体格に恵まれていない(1960年ローマ五輪で金メダルを獲得した時は、ライトヘビー級であった)ことから、いわば苦肉の策として編み出されたものらしい。

 

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写真)モハメド・アリ 右から2番目(1960年ローマオリンピック)

出典)photo by Polish Press Agency

 

本稿のテーマは、もちろんボクシングではない。年配の読者は、彼の生来の名前はカシアス・クレイで、プロ転向直後はその名前でリングに上がっていたことをご記憶のことと思う。

 

しかし、1964年にネーション・オブ・イスラムに入信したのを機に、ムハンマド・アリーというムスリム名を名乗るようになった。この英語訛りがモハメド・アリなのだが、日本ではあらゆるメディアでこの呼び方が定着しているので、本稿もそれに倣う。

 

オスマン帝国の将軍にして宗教指導者でもあり、19世紀初頭、エジプトにムハンマド・アリー朝を開いた人物と、インド独立運動にも大きな影響を与えたムスリム連盟の創始者で、独立パキスタンの初代総督となった人物が、いずれも同姓同名なので、どちらかにあやかったものと考えられているが、当人は詳細まで語ってはいないようだ。

 

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写真)ムスリム連盟の創始者で、独立パキスタンの初代総督

モハメド・アリ 1945 

出典)パブリックドメイン

 

余談ながら、イスラム圏には同姓同名がきわめて多く、米国の情報機関などでは、イスラム過激派の中からテロ容疑者を特定するのに苦労していると聞く。

 

話を戻して、ネーション・オブ・イスラムは1930年代にアフガニスタン出身とされるウォーレス・ファード・ムハンマドという人物が、自ら「救世主」を名乗って創始した新興宗教である。

 

イスラムと名乗ってはいるが、黒人至上主義を唱えるなど、伝統的イスラムの教義からは大きく逸脱しているため、イスラムの一派とは見なされていない。むしろ新興宗教の姿を借りた黒人解放運動のひとつとされ、日本を含めて「ブラック・ムスリム運動」の俗称で知られるようになった。

 

たとえば伝統的イスラムにおいては、キリスト教徒同様、人類の祖先は造物主によって生み出されたアダムとイブだとして、人種間の優劣などはないと考えるが、ネーション・オブ・イスラムは、最初の人類は黒人であったので、黒人こそ正当な人類なのだと主張する。

 

こうした主張がアフリカ系米国人に広く受け容れられた理由は、彼らが置かれていた貧困と差別構造に他ならない。1967年、モハメド・アリは徴兵を拒否し、プロボクサーのライセンスを剥奪されてしまうが、表向き、つまりマスコミに向けては、「俺がファイトマネーから納める税金で、政府はジェット戦闘機を1機買える。俺をリングに上げないなんて愚かなことさ」などと発言しつつ、親しい友人たちには、「金持ちの子供は大学に行き、貧乏人の子は戦場に行く。こんな差別構造を放置している政府のために、なんの恨みもないベトコンを殺すだなんて、僕の信仰に反するよ」と語っていた。

 

当時の米国の社会構造に照らせば、ここで言う「金持ち」と「貧乏人」は、肌の色の違いとほぼ二重写しになると考えられる。少なくとも、アフリカ系の人々の立場からは、そうであった。彼らと彼らの祖先が受けてきた差別が、いかに度し難いものであったか。

たとえばモハメド・アリ自身、「ブラック・イズ・ビューティフル!」と声を大にして繰り返していたのだが、アイルランド系白人の血も8分の1引いている。

 

実はこれ、アフリカ系米国人にとって、さほど珍しいことではない。歴史教科書などには一切書かれていないが、アフリカ系の奴隷を両親として生まれた娘の処女を奪うことは、奴隷を持つ身分の男性の特権だと考えられた時代が長かったから、こういうことが起きたのだ。

 

アリはまた、ローマ五輪で獲得した金メダルを、川に投げ捨てている。大会後、故郷に錦を飾ったと思っていたところが、地元のレストランは、アフリカ系の入店をにべもなく拒否した。ちなみに1984年に、ロサンゼルス五輪の開会式の後、同じ物が再度授与されている。

 

このように、人種差別への憤りをつのらせていた(当時の)カシアス・クレイが傾倒したのが、ネーション・オブ・イスラム中興の祖と言われるマルコムXであった。

 

白人を「悪魔」と呼ぶ彼の言動は、非暴力に徹することを呼びかけ続けていた、マーティン・ルーサー・キング牧師としばしば対比され、しばしば黒人社会からも「暴力を是認する過激派」などと白眼視された。ただし実際には、マルコムX自身が暴力沙汰に関わったり扇動したりしたことはない。

 

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写真)キング牧師(左)と対面するマルコムX(右)1964年3月26日

出典)Marion S. Trikosko, U.S. News & World Report Magazine

 

ここで我々がしっかりと頭に入れねばならないのは、イスラムは本来、平和と平等を尊ぶ宗教である、ということだ。これは1960年代の後半から、人種差別撤廃を求める公民権運動が盛り上がるのと反比例して、ネーション・オブ・イスラムが影響力を失っていった事実によっても証明されるだろう。モハメド・アリ自身も1975年には伝統的イスラム(スンニ派)に改宗している。

 

彼が身をもって示したように、人種的・宗教的理由で差別を受けている若者にとっては、そのような差別構造こそ人生を賭けて戦うべき相手だということなのだ。逆に言えば、差別構造を廃してゆくことこそ、過激思想の蔓延に対する、最良の抑止力なのである。

 

トップ画像)ホワイトハウスで、ブッシュ米大統領から「自由勲章」を贈られるボクシング元世界ヘビー級王者モハメド・アリ氏。「自由勲章」は、米国で文民に贈られる最高の勲章(ワシントン)(2005年11月09日)

出典)flickr:ダイエリオエル・ウニヴェルソ

 

 


この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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