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.社会  投稿日:2018/4/16

核テロへの備え 福島原発事故の教訓


上昌広(医療ガバナンス研究所 理事長)

「上昌広と福島県浜通り便り」

【まとめ】

・相馬中央病院の森田知宏医師が震災直後の南相馬市の住民の避難状況を調べた。

・震災直後取り残された独居老人、高齢者の中には適切な医療が受けられず亡くなった方も。

福島原発事故が社会に与えた影響を記録したこの資料に、米国の軍事関係の研究者も注目している。

 

【注:この記事には複数の写真が含まれています。サイトによっては写真説明と出典のみ記されていることがあります。その場合はJapan In-depthのサイトhttp://japan-indepth.jp/?p=39492でお読み下さい。】

 

3月21日、イスラエル政府は07年にシリアの完成間近の原子炉を秘密裏に空爆したことを認めた。原子炉は北朝鮮の支援を受けて建設されたらしい。

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▲写真 核施設破壊前 出典 Israel Defence Forces

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▲写真 核施設破壊後 出典 Israel Defence Forces

イスラエル政府によれば、秘密指定解除に伴う情報公開がきっかけだという。外交関係者の間では、今回の情報公開はイランへの警告とみなされているそうだ。オバマ政権下で合意した核開発の中断と引き換えの制裁解除を、トランプ大統領が見直すように要求しているためだ。世界が不安定になっている。

世界最高峰の医学誌とされる『ニューイングランド医学誌』は、3月29日号で「我々は核のテロリズムに備えるか?」という文章を掲載した。著者はインペリアル・カレッジ・ロンドンのゲイル医師とネブラスカ大学のアーミテージ医師だ。

ゲイル医師は血液内科医、かつ被曝医療の世界的権威だ。チェルノブイリ原発事故で被曝した患者の治療に従事した。5.6~13.4グレイの放射線を全身被曝した13人の患者に骨髄移植を行ったところ、5.6および8.7グレイの被曝だった2人の患者は事故後3年以上生存した。この結果は、『ニューイングランド医学誌』1989年7月27日号に掲載された。

さらに1999年に起こった東海村JCO臨界事故では、治療を担当した前川和彦・東京大学教授(当時、救急医学)の招きに応じ来日した。筆者も情報交換したが、経験に基づく適切なコメントに舌を巻いたことを覚えている。例えば「被曝後すぐは大した症状はでない。数日後に皮膚がただれ、重度の下痢が生じる。そして骨髄不全が顕在化する。骨髄移植が必要だ」という感じだ。被曝患者を診療したことがない私には全く想像がつかなかった。

ゲイル医師は福島第一原発事故でも来日している。ただ、このときは大量被曝した作業員、住民はいなかった。多くのメディアに登場したが、彼の専門的知識を活用することなく、帰国した印象がある。

では、福島第一原発事故の教訓とは何だろうか。それは住民対策だ。いつ、誰を、どのような方法で、どこに避難させるか、一歩間違えれば多くの被害者を出してしまう。

最近、興味深い研究成果が発表された。相馬中央病院の森田知宏医師を中心にした研究チームの発表で、米国の科学誌『プロスワン』に掲載された。

森田医師は2012年に東大医学部を卒業し、千葉県の亀田総合病院で初期研修後、福島県相馬市の相馬中央病院に就職した。私との出会いは2006年だ。私立灘高校から東京大学理科3類に入学し、私どもの研究室に出入りするようになった。前回、ご紹介した森田麻里子医師は東大医学部の同級生で、大学卒業と同時に結婚した。

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▲写真 相馬中央病院 森田知宏医師 出典 相馬中央病院

話を戻そう。森田医師らの研究の目的は震災直後の南相馬市の住民の避難状況を調べることだった。当時の状況は誰も把握していない。彼らが用いたのは、坪倉正治医師が中心となって実施している内部被曝調査の問診票だ。この問診では、被曝を正確に評価するため、震災直後の避難状況を詳細に質問している。

東日本大震災当時の南相馬市の人口は7919で、原発から20キロ圏内の強制避難地域に1万2,201人、20-30キロ圏内の屋内退避指示地域に4万4,773人、30キロ圏外に1万955人が住んでいた。このうち、内部被曝検査に参加したのは、それぞれ3,415人(28%)、1万3,801人(31%)、2,933人(27%)だった。

この研究は、内部被曝検査を受けた人が対象で、被曝を心配している人に限定される。このため、避難のリスクを過剰評価する可能性がある。また、避難したきり、戻っていない住民は、この研究には含まれていない。過小評価している可能性もある。ただ、従来の研究が対象住民の1%程度のデータしか収集できていないことを考えれば、その意義は大きい。

結果は、驚くべき内容だった。特記すべきは、屋内退避指示地域の住民の87%、原発から30キロ圏外の地域の住民の87%が避難していたことだ。政府は「屋内にいれば問題ない」とアナウンスしたのに、住民は「危険である」と判断し、自主的に避難したことになる。

では、現地に留まったのは、どのような住民なのだろうか。森田医師は「壮年男性と高齢者です」と言う。前者は市役所職員、消防関係者(救急隊員を含む)、病院関係者、建設関係者などだ。後者の存在は示唆に富む。森田医師らの解析では、独居老人、高齢者だけの世帯は、それ以外と比較して1.7倍、1.2倍留まる傾向が高かった。森田医師は、「独居高齢者の中には自主的に留まったというよりも、取り残されたと言った方が適切な人がすくなくありません」という。

「取り残された」のは屋内退避指示地域だけではない。東日本大震災以降、この地で診療を続ける坪倉正治医師は「20キロ圏内の小高区でも自宅に留まった住民がいました。取り残された人もいます。病気になったり、怪我をした高齢者もいました。救急車を呼んでも、政府の方針で救急車は入れませんでした」という。

我々の日常生活は高度な物流システムに依存している。「宅急便」が止まったら、日本社会はどうなるか想像できるだろうか。

このまさかの事態が、原発事故直後の南相馬市を襲った。政府は屋内退避地域に対して、自衛隊などを通じて物資を補充した。ところが、この方法では不十分だった。民間業者が輸送していた物資が入ってこなくなったのだ。

及川友好・南相馬市立総合病院副院長(現院長)は、「震災後、はじめて水や食料などの支援物質が入ったのは3月16日です」という。食事すら入ってこなかった。それまでの5日間は、残った看護師が厨房に入り、残されていたあり合わせの食材で患者向けの食事を用意していた。

看護師は普段、厨房に入らない。彼女たちが厨房に入らざるを得なかった理由は、震災前、南相馬市立総合病院が給食の職員を外部に委託していたからだ。原発事故後、委託先の企業の方針で給食職員14人は全員が引き上げた。同じく外部から派遣されていた医療事務19人、清掃6人、警備6人も会社の方針で出勤してこなくなった。この結果、残った医師・看護師に過大な負担がかかった。

病院でこうだから、他は推して知るべしだ。物流が途絶したため、ほとんどの企業、商店は営業を続けられなくなった。日銭が入ってこなくなったため、そのまま閉鎖したところも少なくない。この結果、取り残された高齢者が完全に孤立した。地元の医師は「取り残された住民の中には亡くなった人もいます。検死で餓死が疑われる方もいました」という。

当初、パニックとなった南相馬市も、震災から1ヶ月ほど経過し、実態が明らかになるにつれ、落ち着きを取り戻した。南相馬市の放射線量が低いことが判明したのだ。南相馬市立総合病院の周辺の空間線量は0.4~0.5マイクロシーベルト/時であった。中通りの福島市より低かった。

住み慣れた自宅から取るものもとりあえず出てきた避難者は、一度、自宅を見たかった。また、避難先では苦労の連続だった。この結果を知った住民は帰還しはじめた。震災前に7万919人だった人口は約1万人まで減少したが、4月には約4万人まで回復した。

ところが、屋内退避指示が解除されたのは422だった。前出の坪倉医師は「屋内退避指示は通常、数日間で解除するのが普通です」という。この間、この地域の社会インフラは機能不全のままだった。

病院も例外ではない。地域の中核病院である鹿島厚生病院(30キロ圏外)、南相馬市立総合病院(20-30キロ圏内)が入院診療を再開したのは、それぞれ52日、9だった。それまで急病を発症しても、地元の病院に入院出来なかった。

知人の厚労官僚は「今回のようなケースで、県が個別の医療機関の営業を停止する法的権限はない」というが、当時、地元の病院経営者は「福島県から入院診療は差し控えるように指示された」と口を揃える。

政府が屋内退避指示を出し続けている状況で、もしも原発事故が再発した場合、入院患者を搬送する責任を回避したかったのだろうか。彼らの本音はわからないが、取り残された住民は見捨てられたことになる。

このことは、多くの住民の命を奪った可能性が高い。2017年10月に森田知宏医師らが英国の医学誌に発表した研究によれば、南相馬市と相馬市の住民死亡率(津波による溺死を除く)は震災後一ヶ月間に男性が2.64倍、女性が2.46倍も上昇していた。特に85才以上の高齢者の死亡リスクが高く、主たる死因は肺炎であった。これは原発事故直後、高齢者が孤立し、外部から充分な支援が入らず、適切な医療が受けられなかったことが影響している可能性が高い。

福島第一原発の教訓は、高齢化社会で原発事故が起こった場合、被曝による直接的な影響以外に、医療を含め、都市機能が麻痺することによる間接被害が重大ということだ。

原発事故が、都市にどのような影響を与えるか。福島の経験は、予想がつかないことを示している。我々に求められるのは、都市を有機的な複雑系とみなし、万が一原発事故が起こったときの社会への被害をダイナミックに分析することだ。おそらく、人工知能やビッグデータの専門家の協力が欠かせないだろう。では、我々、臨床医の仕事はなんだろうか。私は現場で診療し、一次情報を得ることだと思う。一次情報の蓄積がなければ、情報工学者の出番はない。

この点で、森田知宏医師の活動は示唆に富む。彼は4年にわたり、浜通りで生活し、診療している。原発事故が社会に、どのような長期的な影響を与えたか肌感覚でわかっている。だからこそ、今回、ご紹介したような論文を発表することができた。森田医師は相馬市に移住してからの4年間で30報の英文論文を発表した。うち11報は筆頭著者だ。福島原発事故が社会に与えた影響を記録する貴重な資料だ。彼や坪倉正治医師の研究は世界中の研究者が注目している。

実は、彼らの論文に注目しているのは、医療関係者だけではない。米国の軍事関係の研究者も、彼らにアプローチしてきたという。その理由は「米国の都市が核攻撃やテロに遭った場合の対応を検討しているから」だ。こうやって、彼らの研究は冒頭でご紹介した核テロの論文へと繋がる。

温暖化とともに自然災害が増加している。核テロや攻撃のリスクも高まっている。東日本大震災・福島第一原発事故の経験は貴重だ。世界で共有しなければならない。どうすればいいのか。森田医師の存在は示唆に富む。現場に入り、診療し、そして書くことだ。理屈をこねるのではなく、行動しなければならない。

トップ画像:森田知宏医師(左)と坪倉正治医師(右)2015年2月10日、英国のエジンバラ大学から招聘され、研究成果を発表した。


この記事を書いた人
上昌広医療ガバナンス研究所 理事長

1968年生まれ。兵庫県出身。灘中学校・高等学校を経て、1993年(平成5年)東京大学医学部医学科卒業。東京大学医学部附属病院で内科研修の後、1995年(平成7年)から東京都立駒込病院血液内科医員。1999年(平成11年)、東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。専門は血液・腫瘍内科学、真菌感染症学、メディカルネットワーク論、医療ガバナンス論。東京大学医科学研究所特任教授、帝京大学医療情報システム研究センター客員教授。2016年3月東京大学医科学研究所退任、医療ガバナンス研究所設立、理事長就任。

上昌広

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