岩手に出でよ!21世紀の原敬
上昌広(医療ガバナンス研究所 理事長)
【まとめ】
・岩手に感じる一体感。一方、戊辰敗戦の影響は現在も残る。
・地域力は人材力、教育の向上は不可欠。盛岡と長州の違いとは。
・岩手振興には東アジアでの立ち位置考慮と人材育成が必要。
【注:この記事には複数の写真が含まれています。サイトによっては全て表示されないことがあります。その場合はJapan In-depthのサイトhttps://japan-indepth.jp/?p=44914でお読みください。】
東日本大震災以降、福島県浜通りの医療支援を続けている。関西生まれで、東京の大学を卒業した私が東北地方と付き合いはじめて8年間が経過した。
東北地方のお付き合いは福島県以外にも拡がり、その多様性に驚くことが多い。1月末、岩手県盛岡市を訪問した。盛岡から受ける印象は福島とは全く異なっていた。
今回の訪問の目的は、岩手県立病院医学会の春季学術集会に参加するためだ。参加者は岩手県内に存在する26の県立病院で勤務する医師である。
宮田剛・岩手県立中央病院長に機会をいただき、「現場からの医療改革 福島での経験」という講演をした。私は自説である地域振興は人材育成という話をした。
学術集会が終わった後は懇親会だった。お酒も入り、距離は一気に縮まった。この時、彼らから感じたのは一体感が強いことだ。岩手県立病院に勤務する医師たちが一つのグループを形成し、実際に機能していることを実感した。これは会津、中通り、浜通りの三つの地域に分かれ、一体感がない福島県とは対照的だった。
私は、これまで県という行政区分にいいイメージを抱いたことがない。国と市町村の中間に位置する実態のない存在と感じることが多かった。これは私の生い立ちと関係がある。それは私が兵庫県生まれだからだ。
兵庫は明治時代に摂津、播磨、丹波、但馬、淡路が合併して誕生した。江戸時代まで、摂津は畿内、播磨は山陽道、丹波・但馬は山陰道、淡路は四国に分類され、気候も風土も全く違った。
兵庫県という大きな県が出来たのは、戊辰戦争の戦後処理のためだ。幕末まで兵庫県で最大の都市は姫路だった。1850年(嘉永3年)の人口は2万4,000人で、神戸の2万2,000人を凌ぐ。
▲写真 姫路城 出典:姫路市ホームページ
この地を治めたのは、譜代大名筆頭の酒井雅楽頭家だった。姫路の悲劇は佐幕を貫いたことだ。幕末の君主忠績(ただしげ)は最後の大老を務め、維新の志士を弾圧した。姫路藩で台頭した尊王論には、「徳川家譜代の臣として幕府と存亡をともにするのが道理である」として押さえつけた(甲子の獄)。
明治維新以降、姫路藩は冷遇された。1871年(明治4年)11月2日に出来た姫路県は、わずか1週間後の11月9日に飾磨県に改称され、1876年(明治9年)には兵庫県に吸収された。この結果、この地の中心は姫路から神戸に移った。
淡路島が兵庫県に編入された経緯も興味深い。きっかけは1870年(明治3年)に起こった徳島藩の内紛だ。庚午事変という。これは淡路島を治めていた徳島藩家老の稲田家と主君である蜂須賀家の内紛だ。
▲写真 淡路島 出典:Public Domain(Wikimedia Commons)
幕末、徳島藩は佐幕、稲田家は尊皇に与した。その後、徳島藩は方針転換するが、明治になると稲田家の発言力が強くなった。稲田家は蜂須賀家の陪臣でなく、士族になることを求めたが、蜂須賀家は認めなかった。この対応に我慢できない稲田家は独立を目指し、洲本を舞台に蜂須賀家と稲田家が衝突した。この騒動の処分で、淡路島は徳島藩から召し上げられ、兵庫県に編入された。
稲田家も処分された。家臣一同は北海道静内に移住を命じられ、開拓に従事する。過酷な生活は2005年に吉永小百合主演で映画化された『北の零年』で詳しく紹介されている。
合併県の統治は難しい。神戸港を抱える兵庫県の重要性を明治政府も認識していたのだろう。知事には有能な人物が送りこまれる。初代は伊藤博文、その後、紀州藩の陸奥宗光、薩摩藩の税所篤などが名を連ねる。戦前、兵庫県知事に任命されたのは27名だが、7名が長州藩、2名が薩摩藩出身だった。
▲写真 伊藤博文 出典:Public Domain (Wikimedia Commons)
話を戻そう。明治維新から150年が経つが、兵庫県民の多くは県に帰属意識を抱いていない。神戸や姫路、さらに淡路島という共同体意識はあっても兵庫県民という意識は薄い。
ところが、岩手は違った。これはその歴史に負うところが大きい。様々な苦労を共にし、一つのコミュニティーへと成長した。この間の経験がこの地域に独自の特色をもたらした。
幕末、この県には2つの藩が存在した。南部家が治める盛岡藩(1808年(文化5年)に南部藩から領国名を変更するが、本稿では盛岡藩で統一する)と田村家が治める一関藩だ。規模・実力には雲泥の差があった。
盛岡藩は伝統ある大藩だ。源頼朝の藤原氏追討に同行し、それ以来、この地を治めた。当初、石高は10万石だったが、1808年(文化5年)、蝦夷地警備の論功行賞として20万石に加増された。
一方、一関藩は小さかった。衰退していた田村家を、江戸時代初期に伊達政宗の孫が復興させた3万石の藩で、伊達家の支藩だった。明治維新後、岩手県に編入されたが、その影響力は限られる。
幕末、盛岡藩は迷走する。第12代藩主南部利済は派手好きで、盛岡に遊郭を作り、巨大土木事業を繰り返したという。今に至るまで評判は悪い。
▲写真 盛岡藩第12代藩主南部利済の肖像 出典:Public Domain(Wikimedia Commons)
ただ、盛岡藩の混迷の原因はそれだけではない。前述した1808年の加増が、知行地の増加を伴わない表高の加増だったことが大きい。税収は増えなかったのに、約20万石の軍役を課された。そこに江戸時代後半の小氷期による冷害が起こった。
財政が悪化した盛岡藩は農民に重税を課した。農民の不満はたまり、各地で一揆が起きた。有名なのは三閉伊一揆だ。住民6万人中、1万6,000人が参加した。隣接する伊達藩に越訴し、三閉伊の農民を仙台領民として受け入れ、この地を直轄領か仙台領とすること、あるいは役人を減らし、減税することを要求した。さらに藩主利剛が退位し、前藩主で第13代藩主の南部利義が復帰することまでも求めた。
▲写真 田野畑村にある三閉伊一揆の像 出典:Ty19080914(Wikimedia Commons)
盛岡藩は利義の復帰以外を受け入れ、主導者を処分しなかった。幕府は院政を引いてきた元藩主の南部利済を江戸で謹慎とした。
幕末、南部家の上層部は何度も判断を誤った。リーダーとしての適性に問題があった。一方、三閉伊一揆に象徴されるように民衆は強かった。兵も同様だった。戊辰戦争では官軍についた秋田藩に攻め込み、各地で秋田藩を圧倒する。ただ、最終的な結果はご存知の通りだ。
戊辰戦争での敗北が盛岡の発展を阻害する。戦後には藩主利剛は東京謹慎、家老楢山佐渡は切腹、七万両の賠償を求められた。家督を継いだ利恭は、新政府が仙台藩から没収した白石13万石に転封となった。
その後、南部家臣団や領民は新政府に利恭の帰還を申し入れるが、70万両の支払を求められた。盛岡藩は財政破綻。1870年(明治3年)、翌年の廃藩置県の前に自ら廃藩を申し出る。
教育機関も衰退した。江戸時代、盛岡藩士の子弟が学んだのは、藩立武術道場の御稽古所(後の作人舘)だった。教育の中核は武術だったが、後に医学教育も採用した。
作人舘は戊辰戦争で2年間休校した後、再開されるが、1872年(明治5年)の学制頒布により廃校となった。この地に高等教育機関が再開されるのは、1879年(明治12年)の獣医学舎(現岩手県立盛岡農業高校)、1880年(明治13年)の公立岩手中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)まで待たねばならない。西国雄藩の地元では、藩校がそのまま高等教育機関に発展したのとは対照的だ。
▲写真 岩手県立盛岡第一高等学校(旧公立岩手中学校)出典:Public Domain(Wikimedia Commons)
地域力は人材力だ。地域力を高めるには教育の向上が欠かせない。戊辰戦争に敗れ、高等教育機関が閉鎖された影響は現在も残る。
例えば、中国・四国・九州には全ての県に国立大学医学部が存在するのに、東北地方では福島と岩手に存在しない。このような県は他に和歌山、奈良、神奈川、埼玉、栃木だけだ。いずれも幕末に佐幕か天領だった地域だ。
問題は医学部だけでない。東北地方は三陸沖の好漁場を有するのに、国立大学の水産学部が存在しない。類似の学部は、岩手大学に農学部食料生産環境学科があるだけだ。九州では鹿児島大学と長崎大学に水産学部が存在する。
秋田県の辿った歴史は岩手県とは対照的だった。戊辰戦争の秋田戦争で東北屈指の精鋭だった盛岡藩と庄内藩を引きつけたことで、維新後に厚遇される。
盛岡藩と秋田藩の境に鹿角地方というところがある。教育レベルの高い地域で、多くの人材が出ている。戦前、わが国を代表する東洋学者だった内藤湖南や狩野亨吉(第一高等学校校長、京都帝国大学初代文化大学長)などがその代表だ。
▲写真 内藤湖南 出典:Public Domain(Wikimedia Commons)
江戸時代まで、この地を治めたのは南部家だった。内藤湖南の生家は、盛岡藩から派遣された城代の桜井家に仕えた。湖南の湖は、琵琶湖でなく、十和田湖に由来する。
鹿角地方には尾去沢、小坂という鉱山があった。尾去沢は別子と並ぶ我が国屈指の銅山で、岩崎家および三菱合資が経営し、1978年(昭和53年)に閉山した。小坂は銀鉱山として有名で、1869年(明治2年)に盛岡藩から官営になり、1884年(明治17年)に藤田組(現DOWAホールディングス)に払い下げられた。1901年(明治34年)には銀の生産高が日本一となり、1990年(平成2年)まで採掘が続いた。
戊辰戦争後、鹿角地方は秋田県に編入された。鹿角の士族は一時的に百姓となった。明治政府は鉱山開発に力を注いだ。1910年(明治43年)には秋田鉱山専門学校を設立した。日本唯一の官立鉱山専門学校で、秋田県内初の高等教育機関だ。秋田大学の前身である。
秋田鉱山専門学校は、ドイツのフライブルク大学を模範とし、京都帝大から教授を招いた。彼らが伝えたのがラグビーだ。戦前まで日本のラグビーを牽引したのは京都勢だった。全国高校選手権では、1930年(昭和5年)の第12回大会で慶應義塾普通部が優勝するまで、同志社中学など京都勢が11連覇した。
この伝統が秋田に伝わった。秋田鉱山専門学校の関係者は秋田中学、秋田工業の生徒にもラグビーを教えた。1925年(大正14年)には県大会が開催されている。旧制秋田中学と秋田工業が鎬を削った。その後、秋田工業ラグビー部は日本を代表する存在へと成長する。全国高校ラグビー大会の優勝回数は秋田工業が15回でトップだ。最後の優勝は1987年(昭和62年)で、決勝戦は相模台工業を9-4で下した。
▲明徳館絵図 出典:Public Domain(Wikimedia Commons)
鹿角の鉱物資源に目をつけた明治政府は盛岡ではなく、秋田に投資した。これがこの地域の民度を向上させた。秋田藩の藩校明徳館の伝統は秋田高校に引き継がれ、現在も東北屈指の進学校だ。2018年の東大合格者は13人。全国40位で、東北地方では仙台二高(18人、29位)についで2位だ。佐々木毅元東大総長をはじめ、卒業生は活躍している。今年、東大病院長に就任した瀬戸泰之・胃食道外科教授も同校OBだ。
明治の日本で盛岡藩出身者は、官に頼ることなく独自に人材を育成せざるを得なかった。筆者が注目するのは原敬と東條英教だ。いずれも作人舘で学んだ。この二人の生き方は盛岡人を考える上で興味深い。
▲写真 内閣総理大臣時の原敬 出典:Public Domain(Wikimedia Commons)
まずは原だ。平民宰相として有名だが、祖父が盛岡藩の家老職に就くほどの名門の出だ。20歳のときに分家して戸主となり、平民となった。当時、戸主には徴兵の義務がなく、兵役回避を狙ったものとされている。
原は作人舘で学んだ後に上京するが、若い頃は苦労の連続だった。南部家が盛岡藩出身者のために設立した共慣義塾に入学するが、学費が払えず退学する。郷里の先輩のつてで、1879年(明治12年)に郵便報知新聞社に入社したが、明治14年の政変で大隈重信一派が入ってくると、そりが合わず退社する。御用新聞とされた大東日報の主筆となるが、経営不振で退社する。ただ、このときに政府関係者と知己を得て外務省に奉職する。
幸運だったのは陸奥宗光が支援してくれたことだ。1892年(明治25年)、第2次伊藤内閣で陸奥が外務大臣に就任すると、通商局長に抜擢される。その後、大隈が外務大臣になると、原は見切りをつけ、外務省を辞めるが、1900年(明治33年)に伊藤が立憲憲政会を組織すると幹事長となる。詳細は省くが、その後1918年(大正7年)には首相に就任する。衆議院に議席を持つ政党の党首という資格で首相に任命され、閣僚は陸軍・海軍・外務大臣以外はすべて政友会員だった。わが国初の政党内閣だ。
原の政策は、外交は対英米協調主義、内政は教育制度や交通機関の整備など積極主義をとった。特に教育面では高等教育の拡張に力をいれ、官立旧制高等学校10校、官立高等工業学校6校の新設、帝国大学4学部の設置、医科大学5校の昇格を推進した。明治維新で遅れをとった地域に教育機関を整備するなど盛岡人らしいが、原は強かな側面も持ち合わせていた。
原の積極政策で利益を得たのは政商や財閥が多く、この時期には疑獄事件が多発している。彼の政策は当時、「我田引鉄」と批判され、現代に繋がる利益誘導の構造を作り上げたという見方も可能だ。
ただ、その政治力は卓越しており、1921年(大正10年)に東京駅で暗殺された際には、長州閥のボスである山県有朋までが「原という男は実に偉い男であった。ああいう人間をむざむざ殺されては日本はたまったものではない」と嘆いた。
原の存在は東北人に対して抱く我々のイメージとは異なる。権力とのバランスの取り方が上手く万事抜かりない。イデオロギーにとらわれず、融通無碍に対応する。これは原が多くの情報を持っていたからだろう。東京に出てきた原は新聞社に勤めて糊口をしのぐ。おそらく、このときに情報の価値を知り、その扱い方を知ったのだろう。
▲写真 東條英教 出典:Public Domain(Wikimedia Commons)
東條英機の父である東條英教は対照的だ。南部家当主の子弟の教育係で、盛岡藩のエリートだ。頭脳明晰で、陸軍大学校1期を首席で卒業した。同期には『坂の上の雲』の主人公である秋山好古がいる。
英教は学業は優秀だったが、実戦での指揮はイマイチだったようだ。日露戦争で判断ミスを繰り返す。1904年(明治37年)7月の柝木城の戦いでは、歩兵第3旅団長だった英教は師団長から夜襲を命じられたが、自ら状況を判断し夜襲を行わなかった。この結果、ロシア軍は無傷で撤退し、別の師団が敵軍に包囲された。英教の判断ミスは偵察不足と指摘される。
英教は、陸軍を仕切っていた長州閥からは評価されず、1907年(明治40年)11月、中将に名誉進級後に予備役となる。英教が力を注いだのは、息子である英機の教育だ。常日頃から軍人の心構えを説いたという。英機は父の期待に応え、3回目の挑戦で陸軍大学校に合格する。その後、日本を敗戦へ導いたことは周知の通りだ。
英教・英機親子に共通するのは、優秀で芯は強いが、一本気で柔軟性がないことだ。二人とも人生の大部分を軍官僚として、閉鎖的な社会で過ごした。閉鎖的な環境で育つエリートの思考は観念論的になりやすい。時に大失敗する。
このあたり長州とは全く違う。尊皇攘夷を唱えた彼らは、事態が変わったとみるや、開国路線に踏み切り、天皇まで担ぎ出した。第二次世界大戦で敗戦後は、岸信介は米国と連む。岸がCIAから資金援助をうけていたことは周知の事実だ。彼が巣鴨プリズンを出所したのは、東條英機が処刑された翌日だ。安倍総理は、このような人物たちを成功例として育っている。安倍総理は保守の象徴のような存在だが、憲法改正、外国人受け入れ、労働者の賃金引き上げなど、掲げる政策は海外では左派が主張するものばかりだ。私は、彼が長期政権を維持できているのは、その融通無碍にあると考えている。
盛岡と長州、どうしてこんなに違うのだろう。なぜ、明治維新以来、一貫して長州関係者は日本を仕切るのに、岩手県は衰退を続けるのだろう。
私は情報量の差だと考えている。両者は置かれている地政学的な状況が違う。長州は大陸と近く、下関という貿易港を中心に発展したのに対し、盛岡は北前船や東海道のような大動脈と縁がなく、江戸や東京を経由した二次的情報に依存してきた。高度成長期、東京は世界を代表する大都市で、アジアの中心だった。岩手も、その恩恵を享受することができた。
ところが、状況は変わった。我が国の人口は減少し、東アジアの中心は中国となった。中国が、このまま経済成長すれば、2040年代には国民一人あたりのGDPが日本と同レベルになる。経済規模が10倍以上の豊かな大国が西隣に誕生することになる。
明治時代、日本海側から太平洋側に日本のウェイトが変わったように、これから数十年で日本の重心は変わるだろう。東京一極集中が続くのは東日本だけだ。この地域では、父親が前沢出身の元岩手県知事の増田寛也氏が主張したように消滅都市も出てくるが、東アジアは中国を中心に再編される。東アジアの歴史を振り返れば、これは自然なことで、日本もその影響から逃れられない。すでにその徴候はある。
3月19日、国交省が発表した公示地価で、住宅地、商業地とももっとも上昇していたのは沖縄だ。それぞれ8.5%、10.3%である。東京の2.9%、6.8%を大きく上回る。
中国人観光客の影響を受けやすい商業地に関しては、この傾向はさらに顕著だ。上昇率は高い順に沖縄10.3%、京都9.7%、東京6.8%、大阪6.5%、宮城5.9%、福岡4.9%となる。東京以外の首都圏は千葉2.9%、神奈川2.4%、埼玉1.6%だ。熊本の3.4%にも及ばない。在京メディアは「首都圏と地方」という二項対立で報じがちだが、その視点は正しくない。
SNSが発展した昨今、情報は格段に入手しやすくなった。その気になれば、どこからでも誰とでも交流できる。岩手が生き残るには、東京との関係だけでなく、東アジアの中での立ち位置を考えねばならない。岩手に求められるのは、「二一世紀の原敬」だ。自分の力を頼りに、アジアと岩手を股にかけて活躍する人材を育てなければならない。
*本稿は時事通信社の『厚生福祉』3月19日号に掲載された拙文「地域の人材育成力 幕末、明治維新の歴史から」に加筆・修正したものです。
トップ写真:盛岡城跡(岩手県)出典:663highland (ウィキメディア・コモンズ)
あわせて読みたい
この記事を書いた人
上昌広医療ガバナンス研究所 理事長
1968年生まれ。兵庫県出身。灘中学校・高等学校を経て、1993年(平成5年)東京大学医学部医学科卒業。東京大学医学部附属病院で内科研修の後、1995年(平成7年)から東京都立駒込病院血液内科医員。1999年(平成11年)、東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。専門は血液・腫瘍内科学、真菌感染症学、メディカルネットワーク論、医療ガバナンス論。東京大学医科学研究所特任教授、帝京大学医療情報システム研究センター客員教授。2016年3月東京大学医科学研究所退任、医療ガバナンス研究所設立、理事長就任。