「鈴木貫太郎親衛隊」陸軍クーデター部隊と攻防 70年目の証言“黒幕”は四元義隆 上
出町譲(経済ジャーナリスト・作家、テレビ朝日報道局勤務)
「出町譲の現場発!ニッポン再興」
【まとめ】
・ポツダム宣言受諾の立役者、鈴木貫太郎首相の命を陸軍が狙う。
・大物右翼の指示で「鈴木貫太郎親衛隊」が極秘に結成された。
・武器を持たない親衛隊の官邸での不眠不休の首相警護が始まった。
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日本の現代史で最大の政治決断は、ポツダム宣言受け入れだろう。昭和天皇の聖断だが、総理大臣の鈴木貫太郎の存在なくしては、実現できなかったと言われている。
当時、陸軍は「戦争継続」「本土決戦」を主張していた。15日の玉音放送直前までクーデターも辞さない構えで、貫太郎の命を狙っていた。もし貫太郎が暗殺され、陸軍の主張が通れば、本土決戦で数千万人の犠牲者が出た可能性がある。
▲写真 1945年(昭和20年)8月14日の御前会議。ポツダム宣言受諾による降伏を決定した。出典:パブリック・ドメイン
当時危機感を持った人が動いた。「貫太郎の命を守れ」。官邸の中に、若者たちで構成される極秘の組織がつくられた。「鈴木貫太郎親衛隊」である。正史には出てこない、影の日本史である。メンバーは戦後、それを口外することを禁じられていた。
▲写真 鈴木貫太郎首相(在任時)出典:国立国会図書館
その親衛隊の1人は5年前、初めてカメラの前で口を開いた。函館で暮らす長松幹栄だ。
▲写真 長松幹栄氏 出典:筆者提供
長松は自らの身分証を見せてくれた。古ぼけていて、文字はかろうじて読み取れる。勤務地は内閣総理大臣官舎。交付日は昭和20年8月12日。終戦のわずか3日前だ。この身分証には、「内閣嘱託」という肩書が明記されている。
▲写真 長松氏の身分証 出典:筆者提供
長松は当時19歳だった。右翼の大物、四元義隆からの指示だった。長松は四元に関してこう言う。「右翼の大物というと、軍国主義をあおった人物のように思われるかもしれませんが、まったくそれは違います。いかにして戦争を止めるか。それを必死になって考え、行動したのです」。
▲写真 長松幹栄氏(19歳)出典:筆者提供
四元義隆と言えば、戦後の「政界の黒幕」として知られる。吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、中曽根康弘、そして細川護煕、歴代の総理大臣を指南してきた。大蔵大臣の井上準之助や三井財閥の團琢磨らを暗殺した昭和7年の血盟団事件の首謀者であり、戦中は、東条英機への反旗を鮮明にし、東条暗殺計画を企てたともいわれている。
▲写真 法廷内の血盟団事件の被告(1945年12月31日以前の撮影)出典:パブリック・ドメイン
さて話を戻す。長松は昭和20年8月11日午後3時、吉祥寺にある四元義隆の家に着いた。家には次々に若者が姿を現した。四元義隆は「命は俺が預かった」と言い放った後、具体的な任務を説明した。
「広島や長崎で原爆が落とされた。このまま戦争を続ければ、本土決戦は避けられない。ポツダム宣言を受け入れることこそが、日本の国体を維持することになる。鈴木総理は命がけで受け入れの準備をしている。ただ、陸軍はそれに強硬に反対しており、いつ反乱を起こすかわからない。総理の身になにかあれば、日本の再興は困難になる。ここにいる人が総理の警備の柱になってほしい」。
鈴木貫太郎を襲ってくる部隊がいれば、素手で立ち向え。それが四元義隆の命令だった。この親衛隊の隊長は北原勝雄。四元にとっては、鹿児島二中、七高柔道部の後輩だ。
四元の話が終わると、各メンバーの前に盃が配られた。1人ずつ、四元の前に進むと、盃にお神酒が注がれた。総理を自分の身を盾にして守ることを誓って盃を空けた。これは、親衛隊の結成式だった。
▲写真 長松氏の血判状 出典:筆者提供
長松はこの日、四元の家で泊まった。翌12日、朝起きて官邸に出向くと、内閣嘱託という身分証を手にした。それから総理官邸での不眠不休の警護が始まった。
翌13日、早くも緊迫した。長松は当時を覚えている。北原のもとに、「今晩、陸軍が襲撃する」という情報が入った。北原は長松ら3人を呼び出した。「一兵たりとも、総理の部屋に通してはいけない。命がけで立ち向かえば、お守りすることは可能だ」と鼓舞した。武器を持っていない親衛隊にとっては、身を挺して総理を守るしかない。灯火管制で真っ暗だ。懐中電灯を握りながら、親衛隊の部屋は、総理官邸の正面玄関に向かって左にあった。真夏なのに窓を閉め切っており、暑い。じっとりと汗が流れた。しかし、この日、陸軍は姿を現さなかった。みな一睡もしないまま夜が明けた。
(下に続く。全2回)
トップ写真:鈴木貫太郎内閣(昭和20年4月7日)鈴木貫太郎首相(中央)出典:パブリック・ドメイン
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この記事を書いた人
出町譲高岡市議会議員・作家
1964年富山県高岡市生まれ。
富山県立高岡高校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。
90年時事通信社入社。ニューヨーク特派員などを経て、2001年テレビ朝日入社。経済部で、内閣府や財界などを担当した。その後は、「報道ステーション」や「グッド!モーニング」など報道番組のデスクを務めた。
テレビ朝日に勤務しながら、11年の東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(2011年、文藝春秋)はベストセラーに。
その後も、『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(2013年、文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(2013年、幻冬舎)、『景気を仕掛けた男 「丸井」創業者・青井忠治』(2015年、幻冬舎)、『日本への遺言 地域再生の神様《豊重哲郎》が起した奇跡』(2017年、幻冬舎)『現場発! ニッポン再興』(2019年、晶文社)などを出版した。
21年1月 故郷高岡の再興を目指して帰郷。
同年7月 高岡市長選に出馬。19,445票の信任を得るも志叶わず。
同年10月 高岡市議会議員選挙に立候補し、候補者29人中2位で当選。8,656票の得票数は、トップ当選の嶋川武秀氏(11,604票)と共に高岡市議会議員選挙の最高得票数を上回った。