尾道空き家再生プロジェクト(下)行政を巻き込む
出町譲(経済ジャーナリスト・作家、テレビ朝日報道局勤務)
【まとめ】
・町全体が観光資源の欧州に対し、日本はどこも同じ風景。
・市の「空き家バンク」事業引継ぎ、移住希望者と空き家を繋いだ。
・町の良さを見直すことが、空き家問題解決への第一歩。
尾道生まれの豊田は都会に憧れ、大阪の大学に進学した。ワンルームマンションに住み、都会暮らしが始まった。高層ビルや地下鉄などを目にしながら、思いを馳せたのは、故郷尾道市だ。車のない時代に造られ、家が隣接している。隣家の人の気配を感じながらの生活をしていた。
卒業後、旅行代理店に就職し、添乗員となった。一年の半分以上は海外で生活した。ヨーロッパを訪問する機会が増えた。
そこで目にしたのは、古い建物を生かした街づくりだった。「ヨーロッパでは地域の人が特別な観光地スポットがなくても、町自体が観光資源になっているのです。自分たちの古い町に誇りを持っています。そして世界中の旅行者が、その町が好きで観光に訪れます。一方、日本ではどこの地方でも、チェーン店などが立ち並んでいる。同じ風景なのです」。
28歳の時にUターンした。尾道で生活しながら、空き家購入のために動いた。海外で泊まったゲストハウスのような宿泊施設を運営したいと考えた。
しかし、傾斜地に建つ空き家はほとんど価値がないため、不動産店も扱ってはいない。とにかく自分で歩いて、大家さんを探し、空き家を見学した。ただ、なかなかいい物件は見つからない。空き家を再生するにも、社会人時代に貯めたお金ぐらいしかない。
その時、友人から「腕のいい大工」と紹介された人物がいる。それが、夫となった訓嘉(くによし)だった。「いざとなれば、夫に改修をお願いできる。空き家改修のため『政略結婚』のようなものです」と笑い飛ばす。
・最初の空き家はガウディハウス
空き家探しを始めて6年が経過した。2007年5月、34歳の時、一つの建物を見学した。傾斜地に建つ木造2階建ての和洋折衷の建物だった。一目見て、ほれ込んだ。
「大家さんに中を見せてもらったところ、埃だらけで中は朽ち果てているところもありましたが、これぞ尾道の“地域遺産”だと思いました。『解体する予定だ』と言われたので、買い取りました。」
それがガウディハウスと呼ばれる建物だった。1933年に完成した旧和泉邸だ。10坪の建物の内部には、当時流行した技法が散りばめられている。スペインの建築家、アントニ・ガウディの造りに似ているため、ガウディハウスと呼ばれている。昭和初期に1人の大工が3年かけて作り込んだ建物だった。
▲写真 尾道ガウディハウス(旧和泉屋別邸) 出典:©NPO法人尾道空き家再生プロジェクト
ガウディハウスは、洋室と和室があるが、洋室は痛みが激しかった。一方の和室は掃除すれば利用できる状態だった。放置されていた家財道具などを廃棄。夫や友人に手伝ってもらって、2カ月かけて掃除した。
和室は使える状態になった。そこで、イベントを開いた。「尾道空き家談義」だ。アーティスト、若者、さらには建築家や大工などを招いて、放談した。また、蚤の市も行った。ガウディハウスには、古本、着物、食器、古道具などに戦前からのモノがたくさん残されており、販売したのだ。
▲写真 ガウディハウス 出典:著者提供
ちょうどそのころ、UターンやIターンの30代の家族が空き家に住むようになり、パン屋やカフェを開店していた。「役者が揃っていました。彼らと一緒に、空き家を舞台に、やりたいことをやる」。
ガウディハウスの購入後、動きは早かった。2カ月後の7月、自らが代表を務める市民団体、「尾道空き家再生プロジェクト」を設立した。そこに参画してくれたのは、地元の企業や、尾道に関心のある建築家や大学教授らだ。「子どもがまだ2歳で、手がかかっていたのですが、『今しかない』と決断しました。空き家は老朽化が進み、瀕死の状態。空き家問題は個人的にやるのでは、1戸か2戸しかできない。それなら団体をつくるしかない。自分は子どもたちの世代にもっと尾道らしい姿を残したいと思ったのです」。団体は翌08年NPO法人化した。
そこからが、豊田の真骨頂だ。ブログによる情報発信を始めた。同世代の若者たちと一緒に楽しんだイベント、ガウディハウスの改修作業、さらには、明治から昭和に伝わる尾道の街並みを伝えた。すると、全国から空き家や移住先を探しているという声が舞い込んできた。わずか1年で100件だ。わざわざ尾道に訪ねてくる人もいた。
「移住希望者が多くいて、空き家も山のようにある。それなのにつながっていない。それは残念でした。どこにどれだけ空き家があるのか、十分に把握されていませんでした」。
・尾道市の空き家バンクに参画
豊田は自ら、空き家めぐりツアーを実施し、空き家の情報を収集した。「社会問題なので、行政も巻き込みたい」。尾道市に働きかけた。結局、2009年10月、「空き家バンク」事業を請け負うことになった。空き家バンクとは、自治体が空き家情報を集め、移住希望者らにインターネットなどで発信する仕組み。
尾道市では全国に先駆けて「空き家バンク」の制度を導入していた。しかし、エクセルの一覧で紹介されているだけであまり機能していなかった。
行政が手掛けるには限界があった。「行政は基本的には平日の午後5時半までです。移住を希望する人は、勤務のない土日に訪問するケースが多いのですが、行政ではそうした人に対応できません」。
豊田の強みは、足で情報収集をしている点だ。空き家のきめ細かな情報とネットワークをベースに、移住希望者のニーズに合わせた。ただ、仲介手数料は取らない。民間の不動産会社の経営を圧迫したくないためだ。単に紹介するだけではない。低価格の料金でトラックを貸したり、左官道具を提供したりもする。いざ移住の段階になれば、引っ越しや改修の手伝いもできる。
ほとんど機能していなかった空き家バンクが動き始めた。現在は80戸以上も契約にこぎつけた。
「尾道空き家再生プロジェクト」が尾道市から受託している空き家バンクは登録者800人以上もいる。空き家活用としては全国でも有数の規模だ。
尾道三山の斜面にある建物1200戸のうちおよそ100戸の空き家を解消した。まだ300から400戸は空き家がある。豊田は今後も空き家再生に汗を流すつもりだ。
「ハコモノの再開発や道路整備に力を入れる旧来の行政の手法では、空き家問題は解決しません。自分の住んでいる町の良さを見つけ、見直すのが第一歩です」。
全国で空き家は800万戸を超えている。少子高齢化に伴い、今後も、増え続けるのは避けられない。豊田流の「巻き込む力」はいっそう輝きを増すだろう。
(全2回。上はこちら)
トップ写真:尾道の街並み 出典:flickr:hoshner sigmaniax
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この記事を書いた人
出町譲高岡市議会議員・作家
1964年富山県高岡市生まれ。
富山県立高岡高校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。
90年時事通信社入社。ニューヨーク特派員などを経て、2001年テレビ朝日入社。経済部で、内閣府や財界などを担当した。その後は、「報道ステーション」や「グッド!モーニング」など報道番組のデスクを務めた。
テレビ朝日に勤務しながら、11年の東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(2011年、文藝春秋)はベストセラーに。
その後も、『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(2013年、文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(2013年、幻冬舎)、『景気を仕掛けた男 「丸井」創業者・青井忠治』(2015年、幻冬舎)、『日本への遺言 地域再生の神様《豊重哲郎》が起した奇跡』(2017年、幻冬舎)『現場発! ニッポン再興』(2019年、晶文社)などを出版した。
21年1月 故郷高岡の再興を目指して帰郷。
同年7月 高岡市長選に出馬。19,445票の信任を得るも志叶わず。
同年10月 高岡市議会議員選挙に立候補し、候補者29人中2位で当選。8,656票の得票数は、トップ当選の嶋川武秀氏(11,604票)と共に高岡市議会議員選挙の最高得票数を上回った。