「井戸端長屋」とは 福島相馬市リポート その2
【まとめ】
・相馬市は既存のシステムに依存せず、常に新しい施策を探る。
・「相馬井戸端長屋」は住民のコミュニケーション促進に有効。
・「安全」を示す客観的なデータの提示を続ける。
昨年12月、私は福島県の相馬市役所と相馬中央病院にて1ヶ月のインターンシップに参加した。
相馬市は、平成23年の東日本大震災で甚大な被害を受け、現在も復興の途上にある。復興の様相を行政・医療といった2つの現場より経験させて頂いたことで、様々なことを学んだ。相馬市の魅力が「伝統」と「柔軟さ」の両立にあるということは先の文章にて述べたが、そうした特性による、震災以降の相馬市における諸施策について具体的な形で紹介していきたい。
まず、相馬市の地理的な背景を見てみる。相馬市を中心とした地域は、西方(福島方面)の阿武隈高地、北方(仙台方面)の駒ヶ嶺、南方(いわき方面)の夜ノ森と、三方を山地や森林に囲まれている。残る一方は海だ。このように、地形的には比較的外部から隔絶した地域である。相馬中村藩による長年の統治という歴史も、こうした地理的事情によるところも大きいだろう。
しかし、戦後になると、交通・通信の利便性の向上も手伝って東京など大都市への人口集中が進み、地方は過疎化した。相馬市も例外ではなく、昭和25年には44375人だった人口が昭和45年には37189人まで減少してしまった。以後人口は横ばいであったところに襲ったのが、東日本大震災である。
津波により、コミュニティの基盤それ自体が根こそぎ失われてしまった。原発事故による風評被害も深刻であった。そうした危機的状況を受けた相馬市・立谷秀清市長の施策の数々は、迅速性・流動性を担保しながらも、その奥底では「相馬市で引き受ける」といった気概に満ちたものであり、震災から9年が経とうとする現在に至るまで大きな効果を残すものであった。
まず紹介したいのが、「相馬井戸端長屋」だ。東日本大震災で被災した高齢者の生活支援の為、災害公営住宅のひとつとして建設されたものだ。
インターンシップの中盤に、相馬市役所の横山英彦秘書課長、相馬中央病院の星光事務長に案内されて訪れたのだが、その際に相馬市保健センターの伊東尚美氏を紹介して頂いた。伊東氏は普段井戸端長屋にて入居者の方々の健康指導をされているということで、自分もご一緒させて頂いた。入居者の方々は高齢ながらも非常にお元気で、お互いに活発にコミュニケーションをとられていたことが印象的であった。
▲写真 井戸端長屋での一幕 出典:著者提供
この秘密は、「井戸端」にあるという。住宅の中には洗濯機があるが、あえて共用スペースの中にあり、その上入居者の人数より少なくなっている。こうすることで、順番待ちの際に必然的に会話が生じ、一定のコミュニケーションが担保されている。
別の機会に、相馬市役所保健福祉部健康福祉課の牛安澤美智課長補佐にお話を伺った際、健康寿命を伸ばすために「外に出て、顔を合わせる」ことが重要である、とおっしゃっていたことが大変印象的であった。これはまさに井戸端長屋で採用されていることである。
コミュニティは、井戸端長屋のような日常生活の場は勿論、市役所や病院のような職能集団でも、学校のような教育現場でも形成される。そのどれもが、一定の流動性を持つことで成員の自治、自己陶冶が促進され、健やかな形で安定する。
そこで、いわゆる「新しい風」を吹き込む為の方策も、相馬市が力を入れてきたものだ。教育分野において、それは顕著だ。
インターンシップ中の休日、東京大学の友人が相馬市に来てくれた。「寺子屋事業」という学習支援のボランティアとして、サークルから派遣されてきたという。折角の機会なので自分も参加させてもらい、中学生に勉強を教えた。その翌週、今度は代々木ゼミナールの現代文講師で、東京大学剣道部の大先輩でもある藤井健志先輩と、灘高等学校の英語教師の木村達哉先生、「遊歴算家」の予備校講師の数理哲人先生の3人により、相馬市にて「夢をかなえる勉強会14」が開かれた。自分も足を運び、高校生の前で少しだけ話をさせてもらったのだが、高校生の熱い視線に押されてすっかり緊張してしまった。授業をされる先生方の胆力、そして学生の熱意を実感した。
これらの行事を通し、教育現場に外部の人材を呼び込む素地が、相馬市にはある。震災直後から相馬市において対応をしてきたのが、相馬高校の元教員であり、現在は隣の新地町にある新地高校にて教鞭をとっている高村泰広先生だ。相馬市企画政策部の宇佐美清部長が「本気の人が1人いれば状況は変わる」とおっしゃっていたが、まさにそれを体現したようなエネルギッシュな方であった。
ここまでソフト面の話をしてきたが、勿論ハード面の施策も見逃すことはできない。
12月22日には、相馬市建設部の柏宏樹部長のお誘いを受け、相馬福島道路の相馬IC—相馬山上IC間の開通記念式典に参加した。立谷市長が、祝辞の中で相馬福島道路を「命の道」と称していたことが印象的であった。第三次救急病院を持たない相馬市では、福島市の医大病院への迅速な患者の搬送が長年の課題であった。そこで建設された高規格かつカーブの少ない道路は、まさにコミュニティを繋ぎ、命を救うものであった。
相馬中央病院では、内部被曝測定装置の「ホールボディーカウンター」による集団健診の運営と、そこで出たデータの取りまとめを行った。内部被曝測定といっても、今やほぼ全ての診断で放射性物質は検出限界以下だ。それでもなお診断を続けるのは、風評被害の対策が大きい。
三菱総研が昨年実施したアンケートによると、東京都民の半数近くが「放射線の影響により、福島県民に健康被害が発生する」と誤解しているという。東京に暮らす自分にとってもこれは衝撃的なことであった。震災後8年が経っても、まだこのような現実がある。こうした風評に対抗するためには、「安全」を示す客観的なデータの提示を地道に続けていくことが肝要である。相馬市は、市民に向けての健診を無料で行っている。
▲写真 ホールボディーカウンター 出典:著者提供
以上の施策を見ていくと、相馬市では、他のコミュニティとの交流を重視し流動性を高めながらも、その根底には「相馬市で引き受ける」という共通の考えがあることがわかる。既存のシステムに依存せず、常に新しい道を探っていくことそが、長期的な目線での効果に繋がる。それと共に、相馬市の持つ度量、懐の深さが、他の地域から人々を呼び寄せ、相馬市というコミュニティの復興をさらに促進している。こうした大局的かつ地に足の着いた発想は、我が国の他の地方も学ぶことが多い。
こうしたコミュニティの在り方は、他の地域から訪れた個人にも良い影響を及ぼしうる。まさに、このインターンシップでの私自身がそうだ。
インターンシップも終わりに近付いた頃、「ふくしま学びのネットワーク」事務局長の前川直哉先生のご紹介で、南相馬市小高での灘高等学校・筑波大附属駒場高等学校の「ふくしま「学」宿」に顔を出させて頂いた。筑波大附属駒場高等学校は私の母校である。当時の恩師もいらっしゃっており、御縁が巡り巡って行き着いた先に驚いた。
経験や知識を蓄積し物事を理解するという営みは、一生続く。学生という身は、まだそれを始めたばかりの状態だ。高校や大学という狭いコミュニティの中では、勿論深く学べることもあるが、どうしても近視眼的な考えになるきらいがある。自分から動き、違うコミュニティを見ることで、より幅広い知識と理解力が身につく。そういったことを、同じく修業中の自分より伝えた。
(その1の続き。全2回)
トップ写真:相馬IC—相馬山上IC間の開通記念式典 出典:著者提供
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この記事を書いた人
田原大嗣
1997年、愛知県生まれ。小学2年時より東京都に転居。筑波大学附属駒場中学校、高等学校を経て、現在東京大学法学部4年。東京大学運動会剣道部OB、剣道四段。