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.社会  投稿日:2021/5/23

相馬集団接種と渋谷健司教授


上昌広(医療ガバナンス研究所 理事長)

「上昌広と福島県浜通り便り」

【まとめ】

・国難に際し、英でのポストを捨て福島に拠点を移す渋谷医師。

・理屈よりも現場での行動を優先する例外的存在。

・大震災から10年、福島が世界と繋がる橋頭堡としての活躍を期待。

 

5月1日から福島県相馬市で新型コロナウイルス(以下、コロナ)の集団ワクチン接種が始まった。医療ガバナンス研究所も、5月22日から始まる二回目接種をお手伝いする。筆者も5月24日から相馬市に入る。

相馬市に強力な「助っ人」が登場した。渋谷健司医師だ。勤務する英国のキングス・カレッジ・ロンドンの教授職を辞し、福島にやってくる。我々同様、現地で接種を担当すると同時に、相馬市に設立される「コロナワクチン接種メディカルセンター(仮称)」のセンター長に就任する。渋谷医師は、これからの臨床医のあり方を考える上で、示唆に富む存在だ。本稿でご紹介したい。

渋谷医師は世界的に高名だ。最近、話題になったのは、4月14日、英『ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル(BMJ)』誌で「今夏の東京オリンピック・パラリンピックの開催は再考すべき、専門家は語る」という論考を発表したことだ。渋谷医師は「他のアジア・太平洋諸国と異なり、日本はコロナを封じ込められておらず、五輪までに医療従事者でさえワクチンを接種できない」ことを問題視し、「公衆衛生の国際的見地に立って」五輪開催の是非を再考すべきだと論じている。

『BMJ』は英国医師会が発行する権威ある医学誌だ。米『ニューイングランド医学誌』、『米国医師会誌(JAMA)』、英『ランセット』とともに世界四大医学誌と称される。それぞれ対象とする読者層が微妙に異なり、掲載される論文にも違いがある。

『BMJ』の主たる読者は一般臨床医であり、『BMJ』の「論説」は世界の臨床医の「コンセンサス」を反映していると考えられている。世界の多くの医師が東京五輪開催の中止を求めており、『BMJ』編集部は、この意見を述べるのに相応しい人物として、渋谷医師に白羽の矢を立てたことになる。

渋谷医師は、現在の日本は勿論、世界の医学界で最も影響力がある医師の一人と言っていい。例えば、『ランセット』と“Kenji Shibuya”で米国立医学図書館データベース(PubMed)を検索すれば、54報の論文や論考がヒットする。私の知る限り、日本一だ。

渋谷医師と私が知りあったのは、彼と東京大学医学部の同級生である旧知の中田善規・帝京大学教授が紹介してくれたからだ。渋谷医師とは、医学界の現状に問題意識を抱く点で意見が一致し、お付き合いいただくようになった。そして、2011年の東日本大震災以降は、相馬市を中心とした福島県の医療支援を二人三脚でやってきた。写真は2011年5月21日の飯舘村、2015年7月19日の相馬市での住民を対象とした健康診断のときのものだ。

東日本大震災後は、多くの有識者や専門家が、「司令塔が大切」「情報を一元化すべきだ」など様々な提言をしていた。震災直後から、我々のチームは福島県の浜通りで活動を続けていたが、多くの有識者や専門家は一度は見学にくるが、長期にわたり携わる人がいないことを知り呆れていた。「提言」するだけで、行動しない。被災地訪問も、なかば物見遊山だ。

コロナ対策も状況は同じだ。専門家会議の委員の医師など、議論する暇があれば、ワクチン接種でもなんでも、自分ができることをすればいいのだが、そういう人は少ない。理屈よりも現場での行動を優先する渋谷医師は例外的な存在だ。

こういう人材は一朝一夕では育たない。なぜ、このような人物が育ったのか。それは、東京大学医学部を卒業後に麻酔科を専攻し、帝京大学の故森田茂穂教授に師事したことが大きい。渋谷氏は、森田教授のことを今でも「人生の師」と称する。

森田教授の指導は独特だった。教え子には幅広い教養を求め、「バカ医者」になることを嫌った。国際的視点を持つために海外留学を奨励し、その際には、臨床医学に限らず、幅広い分野を学ぶように指導した。その門下からは、エール大学大学院で経営学修士(MBA)を取得した前出の中田善規・帝京大学教授や、シカゴ大学大学院でMBAを取得した大嶽浩司・昭和大学教授らが出ている。彼らは麻酔科医として勤務する傍ら、大学のマネージメントにも関わっている。

渋谷氏のキャリアは、彼らとは違った。彼の海外武者修行は、ハーバード大学大学院での公衆衛生学博士号取得、および2001~08年にわたる世界保健機関(WHO)でのシニア・サイエンティストや保健統計・エビデンスユニット長としての勤務だ。

WHOといえば、厚労省からの出向をイメージされる方が多いだろう。「WHO西太平洋地域事務局感染症対策部」などの肩書きは、医系技官の「定位置」だ。知人の元医系技官は「厚労省がWHOに拠出している税金で買っているようなポスト」とも言う。厚労省からの出向者は「能力はなくとも、いきなりWHOの幹部に任用される」(前出の元医系技官)。今回のコロナ対策での「元WHO医系技官・有識者」の発言を聞けば、公衆衛生の専門家としての、彼らの力量がどの程度かお分かり頂けるだろう。ご興味がある方は「PUBMED」で、彼らが過去に発表した論文を調べるといい。業績のなさに驚くはずだ。

渋谷医師は違った。彼は「叩き上げ」だ。仕事で評価され、独自の人間関係を構築した。その中には『ランセット』のリチャード・ホートン編集長や、クリストファー・マレー米ワシントン大学医学部保健指標評価研究所(IHME)教授らがいる。

前者の影響力は、改めて説明する必要もないだろう。ホートン編集長の渋谷医師への信頼は厚い。私が、このことを痛感したのは、東日本大震災で「共闘」したときだ。

我々のチームで、原発作業員のサポートに当たっていた谷本哲也医師が、万が一の大量被曝に備えて、予め造血幹細胞を採取する必要を訴える英文の論考を書き、筆者に送ってきた。谷本医師は、『ニューイングランド医学誌』への投稿を考えていたようだ。

筆者は渋谷医師にも転送し、意見を求めたところ、そのままホートン編集長に転送したらしい。数時間後には『ランセット』誌から谷本医師のところにゲラが届き、翌日にはオンラインで公開された。『ランセット』編集部は、この論考をプレス・リリースしたようで、谷本医師のところには、世界中のメディアから取材が殺到した。後日、渋谷医師からは「あの論考の反響は大きく、『ランセット』編集部からも感謝された」と報告を受けた。その後、谷本医師たちは数名の原発作業員の造血幹細胞を採取し、保存する。

『ランセット』誌は、この続報も「コレスポンデンス」として掲載した。

本稿では詳述しないが、マレー教授は公衆衛生の世界で最も影響力がある研究者の一人だ。「世界の疾病負荷研究(Global Burden of Disease Study, GBD)」を主導するのは、マレー氏と米ビル&メリンダ・ゲイツ財団だ。この研究は『ランセット』誌が定期的に掲載しており、渋谷医師およびその門下生は、筆頭および共著者として8報に名を連ねている。

渋谷医師との付き合いを通じて、筆者は世界的な医学誌は信頼感に基づく、個人的なネットワークで動いていることを痛感した。そして、私は、そのようなネットワークの一員として認められている渋谷医師を尊敬する。

▲写真 渋谷健司医師(右)、著者(左)。福島県相馬市での住民健診にて(2015年7月19日)著者提供。

今回、この渋谷医師が福島にやってくる。前述したように、渋谷医師は勤務していた英キングス・カレッジ・ロンドンを辞して、活動の拠点を福島にうつす。英国のポストは「テニュア」と呼ばれる終身雇用だ。渋谷医師は、今回の国難に際し、ポストを投げ出して現場に飛びこんだ。50代半ばをこえ、考えるところがあったのだろう。

東日本大震災から10年、福島に世界的な人材が集いつつある。コロナワクチン接種促進はもちろん、福島が世界と繋がる橋頭堡としての活躍を期待したい。

トップ写真:福島県飯舘村の住民健診後の光景。前列右が渋谷医師、3人目が筆者(2011年5月21日)筆者提供。




この記事を書いた人
上昌広医療ガバナンス研究所 理事長

1968年生まれ。兵庫県出身。灘中学校・高等学校を経て、1993年(平成5年)東京大学医学部医学科卒業。東京大学医学部附属病院で内科研修の後、1995年(平成7年)から東京都立駒込病院血液内科医員。1999年(平成11年)、東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。専門は血液・腫瘍内科学、真菌感染症学、メディカルネットワーク論、医療ガバナンス論。東京大学医科学研究所特任教授、帝京大学医療情報システム研究センター客員教授。2016年3月東京大学医科学研究所退任、医療ガバナンス研究所設立、理事長就任。

上昌広

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