人類と感染症7 スペイン風邪、西部戦線異状あり
出町譲(経済ジャーナリスト・作家)
【まとめ】
・スペイン風邪は西部戦線に送り込まれた米兵がきっかけだった。
・スペイン風邪の大流行は第一次世界大戦の終戦を早めた。
・感染病は人間社会が対立している時に流行する歴史がある。
私の脳裏に、有名な映画のワンシーンがこびりついている。そこは男子校とみられるドイツの高校だ。
「諸君らはドイツの鉄の男です」
「敵を撃滅せんとする偉大な英雄たちとなるのです」
「祖国に捧げる死は甘美である」。
「大儀名分の下では個人的な野心を捨てるべきだ」。
教師が生徒を前に、力説した。戦争を鼓舞する演説。そのさ中、映画は、生徒の一人一人の顔を映し出す。悩ましい表情をした若者たちもいる。教師は、最後に志願兵になるよう促すと、若者たちが次々に呼応した。「私は行きます」「ここに留まるつもりはない」。彼らはドイツ軍の兵士になった。教師が、若者たちをそそのかす。それが戦争の現実なのだ。私は、狂気の社会の根っこをみたような気がした。
若者が送り込まれた先は、フランス北部の西部戦線。ドイツ軍が英仏米連合軍と対峙していた戦場だった。この映画は、第一次世界大戦の戦場での若者たちの様子を描いた「西部戦線異状なし」である。
西部戦線は3年半も膠着状態が続いた。塹壕の中から兵士たちは相手を襲う。敵兵に対し、銃弾を向ける。銃を持ちながらも、両軍の兵士は地上で、もみ合い状態になる。「密閉」ではないものの、まさに「密集」と「密接」。そんな場所が戦場だ。
この壮絶な戦いが繰り広げられる中、ある異変が起きていた。目に見えない“敵”の襲来だ。それがスペイン風邪だった。
環境ジャーナリスト、石弘之氏の『感染の世界史』(角川文庫)によれば、両軍とも兵士の半分以上がスペイン風邪に感染した。ドイツ軍では、20万人もの兵士を失った。英仏米の連合国軍も然り。アメリカ軍ではインフルエンザで死んだ兵士は5万7000人に及んだ。これは、戦死者の5万3500人を上回った。イギリス兵は200万人の大軍を出していたが、6月1日から8月1日までの間に120万人が感染した。
なぜ、ヨーロッパの戦場にスペイン風邪が出現したのか。
そもそものきっかけは、アメリカ兵だったという見方が有力だ。ヨーロッパ戦線に送り込まれたアメリカ兵の中に感染者が含まれていた。
アメリカ軍は第一次世界大戦の末期、大量に西部戦線に送り込まれ、終戦までに2回総攻撃を仕掛けている。そこに数多くの感染者が含まれていた。この連載で先にお伝えしたように、スペイン風邪の第一波は9月にアメリカに上陸した。最初に感染が広まったのは、アメリカ軍の基地だった。
▲写真 第一次世界大戦・西部戦線の様子 出典:IMPERIAL WAR MUSEUM
感染は、フランス兵、イギリス兵、さらには敵であるドイツ軍にも波及した。ウイルスにとっては、連合国軍とドイツ軍の戦いは関係がない。双方に容赦なく襲い掛かる。疲れ切った兵士の体は、格好の“ターゲット”となった。塹壕をつくって戦う地上戦だけに、感染は容易だ。
スペイン風邪に襲われた戦場は悲惨な状況だった。『史上最悪のインフルエンザ』(P203)は、詳細に記録する。500人程度のあるアメリカ軍の部隊では、移動中にインフルエンザのため次々に隊員を失い、目的地に着いた時にはわずか278人になっていた。戦地の病院には、負傷兵に加え、スペイン風邪とみられる人が6万8760人も入院していた。
スペイン風邪は感染するだけに、扱いは極めて困難だった。医療関係者や救急車の運転手は、負傷兵と区別するように、指示されていたが、それは無理だった。救急車の後ろの荷台に、負傷した兵士を乗せる際、スペイン風邪かどうか、問いただす余裕はないのは明白だ。
1918年外科医として移動病院に勤務していた医師の言葉が残っている。
「病室という病室は機関銃でやられた負傷兵でいっぱいだ。雨、泥、インフルエンザ、そして肺炎。いくつかの病院では、あまりに混みすぎていて働くのもままならないくらいだ。」(史上最悪のインフルエンザ、P209。ジョージ・ワシントン・クライル博士)
「あらゆる種類の感染症患者がおり、彼らは何らかの感染防御の手だても施されず、イワシの缶詰のようにぎっしり病室に詰め込まれていた。たったひとりの眼科医が数百人の絶望的状態の肺炎患者の面倒を見ていた」(同)。
医療現場もまた、戦場のように壮絶だった。あるドイツ軍の将軍は「兵士がことごとくインフルエンザにやられ弱り果てて、武器を運ぶこともできない」と語った。
戦争どころではない。スペイン風邪の大流行で、第一次世界大戦の終戦は早まり、18年11月に迎えた。
ともあれ、兵士の苦しみをよそに、国際社会の権力構造は、変わった。アメリカはヨーロッパに代わって、世界の“盟主”となった。国際協調の枠組みをリードする姿勢を示し、国際連盟の創設を提唱した。ウイルソン大統領は意気揚々としていた。第一次世界大戦について「戦争をなくすための戦争」と言い切った。
▲写真 ウイルソン大統領 出典:Flickr; The Library of Congress
人と人との戦争はひとまず終わった。アメリカの力を世界に見せつけた。しかし、ウイルスとの戦争は終わっていなかった。これからが本番となった。
生き残った兵士は戦線から自国に戻り、スペイン風邪はそれぞれの国で、広まった。凄まじい感染力で、世界中を席巻したのだ。アフリカ、アジア、さらには日本にも波及した。
スペイン風邪は、第一次世界大戦の終了と同じタイミグで、世界に広まった。犠牲者は5000万人にもおよんだ。
第一次世界大戦は歴史上、経験のないほどの人数の兵士が船を使って大移動した。ウイルスにとっては最高の“乗り物”を獲得したのだ。人類初の世界戦争が第一次大戦。戦争のグローバル化である。
スペイン風邪を取り巻く、国際情勢をお伝えしたが、今、我々はよく似た環境に生きている。コロナ前までは、世の中は、グローバル化をおう歌していた。日本政府は訪日外国人数を2020年、つまり今年までに4000万人にするという目標をたてていた。中国だけでなく、東南アジアの中間層が台頭し、日本への旅行客が急増していた。日本訪日外国人の増加こそが、日本経済復活の切り札とされてきた。その野望は、新型コロナによって、あっけなく、打ち砕かれた。
また、アメリカと中国の貿易戦争も勃発している。第一次大戦のように、実弾は飛び交っていないが、超大国が角突き合わせる状態が続くのは、異常だ。不思議なことに、感染病は人間社会が対立するとき、流行する。歴史を踏まえれば、我々は、孤立化したり、対立をあおったりすべきでない。歴史上まれにみる狂暴なウイルスに、世界が団結して対抗すべきだと、私は思う。
トップ写真:スペイン風邪の患者であふれる病院 出典:PLOS
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この記事を書いた人
出町譲高岡市議会議員・作家
1964年富山県高岡市生まれ。
富山県立高岡高校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。
90年時事通信社入社。ニューヨーク特派員などを経て、2001年テレビ朝日入社。経済部で、内閣府や財界などを担当した。その後は、「報道ステーション」や「グッド!モーニング」など報道番組のデスクを務めた。
テレビ朝日に勤務しながら、11年の東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(2011年、文藝春秋)はベストセラーに。
その後も、『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(2013年、文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(2013年、幻冬舎)、『景気を仕掛けた男 「丸井」創業者・青井忠治』(2015年、幻冬舎)、『日本への遺言 地域再生の神様《豊重哲郎》が起した奇跡』(2017年、幻冬舎)『現場発! ニッポン再興』(2019年、晶文社)などを出版した。
21年1月 故郷高岡の再興を目指して帰郷。
同年7月 高岡市長選に出馬。19,445票の信任を得るも志叶わず。
同年10月 高岡市議会議員選挙に立候補し、候補者29人中2位で当選。8,656票の得票数は、トップ当選の嶋川武秀氏(11,604票)と共に高岡市議会議員選挙の最高得票数を上回った。