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.国際  投稿日:2020/4/18

人類と感染症4 第一次大戦とスペイン風邪


出町譲(経済ジャーナリスト・作家)

【まとめ】

・第一次世界大戦から流行したスペイン風邪、2年で世界人口の3分の1が感染。

・中立国だったスペインで流行報道出回り、「スペイン風邪」の呼称に。

・最初の流行はアメリカ軍での発症が有力説。

 

今回の新型コロナは、100年ぶりのパンデミック(世界的な大流行)になったというのが大方の見方だ。

ほぼ100年前、恐ろしい感染症がまん延した。1918年のスペイン風邪だ。新型コロナの報道で、しばしば耳にするが、それはどんなものだったのか。私自身、その名前は聞いたことがあったが、あまり知識はなかった。それでは、まずはその全容、数字で表したい。

わずか2年ほどで、世界で6億人が感染した。当時の世界の人口(16億人)の実に3分の1以上に相当する。死者は4千万人とも5千万人とも言われる。人類史上、1回の流行としては、最も多くの人が犠牲となった。ちょうどこのころ、第一次世界大戦の戦死者は1000万人といわれる。実にその4、5倍の死者を出した。

▲写真 スペインかぜ大流行のためマスクをする女学生 (1919年) 出典:Mainichi Shimbun

ウイルスが大暴れすれば、人類が手の施しようのない事態が発生する。それが立証された形だ。100年前の出来事だとして、軽視してはならない。今の新型コロナも、治療法が開発されていない。同じような事態が起きないとは限らない。感染拡大防止には最大の努力が必要だ。

スペイン風邪が最初に発生したのは、私はてっきりスペインと思い込んでいた。しかし、現実は違う。名前の背景は、当時の国際情勢だ。第一次世界大戦が行われているさ中だった。英仏米の連合軍とドイツとの戦いだったが、戦時期だったため、各国は情報を統制した。戦争に不利になる情報は隠ぺいする。それが戦争当事国のやり方だった。

スペインは違った。中立国だったため、インフルエンザが大流行していることを自由に伝えた。国王だけでなく、閣僚などにも広がり、国の機能自体がマヒした。こうした混乱がニュースとなり、「スペインで強力な風邪が流行している」と知れ渡った。そのため、「スペイン風邪」と呼ばれるようになった。報道の自由が意外な形で、しっぺ返しを食らった。

しかし、私はスペインのやり方が正しかったと思う。戦争当事国の政府が隠ぺいしたことが、スペイン風邪の被害拡大につながったと言われている。流行を抑え込むための対策を取らなかったためだ。戦争当事国は、国家のメンツをかけて戦っているが、内実は「国民ファースト」の姿勢が欠けていた。情報公開の徹底は、いまも通じる重要な原則だ。

さて、このスペイン風邪は大きく分けて3つの段階がある。1918年春からの「前触れ」、秋からの「第一波」、1919年暮れからの「第二波」だ。

特徴は、後になればなるほど狂暴になることだ。収まったと思えば、牙をむく。その繰り返しで、人を殺す。いったん収束しても、安心することなかれ。ウイルスは変異して狂暴化する。新型コロナに関して、決して油断してはならない。ウイルスの本質は100年経っても変わっていない。

スペイン風邪の始まりについては諸説があるが、有力なのは、アメリカ軍の基地だ。1918年3月4日、カンザス州ファンストン基地に発熱や頭痛を訴える兵士が殺到したからだ。3月だけで、233人が感染し、そのうち48人が死亡した。これがスペイン風邪とみられる。兵士は豚舎の清掃係だった。この地域は渡り鳥の大群が飛来する越冬地だ。渡り鳥がウイルスを豚に移し、豚の体内で変異し、人に感染するようになった可能性がある。この時期、学校や自動車工場、さらには刑務所などでも集団感染がみられた。

▲写真 Emergency hospital during influenza epidemic, Camp Funston, Kansas (1918) 出典:National Museum of Health and Medicine

ただ、アメリカ国内では注意を払う人は少なかった。当時は第一次世界大戦末期だ。アメリカも参戦していた。ヨーロッパの戦争に注目が集まっていたからだ。また、前述のように情報統制があったことも影響している。

スペイン風邪はその後、アメリカ国内だけでなく、イギリスやフランスなどにも広がった。軍隊から一般市民にも移った。

さらに当時は数多くの船が世界を行き来し、流行は、ロシア、北アフリカ、インド、中国にも達した。フィリピンのマニラでは港湾労働者の4分の3が寝込んでしまった。そして第一次世界大戦も、感染拡大に一役買った。ヨーロッパ戦線に送り込まれたアメリカ兵の中に感染者が含まれていた。

アメリカの地政学者のアルフレッド・クロスビーの著作「史上最悪のインフルエンザ」(みすず書房)によれば、スペイン風邪は4カ月で、地球を一周した。すでに、数万人もの命を奪っていた。

しかし、この夏になると、その感染力は衰え、アメリカに再び広まらなかった。そしていつの間にか、消えていった。当時、アメリカ国民の健康はかつてないほど良好だった。「スペイン風邪は恐れるに足らず」。前触れだったにもかかわらず、世界では楽観論が広まった。この段階で、スペイン風邪がその後、4000万人、5000万人もの命を奪うと考えた人は、いなかった。嵐の前の静けさに過ぎなかった。ウイルスが狂暴化して、大流行した様子については次回お伝えする。

(続く)

トップ写真:Spanish flu virus 出典:Cynthia Goldsmith


この記事を書いた人
出町譲高岡市議会議員・作家

1964年富山県高岡市生まれ。

富山県立高岡高校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。


90年時事通信社入社。ニューヨーク特派員などを経て、2001年テレビ朝日入社。経済部で、内閣府や財界などを担当した。その後は、「報道ステーション」や「グッド!モーニング」など報道番組のデスクを務めた。


テレビ朝日に勤務しながら、11年の東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(2011年、文藝春秋)はベストセラーに。


その後も、『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(2013年、文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(2013年、幻冬舎)、『景気を仕掛けた男 「丸井」創業者・青井忠治』(2015年、幻冬舎)、『日本への遺言 地域再生の神様《豊重哲郎》が起した奇跡』(2017年、幻冬舎)『現場発! ニッポン再興』(2019年、晶文社)などを出版した。


21年1月 故郷高岡の再興を目指して帰郷。

同年7月 高岡市長選に出馬。19,445票の信任を得るも志叶わず。

同年10月 高岡市議会議員選挙に立候補し、候補者29人中2位で当選。8,656票の得票数は、トップ当選の嶋川武秀氏(11,604票)と共に高岡市議会議員選挙の最高得票数を上回った。

出町譲

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