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.国際  投稿日:2020/8/5

中国共産党幹部著書「平安経」批判の訳


岩田太郎(在米ジャーナリスト)

 【まとめ】

・中国共産党幹部が出版した『平安経』が物議を醸している。

・コロナ禍において現実逃避的で非生産的であると見られた可能性。

・『平安経』は中国にとって安保問題となる宗教を連想させたか。

 

満洲吉林省で公安畑を歩んできた中国共産党幹部が2019年に上梓した『平安経』と題される仏教経典を想起させるベストセラーが、中国共産党員の腐敗を管理・監督する機関である党中央紀律検査委員会の検証の対象となり、地元の中国共産党吉林省委員会も『平安経』に関する合同調査団を立ち上げるなど、物議を醸している。

中国事情に詳しい編集者の田中淳氏がクーリエ・ジャポンで発表した「中国共産党幹部が出版した自己啓発本『平安経』が意味不明すぎて当局が“マジギレ”」という記事によれば、人民に平安をもたらすどころか、彼らの心をざわつかせ、世間を騒然とさせているというのだ。

この本の出版や物議の経緯などの詳細は、田中氏の秀逸なまとめを参照されたい。当記事では、「なぜ売れ筋の『平安経』が批判の対象になってしまったのか」について、中国共産党が『平安経』という疑似宗教経典によって、存在意義そのものを脅かされたことに対する反応であるという仮説に基づき、掘り下げて考察してみたい。 

 

ただのイミフ自己啓発本なのか

問題の『平安経』を著したのは、吉林省公安庁で党副書紀や常務副庁長を歴任した賀電(57)氏。吉林ネイティブで、法学と毛筆書き文献学のふたつの博士号を持ち、日本の警視監に相当する一級警監の階級を保持する「知性派エリート」である。これまでに30冊の自著を出版したほか、全国公安書法家協会の主席も務めるという。

ところが中国共産党吉林省委員会は7月31日に、吉林省公安庁は賀電氏について吉林省公安庁党副書紀と、同常務副庁長の職務を解任すると発表。職務解任を宣告された賀氏がハンカチで目頭を押さえ、涙する様子が全国テレビで伝えられた。これに先立つ7月29日には、党中央紀律検査委員会が「平安を掛け声にするな、地に足の着いた行動を」と呼びかけ、『平安経』を批判していた。

賀氏の著作は党中央によって問題化されるまでは、地元当局によって朗読キャンペーンが張られるなど、「ゴリ押し」の対象で、「国境や時空を超えた大傑作」「清朝の有名小説に匹敵する巨編」「著者の深淵なる魂と豊かな情感を感じられる」などと絶賛されていたにもかかわらず、なぜ風向きが変わったのだろうか。

同書は、「平和で包括的なコミュニティプラットフォームを構築し、人民は厳粛な気持ちの中に平和な雰囲気を醸成し、平和なエネルギーを集めることができる」ことを謳い文句にしており、「宇宙時空平安」「世界各界平安」「中華公衆場所平安」など10章からなる。

ところが、末尾にひたすら「平安」をくっつけただけの名詞が延々と続くイミフの本でもある。「1歳平安、2歳平安、3歳平安……99歳平安」「眼平安、耳平安、鼻平安、唾液腺平安、視覚平安、聴覚平安、咽喉平安……」「北京首都国際空港平安、北京大興国際空港平安、上海浦東国際空港平安、台湾桃園国際空港平安、上海虹橋駅平安、香港西九龍駅平安、天津港平安、深圳港平安……」など、大変ありがたい感じはするが、同時に読者の知性をバカにしているのかと思われる内容である。 

 

幹部の私腹肥やしと政治方針の不貫徹 

表向き、今回の『平安経』批判や賀氏の追放は、賀氏が定価299元(約4450円)もする自著のゴリ押しで私腹を肥やしていた腐敗・職務不忠実や、『平安経』の現実逃避性を党中央がやり玉に挙げた現象のように映る

事実、このように著作のゴリ押しで金儲けにうつつを抜かし、問題となったのは賀氏が初めてではない。著者にとっても出版社にとっても美味しい「中国独自の新たな出版ビジネスモデル」で有名となった党幹部に、元党湖南省郴州市委員会書紀の李大倫氏がいる。李元書記は在任中、書道作品集『大倫書法作品集』とエッセイ『歳月如詩』を上梓し、3000万元(約4億6000万円)以上を稼いだという。地方幹部による著作刊行はある種のブームだと、田中氏の記事は指摘する。

一方、『平安経』の内容は、米中関係の悪化、尖閣・台湾における緊張の高まり、コロナ禍による経済減速、大量失業など社会問題の顕在化など、中国内の問題が山積して党中央が国全体の引き締めを図る中、あまりにも現実逃避的で非生産的であると見られた可能性もある。

田中氏が指摘するように、中国との政治的対立が深刻化している米国、カナダ、オーストラリアにも「美国平安、加拿大平安、澳洲平安」と祝福を忘れないのは立派であるが、党がこれらの国を「香港や台湾など中国の内政問題に干渉している」「中国に対するフェイクニュースを煽っている」などと口汚く罵る雰囲気の中で、中央の政治指導の方針から外れたと見られたのかも知れない。

さらに、省委書紀や省長ですらない地方の一幹部の著作が、国家指導者の著作を差し置いてキャンペーンの対象とされたことが、規律違反と見なされた可能性も否定できない。

写真)全国人民代表大会 出典)VOA

反宗教の党是に反する 

しかし、『平安経』の核心的な問題は、地方幹部の私腹肥やしや、党の政治方針との不整合ではない。中国共産党の幹部である賀氏が意識していたのか否かはわからないが、『平安経』は疑似宗教経典であり、中国共産党の存在意義そのものに対する挑戦となりかねない作品だと思われるからだ。

問題となった『平安経』は、その名前からして仏教の摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)や妙法蓮華経(法華経)などを想起させる。そして、中国共産党にとっての「核心」である習近平国家主席の教えに従って国家建設に引き続き邁進するような積極性を説くのではなく、ただひたすら「〇〇に平安あれ」と祈る受動的で、魂の平安を追求する、唯物的ではないナラティブであるからだ。

なぜ、そのように平和的なお経が問題となるのか。一言でいえば、宗教は中国共産党にとっての死活的な安全保障問題だからである。

ソ連の初代最高指導者のウラジミール・レーニンは「宗教は民衆の阿片である」と看破したが、これは人民の福祉や利益を想って出た言葉ではない。宗教は、共産党の絶対的な権力と存在意義を脅かしかねないからこそ、害悪なのである。

同じように、漢人支配地域である「中華人民共和国」においては、中国共産党の他に道徳的・社会的権威は認められないのであり、それがイスラム教であれキリスト教であれ仏教であれ法輪功であれ、人民の絶対的な忠誠の対象が共産党以外に存在してはならないのだ。

だからこそ、毎日のニュースで報じられる通り、中国共産党は東トルキスタン(「新彊ウイグル自治区」)においてイスラム教徒を厳しく迫害し、欧米の自由主義思想と親和性が高いキリスト教の信者や、チベットの仏教徒、法輪功信者など、あらゆる宗教の信者に対する取り締まりを強化しているのである。

こうした環境下、少しでも宗教との類似性がある思想が危険視されるのは当然の帰結であった。

 

『平安経』は隠れ宗教か

中国共産党にとって宗教が安保問題であるという事実は、豊臣秀吉や徳川家康のキリシタン政策を思い起こすと理解しやすい。特にキリスト教で顕著なのだが、宗教には権力よりも上の存在である神仏を認め、権力に抵抗する思想につながる素地がある。そうした信者たちが、スペインやポルトガルなど外国勢力と結んで権力に挑戦するならば、なおさらだ。

キリシタン奪国論に見られるように、為政者は庶民や大名がキリスト教を通して抵抗することを恐れ、弾圧を行ったのである。戦国時代の日本各地における一向一揆や宗教的な反乱は、大きな脅威であると同時に、日本の国防を揺るがす安保問題でもあった。

だが、賀電氏の『平安経』は、特定の神仏への祈りではない。賀氏は共産党員で、しかも宗教を取り締まる公安の幹部である。さらに、習近平国家主席が推進する「中国夢」「中華民族の偉大な復興」などの理想に沿った「中華文明平安」なる章まで設けており、党の方針への従順をアピールさえしている。米国など外国勢力との関係も認められない。

だが、心の平安に訴えかけている時点で、すでに共産党のモットーである唯物論的な世界観に反している。胡錦濤元国家主席も2006 年の全国統一戦線工作部の会議で、「われわれ中国共産党員は無神論者であり、いかなる宗教も信仰しない」という党の立場を力説している。事実、賀氏の著作の「経」という書名は、宗教を連想させないわけにはいかない

さらに、『平安経』の「アジア国家平安」の項にはご丁寧に、「日本平安」まで添えられているという。このような「博愛主義」は、中国が領土問題などで厳しい対日姿勢を明確にする中、相応しくなかろう。

賀電氏は何らかの処分を受けるだろう。ちなみに、宗教信仰を持つ党員への対処方法について党中央組織部は、「党の政策を実行し規律に従う党員」に対して教育措置をとると定めている。共産主義の信念がゆらぐ党員は「教育措置または離党」、共産主義の信念を喪失した党員には「教育措置または離党または除名」である。

賀氏は職務解任の際に涙を流したことから、党への忠誠は固いものと思われる。だが、新手のビジネスで私腹を肥やしただけでなく、「人民にとってすべてとなる」党の存在の根幹を疑似宗教書で脅かした罪は重い。

彼への処分は、「離党または除名」となるのではないか。

トップ写真:天安門 出典:Wikimedia Commons; 张瑜

 


この記事を書いた人
岩田太郎在米ジャーナリスト

京都市出身の在米ジャーナリスト。米NBCニュースの東京総局、読売新聞の英字新聞部、日経国際ニュースセンターなどで金融・経済報道の訓練を受ける。現在、米国の経済・司法・政治・社会を広く深く分析した記事を『週刊エコノミスト』誌などの紙媒体に発表する一方、ウェブメディアにも進出中。研究者としての別の顔も持ち、ハワイの米イースト・ウェスト・センターで連邦奨学生として太平洋諸島研究学を学んだ後、オレゴン大学歴史学部博士課程修了。先住ハワイ人と日本人移民・二世の関係など、「何がネイティブなのか」を法律やメディアの切り口を使い、一次史料で読み解くプロジェクトに取り組んでいる。金融などあらゆる分野の翻訳も手掛ける。昭和38年生まれ。

岩田太郎

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