イラクのクウェート侵攻30年と日本の屈辱
古森義久(ジャーナリスト・麗澤大学特別教授)
「古森義久の内外透視」
【まとめ】
・1990年8月、イラクの大軍が隣国のクウェートに侵攻。
・米、日本の多国籍軍参加を切望するも、日本は人的寄与せず。
・日本は130億ドルの資金を提供、「小切手外交」と揶揄された。
ちょうど30年前の1990年8月2日、イラクの大軍が隣国のクウェートに侵攻した。その侵攻が超大国アメリカを巻き込んでの第一次湾岸戦争へと続いた。だからクウェート侵攻が湾岸戦争の始まりだったともいえる。
この戦争をアメリカの首都ワシントンで、そしてクウェート近くの前線で、取材した私にとっても、いま思い出せば強烈な体験だった。単なる戦争というだけでなく、世界情勢全体が地殻変動を起こしていた当時の国際秩序の激変とつながる大異変でもあったのだ。
イラクのクウェート侵攻は崩壊しつつあるソ連への対処に追われていた当時のアメリカの不意を衝く大事件だった。当時の初代ブッシュ政権は戦後史でも稀な多国間の団結でイラク軍を粉砕し、東西冷戦後の世界の新秩序を固めることに成功した。その過程では日本だけが国家としての欠陥をさらし、国際的な屈辱を体験した。
イラク軍の大部隊がクウェートになだれこんだ第一報がホワイトハウスに届いた時、ワシントンは夏休みだった。1990年8月2日、ワシントン時間では午後9時すぎだった。
ブッシュ大統領、チェイニー国防長官はともに翌日のコロラド州での式典に出る予定を決めていた。この種の緊急事態にまず対処するホワイトハウスの国家安全保障会議のスコウクロフト大統領補佐官も、ワシントンの自宅でくつろいでいた。
激動の中心となるイラクに駐在していたアメリカ大使は休みをとって、ロンドンで静養中だった。これほどアメリカ政府はこの侵攻事件を予期していなかったのである。
だが衝撃を受けたブッシュ政権も対応は敏速だった。
アメリカ政府はイラクのフセイン大統領の行動を国際規範違反の侵略行動と断じ、撤退を迫る一方、応じない場合の軍事制裁の準備を国内、国際の両面で始めたのだ。
だが当時の国際情勢はきわめて複雑で重大な転機を迎えていた。
前年の1989年11月にはドイツのベルリンの壁が崩れ始めていた。ソ連が支配してきた東ドイツを含め東欧諸国の共産主義政権があいつで崩壊の兆しをみせ、国民たちが自由を求めて西側へと脱出し始めていた。
肝心のソ連の共産党体制が揺らいでいた。その1989年12月には地中海のマルタでの米ソ首脳会談でゴルバチョフ書記長は「東西冷戦の終わり」という言葉を口にした。アメリカとの対決の終結を示唆していた。だがアメリカのブッシュ大統領はまだそんな言葉は述べなかった。ソ連の共産党政権は揺らいだとはいえ、なお健在だったからだ。
このマルタ島での歴史的な首脳会談も私はワシントンから取材に出かけた。現地ではゴルバチョフ、ブッシュ両首脳が実際に会談する旅客船上に乗って、その会談の始まりを目前で見聞するという10数人の記者による代表取材にも選ばれるという幸運を得た。
アメリカとソ連との長年の対決が終わりに向かえば、世界はまちがいなく平和や安定へと歩むだろうと、だれもが思っていた。
国際情勢のそんな地殻変動の中でのイラクの軍事侵略だったのだ。
その背景にはペルシャ湾岸でアメリカがソ連の脅威の後退に応じ臨戦態勢を緩めたことにフセイン大統領がつけこんだという要因もあった。東西冷戦の緩和が逆に地域の紛争や戦争を引き起こしやすくなる、という歴史の皮肉でもあった。
イラクのクウェート軍事占領に対してブッシュ政権は国連に呼びかけ、イラクの侵略への経済制裁と軍事力行使容認の決議を取りつけていった。その決議を基礎に各国に多国籍軍への参加を求めた。
ブッシュ大統領はアメリカ国内でも予備役召集など軍事行動への準備を進めた。
なにしろイラクの侵略性や無法性があまりに明白だった。だからアメリカの行動を国際正義とか大義として同調する国が多かった。アメリカ国内でもイラク糾弾は超党派の強いコンセンサスとなった。
だがイラクはクウェートに数十万の部隊を駐留させ、武装を強化して、撤退の求めには応じなかった。
アメリカは米軍部隊をクウェート周辺に配備し始めた。
私も11月下旬、ブッシュ大統領の同行取材でクウェートのすぐ南、サウジアラビアのダーラン地区に集結した米軍の大部隊をみた。
戦闘服の男女将兵がブッシュ大統領を取り囲み、熱をこめて語りかける様子は米軍全体の士気の高さを感じさせた。なにしろアメリカとしては珍しい国内でのコンセンサスに近い圧倒的な支持を得ての軍事行動だったのだ。
写真)サウジアラビアの米兵を慰労するブッシュ大統領 1990年11月22日
出典)米国防総省 Photo By: Courtesy of George Bush Presidential Library and Museum
1991年1月には米軍主体の多国籍軍によるイラク軍への空爆作戦が火を噴いた。そしてそのすぐ翌月の2月、わずか100時間の地上戦闘で多国籍軍はクウェートを占拠していたイラク軍部隊を撃破した。米側はクウェートから敗走するイラク軍をイラク領内までは追撃しなかったが、フセイン政権は軍事的には完全に屈服していた。
写真)米軍の「砂漠の嵐」作戦の攻撃を受けたイラク軍の戦車などの残骸 1991年4月18日
出典)U.S.Airforce Photo by TECH. SGT. JOE COLEMAN
アメリカはこの間、ドイツ統一という巨大な課題をもこなしていた。東西冷戦後の新秩序を築くことに成功したのだ。やはり「アメリカの力による平和」が基盤だった。
その後、ブッシュ政権は東西冷戦をもアメリカの完全勝利で終わらせることに成功した。
ソ連共産党政権は1991年12月に崩壊し、東西冷戦が完全に終結したのだった。
この間、日本は国際協力への異端を発揮した。
アメリカの政府も議会も多国籍軍への日本の参加を切望した。日本はペルシャ湾岸からの石油に依存する度合いが飛びぬけて高かった。日本の船舶多数がクウェート近くで脅威にさらされていた。しかも日本はアメリカの同盟国だった。だからこの際、日本もイラクの侵略を抑える多国籍軍になんらかの要員を派遣してほしいという米側の期待だった。
ブッシュ大統領は海部俊樹首相に「日本が多国籍軍に協力するか否かは今後の日本が責任ある大国になるかどうかの分岐点になる」と警告した。
写真)海部俊樹元首相
出典)首相官邸
だが日本は軍事の効用を否定する憲法を理由に一切の人的寄与を拒む結果となった。130億ドルの資金だけを提供したが、「小切手外交」と揶揄された。
私自身がそれまで日本には好意的な言葉だけを聞いていたジョン・マケイン上院議員までが「自国を守る国際安全保障のためにも危険は一切、冒さないという日本の態度は全世界の軽蔑と米国の敵対を買いかねない」とまで断言したのにはショックを受けたのだった。
中東も欧州もこの第一次湾岸戦争以来、一応の安定が続いた。アメリカは唯一の超大国として平和の保持の責任を担った。だがこの世界の平和と安定も、それからちょうど10年後の2001年9月には衝撃的な形で崩されることとなる。
アメリカに対する同時多発テロだった。中東を拠点とするイスラム過激派の犯行だった。
そしてそのテロはやがては新たな湾岸戦争へとエスカレートしていった。
こんな世界の近代史を自分自身の体験とともにこの8月はじめにはつい回想させられることとなった。
トップ写真)「砂漠の嵐」作戦下、炎上する油田地帯 クウェート
出典) U.S.Army,Jonas Jordan, United States Army Corps of Engineers