19年前の墜落事故現場にて
柏原雅弘(ニューヨーク在住フリービデオグラファー)
【まとめ】
・19年前起きた墜落事故の追悼集会を報じる小さな記事。
・911テロに続いた悲劇。再び現場を訪れた。
・犠牲者の名前を刻んだ石碑にはドミニカ詩人の言葉が。
アメリカ大統領選挙は終わったものの、予想されたことではあったが結果を敗北と認めないトランプ大統領をめぐる報道が連日、これでもか、という勢いでなお続いている。
加えて、11月に入り、全米の新型コロナの感染増加が春以来の危機的状況で、この2つの報道が連日メディアを賑わせている。
それらの報道の影で、11月12日にごく小規模の集会がニューヨークの片隅で開かれたことが報じられたが扱いも小さかった。
2001年のこの日。
子供も含む乗客乗員260人を乗せたアメリカン航空587便は、ニューヨーク・ジョン・F・ケネディ国際空港を離陸の5分後、墜落した。墜落した場所は空港の数キロ先の住宅街で、地上にいた5人の住民も巻き添えとなり、アメリカの航空機事故史上2番めの規模となる大惨事となった。飛行機の貨物室にいた犬1匹、地上の住宅で飼われていた犬1匹も犠牲となった。
その日、私はその墜落現場にいた。
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この年の9月11日に発生した同時多発テロの取材で、私は10月から日本のテレビ局の報道カメラマンとしてワシントンDCに出張していた。
この日はなんとなくぼんやりした曇り空だったと記憶している。
911テロの取材が長く続き、スタッフの間にテロ関連の取材には疲れの空気が流れ始めていた矢先であった。
この朝飛び込んできた飛行機墜落のニュースは、誰もが再び起きたテロだと信ずるに十分なタイミングであり、場の空気が途端に緊張した。しばし離れていたニューヨークで起きた惨事になすすべもないと思い呆然としたのもつかの間、この先どう展開するかわからないので、すぐにニューヨーク取材の支援に回れ、との指令が出た。
だが、9月11日の日に地下鉄や道路・トンネルの閉鎖が行われたのと同様、ふたたび同じ措置が取られ、ワシントンDCからニューヨークへ向かうのは不可能に思われたが、理由がわからないが、唯一、長距離列車だけは運行されていたのであった。
そしてニューヨークに向かうため列車に乗り込んだが、乗っている間は緊張が解けず、とにかく無事に、ニューヨークに早く着きたい思いでいっぱいであった。
ニューヨークに到着後、多くの道路も封鎖されていたため、墜落事故が起きてから6時間以上経ってからようやく他のスタッフと合流、現場に到着した。すでに鎮火し、非常線が張られた現場では墜落した場所そのものは見えなかったが強烈なガソリンか、灯油のような匂いが充満していた。誰ともなく、絶対タバコ吸うな!と叫んでいたのを思い出す。
現場で仕入れた情報では、飛行機はエンジンが脱落し、そのエンジンがガソリンスタンドに落下、スタンドが炎上したとのことであった。ガソリン臭は破壊されたそのガソリンスタンドから流れ出ているもの、との話もあった。あたりは住宅地で、飛行機はそのど真ん中に墜落したのは一目瞭然であった。
587便は先に飛んだジャンボ機の後方乱気流の影響で離陸してから4分で激しい振動に見舞われ、その5秒後に強烈な衝撃が起き、それから30秒後に木の葉がひらひらと舞い落ちるような形で地面に水平に近い状態で墜落した。
墜落する様は多くの地上の人々に目撃されていた。目撃からは、垂直尾翼がちぎれ、2つのエンジンが脱落し、白煙を吐きながら墜落していったことがわかった。私が嗅いだ、強烈な灯油臭はこの時、白煙となって住宅街一帯に撒き散らされた墜落機の航空燃料であった。
操縦士も含め、乗客乗員全員が、いったい何が起きているのか全く把握できないまま墜落していったのだろうと思う。
のちになって、墜落はテロなどによるものではなく、遭遇した後方乱気流に対応した副操縦士が、過剰な回避行動を取ったため垂直尾翼が破壊され、墜落したことが判明した。
私が現場に到着したのが11月の夕方だったこともあり、あたりはあっという間に暗くなり始めた。住宅街で暗くなってからの取材は時間が経っていたこともあり困難を極めた。むしろ、他のメディアを通じて入ってくる情報のほうが豊富で、現場に出向いたものの、ガキの使いよろしく、ほぼ手ぶらで現場を引き上げたあとから、私には事故取材に関する一切の記憶がない。
19年が過ぎた。
混沌とした世の中の情勢で皆の記憶から忘れ去られようとしているこの事故の追悼集会の記事を見て、事故から19年経った今、今、自分は何を思うか。再び現場を訪れてみる気になった。
現場はケネディ空港から直線で5~6キロの半島にある高級住宅街で、墜落現場は後ろに数百メートルでジャマイカ湾、前に数百メートルで大西洋、という位置で、たった1秒でも状況が違えば海に墜ちた可能性もある。そうなれば少なくとも地上の被害は避けられたことになるが、操縦不能であったことを考えればたらればを考えても意味がない。
19年前に私がいた場所は記憶がない。だが、墜落機(エアバスA300-600型機)のエンジンが落下して炎上した、と言われたガソリンスタンドはすぐに場所を特定できた。現場を訪れるにあたって調べている段階で、ガソリンスタンドは建物の屋根にエンジンが落下したのみで火災は免れたことを知り、まずは最初にそこへ行ってみようと思った。
現地に赴いてみると、ガソリンスタンドはすぐ見つかったが当時と同じ経営者によるガソリン・スタンドかどうかはわからない。多くの車があり、ガソリン・スタンドとして営業もしているようだったが車の修理工場のようであった。周囲にはいくつかのレストランが有り、ここはちょっとした商店街のようだ。当時の噂通り、巨大なエンジンが墜ちてきてここでガソリンに引火していたらさらなる大惨事が起きていたことは容易に想像がつく。
そこから歩いて2分あまり南に歩くと墜落現場の131丁目に着いた。周辺は大きな家が多く、一見して高級住宅街だ。
この角の4軒と、向かいと斜向いの5軒が587便の直撃を受け、大火災となった。いずれかの家にいた5人が地上の犠牲者となっているが、もちろん、当時から住んでいる人などいるわけがない。
角に近い街路樹の根元に事故を記す石碑があった。
「587便の悲劇で亡くなった方々を追悼して」と書いてある。
この日は事故から19年めの翌日、ということで、石碑には多くの花が供えてあった。
事故の日は現場の至ることろに遺体が散乱していたという。
明るい日差しの美しい住宅街を見渡してただただ唖然とする。
この記事用にビデオの撮影していると、工事の作業服を着た40代くらいの男性が何してるんだ?と話しかけてきた。
日本人だが、587便の取材をしてるんだ、と告げると、驚いた表情をして、この事故はそんなに日本で有名なのかい?と聞き返してくるので、いや、多分誰も覚えてないので自分が取材してるんだと答えると、
「ひどい事故だったよな。俺がその時ここにいたのか、って?いや、事故の日はロングアイランド(現場から東の郊外)にいたよ。よく覚えてるけどね。いや、ほんとにひどかったよ・・・・」
機材をしまってさらに現場でキョロキョロしていると私と同じくらいの年代の家族連れのお父さんが「バスを待ってるのかい?」と話しかけてきた。
事故のことを知らないふりをして現場を知ってるか?と聞いてみると、
「ああ、それはここだよ。そこに記念碑がある。その時いたかって?いや、ずっと後になってからここに引っ越してきたんだよ」と、言ったが、とりあえず事故のことについては知っているようで、現地では事故は風化していないようだった。
最後に石碑に向かって日本式に手を合わせて現場を後にしたが、献花用の花の一つも持ってこなかったことを今更ながら申し訳なく思った。
おとといの12日に追悼集会が行われた公園に向かう。
公園は墜落現場から徒歩で20分ほどの地元を象徴する場所に「587便メモリアルパーク」として2006年に建設された。公園の碑には犠牲者全員の名前が彫られ、碑の中心は、587便が目指していたドミニカ共和国の方向を向いている。
犠牲者の9割以上はドミニカ人か、ドミニカ系アメリカ人であった。
587便は、ニューヨークに住むドミニカ系の人々にとって特別な存在で「ドミニカに向かう誰もがこの便を一回は利用したことがある」と言われるものであった。この便に乗って故郷に戻ることは彼らにとって一種のステータスやあこがれであり、それについての歌まであるというのだ。
察するに、この事故はニューヨーク在住のドミニカ人ならば、犠牲になったのは自分、あるいは知り合いの誰かであってもおかしくなかったはずだ。その分、彼らの悲しみや、悲痛な思いは察して余りある。事故で犠牲になったのは自分であり、自分の家族であり、自分が大切に思う誰かであった。
追悼集会翌日で献花された多くの花がまだ残されていた。刻まれた犠牲者の名前の中には、子供も含む家族全員の名前のものや、貿易センタービルのレストランで働き、9月11日に命からがらテロの現場から逃げ出し九死に一生を得た人、空母エンタープライズ(CVN-65)の乗務員で、テロ戦争でアルカイダの拠点の爆撃作戦などを経て、11月10日にアメリカに戻ってきたばかりの軍人の名前もあった。
2001年の同時多発テロから19年。
故郷を目指しただけで、なんの落ち度もなくここで犠牲になった人々は、911テロの頃からは見れば冗談かと思えるほど変様してしまった19年後の今をどう見ているのだろうか。
追悼記念碑の上部にはスペイン語と英語でドミニカの詩人による言葉が記されている。
「Después no quiero más que paz / Afterwards I want nothing more than peace.」(そのあと、私は平和以外のなにものもほしくない)」
碑はニューヨークのきびしい冬を迎える前の、明るい大西洋の太陽に照らされている。
トップ写真:墜落現場からほど近い場所に建設された「フライト587記念公園」。追悼碑の中心は行き先のドミニカを向いている。19年目の追悼式典の翌々日で花が飾られていた。ニューヨーク・ロッカウェイ。2020年11月14日 著者撮影。
【訂正: 2020年11月19日】
写真一枚目の説明文中、表記に誤りがあったため、お詫びして以下のよう訂正いたします。
誤:8年後に近くの海中から見つかったアメリカン航空587便の期待の一部。
正:8年後に近くの海中から見つかったアメリカン航空587便の機体の一部。
【訂正:2020年11月23日】
誤:8年後に近くの海中から見つかったアメリカン航空587便の機体の一部。
正:2011年11月12日近くの海中から見つかったアメリカン航空587便の機体の一部。
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この記事を書いた人
柏原雅弘ニューヨーク在住フリービデオグラファー
1962年東京生まれ。業務映画制作会社撮影部勤務の後、1989年渡米。日系プロダクション勤務後、1997年に独立。以降フリー。在京各局のバラエティー番組の撮影からスポーツの中継、ニュース、ドキュメンタリーの撮影をこなす。小学生の男児と2歳の女児がいる。