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.社会  投稿日:2021/3/1

見方と見せ方は程度問題(下)スポーツとモラル 最終回


林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

【まとめ】

・井岡一翔の左腕タトゥー、試合中にはっきり見えたことが問題視。

・JBCから厳重注意。

・アスリートの躍動する肉体はそれだけで魅力的、飾る必要なし。

 

林真理子さんが『週刊文春』の連載エッセイで(遅ればせながら、連載最長記録のギネス認定、おめでとうございます!)、お相撲さんの鍛え抜いた体は本当に美しい、と述べていた。私は「超手ごわそうなデブ」としか思ったことがない。前回私が賞賛したのは「女性アスリートの」健康美で、やはり同姓でも異性だと、見方がまるで違ってくるようだ。

さて、本題。

昨年の大晦日に行われたWBO世界スーパーフライ級タイトルマッチをめぐって、試合内容とは直接関係のない論争が起きた。

すでに大きく報じられたことなので、ここでは概略のみ紹介させていただくが、チャンピオン井岡一翔が8回TKO勝ちで王座防衛に成功したのだが、彼が左腕に彫っているタトゥーがはっきり見えていたことが問題視されたのである。

JBC(日本ボクシングコミッション)は公式ルールにおいて、

「入れ墨など観客に不快の念を与える風体の者は試合に出場することができない」

と定めている。井岡選手もファンデーションで隠してリングに上がったのだが、塗り方が甘かったのか、材質に問題があったのか、汗で流れ落ちてしまったものらしい。つまり結果的にはルール違反となってしまったが、本人の過失度はいたって軽いはずだ。

しかしJBCは試合直後に「明らかにルール違反。処分を検討する」と発表し、実際に彼と所属ジムに対して厳重注意処分を科したのである。

これに対して、主として若い人たちの間からは、

「ルール自体が時代遅れなのではないか」

という声が上がり、一方アスリートたちからは、

「やはりルールは守らないと。海外ではOKだと言うなら、試合も海外でやればよい」

「チャンピオンは皆に尊敬されるべき存在。日本では入れ墨は反社会勢力を連想させるのだから、やはりアウトだろう」

という声の方が多く聞かれた。

どちらの意見にも、それぞれ傾聴すべき点はあるのだが、なにごとかを論じるには「そもそも論」から始めるのが常道なので、まず、どうしてJBCがタトゥーに対してそこまで厳しい態度をとるのか、という点から見て行こう。

前述のように、日本では入れ墨はヤクザの象徴のように思われており、また、江戸時代には流刑に処せられた罪人に証拠の入れ墨をする例もあった。ちなみに、日本的な絵や文字を彫った場合は入れ墨、外国風のそれを彫った場合はタトゥーと呼ぶことが多いだけで、両者に違いはない。

つまりJBCが忌み嫌っているのは、ボクシングとヤクザがイメージ的に結びつけられてしまうことで、裏を返せば、ボクシングに限らず戦後日本のプロスポーツが、ヤクザとずぶずぶの関係にあったという歴史のせいなのである。

ボクシング以外の例を先に挙げると、1950(昭和25)年に広島カープが結成された際、鯉城後援会(りじょうこうえんかい)という私設応援団が旗揚げされた。その会長は打越信夫という人物。

タクシー会社を経営する実業家だったが、広島市を拠点とする暴力団・岡組の幹部で、後には打越組を旗揚げする、れっきとしたヤクザでもあった。戦後の混乱期に、こうした存在は珍しいことではない。後には岡組の跡目相続をめぐって呉市を拠点とする山村組と抗争になり、多数の死傷者を出した。1973年に公開された『仁義なき戦い代理戦争』という映画では、彼をモデルにした内本という親分が登場し、加藤武(故人)が演じた。

広島は怖いとこじゃ、で済まされる話ではない。横浜ベイスターズの前身であった大洋ホエールズなど、当時の本拠地だった川崎市で勢力を持っていた稲川会と「親善試合」を行ったことまである。

ボクシングもこうした例に漏れなかったわけで、とりわけ興行面でヤクザとの結びつきが深く、リングサイド席がその筋の人間で占められていることも珍しくなかったし、また多くの組がボクサー崩れの構成員を抱えていた。

なにしろ元世界チャンピオンが、極心連合会という山口組の二次団体(2019年に解散)の相談役になっていた例まである。あの島田紳助氏が芸能界引退に追い込まれたのも、この組織との「黒い交際」が取り沙汰された結果であった。

こうした背景を知ったならば、ボクシング界が入れ墨を断じて認めようとしないのも、理解できないことではない。もう一度「そもそも論」を言うなら、ヤクザが入れ墨をするのは、もう堅気の世界には戻れない、という決意を示すためだと聞く。彫る際には激痛を伴い、それに耐えるのがヤクザの性根だということで「ガマン(我慢)」とも呼ぶそうだ。

倶利伽羅紋々とも言うが、これは本来、不動明王の姿のことで、特に人気のある絵柄であったことから一般名詞化したものと考えられている。

海外ではタトゥーは普通だ、という声も聞かれるが、それは地域によりけりだし、どこの国でもインテリと目される人たちは、まずやらない。

一方オセアニアや南洋諸島では古来、成人した証としてタトゥーを彫る人が多い。タトゥーの語源はサモア語の「タタウ」だという説まであるほどだ。紋章の意味だとか。

しかしながら、2019年にラグビーW杯が日本で開催された際、そうした国々の選手たちが、日本滞在中はタトゥーを隠していたということも、記憶にとどめられるべきだろう。各国の連盟が、強制ではないとしながらも、

「日本ではタトゥーは偏見の対象となる。歴史的に犯罪集団であるYAKUZAの象徴とされてきたからだ」

として、サポーターその他で隠すことを奨励したのである。

▲写真 休憩中にユニフォームを脱ぎタトゥーが露わになった英・プロラグビーリーグフットボール選手のサム・トムキンス 出典:Tim Clayton/Corbis via Getty Images

だから、今回の井岡選手の騒動にしても、JBCはあまり居丈高にならず、

「次から、ちゃんと隠して下さいね」

程度で済ませておいたなら、なんの問題もなかったのではないかと、私は考える。

ただ、それでは「ルールが時代遅れなのではないか」といった議論が盛り上がることもなかったであろう。これは推測だが、若い人たちの間でその意見を支持する声が多かったのは、髪型や靴下の色にはじまって、下着は白と定めるような「ブラック校則」の問題が取り沙汰されていたので、同列に見なされたのかも知れない。

さらに言えば、JBCの対応もたいがいだが、井岡選手もいささか挑戦的な態度であったことも、また事実である。

ルールが時代遅れだと言うなら、まずはその改正を訴えるのが筋で、ルールを承知しながらタトゥーを誇示するのは、制服のズボンをわざとずり下げた「腰パン」が格好いいと思っている、出来の良くない中高生とあまり変わらないのではないか。

真面目な話、鍛えぬいた肉体に自信が持てるのであれば、ことさらタトゥーを彫る必要もないのでは、と思えてならないのだ。個人の自由だと言われるかも知れないが、少なくとも私は(これも個人の自由なので言わせていただくが)、アスリートが人々に見せるべきは躍動する肉体そのもので、タトゥーで飾るなど余計なことだという意見を変えるつもりはない。

(このシリーズ全5回。,,,

トップ画像:2020年12月31日開催・WBO世界スーパーフライ級タイトルマッチで王座防衛し、ガッツポーズをする井岡選手 出典:Toru Hanai/Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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