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.社会  投稿日:2021/7/22

映画から見えた「この国のかたち」忘れ得ぬ一節、一場面 その2


林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

【まとめ】

映画二百三高地』。日露戦争開戦をめぐる料亭での会談が圧巻。

・日露戦争の実質的勝利が、昭和の軍人たちの「根拠のない自信」に。

・戦略なき開戦に踏み切った昭和の軍人たち。彼らと同様の歴史観にとどまるべきではない。

 

前に、新型コロナ禍の中、東京オリンピック・パラリンピックはリスクを冒してでも開催する、という東京都と日本政府の動きを、対米開戦に踏み切った当時の日本と二重写しにした。(編集部注:林信吾「開戦も開催も大義名分なし「コロナ敗戦」もはや不可避か その3」)歴史・戦史について多少の知識を蓄えてきた者の目には、そのように映るのだ。

ただ、日本という国は昔からそのように無謀であった、などという歴史観には、私は立っていない。米国側に、戦争を避けようという意志がなかったことも、きちんと指摘した。

とは言え、昭和の日本軍というものが、それまで敗戦を知らなかったばかりか、日清・日露と、大国相手の戦争で凱歌を挙げたという「成功体験」にとりつかれていて、まっとうな戦略というものを立てないまま火蓋を切ってしまったということは、歴史的事実として真摯に受け止めねばならないだろう。

▲写真 東京オリンピック2020 出典:Photo by Carl Court/Getty Images

さて、本題。

戦争映画はこれまでずいぶん見てきたが、決して戦争を賛美しているわけでもなければ、まして軍隊に入りたいなどと考えたこともない。ヤクザ映画も結構見たが、暴力団に加わりたいなどと思ったことがないのと、似たり寄ったりの事柄である。

いや、これは真面目な話で、人間同士が死力を尽くして戦う姿は、いかに理不尽であろうとも、そこには人の心を打つドラマが生まれがちなのだ。戦争映画の場合、しばしば戦闘シーンばかりが話題になるけれども、私は戦場という極限状況に置かれた人間ドラマを見ることを楽しみにしている。

『二百三高地』という映画がある。公開は1980年。日露戦争における最大の激戦であった、旅順要塞攻略戦を描いたものだが、戦闘シーンよりも、伊藤博文(枢密院議長)と児玉源太郎(陸軍参謀本部次長・中将)が料亭で会談する一幕が圧巻だった。

▲写真 伊藤博文 出典:Photo by The Print Collector/Getty Images

伊藤を演じたのは森繁久彌。そして児玉を演じたのは丹波哲郎。昭和を代表する名優二人の演技は、見事とか迫力満点などという表現ではおさまりがつかない。入神の域とはこのこと。まずは伊藤が、腹蔵のない意見を聞きたい、と前置きして、

「一体我が国は、この戦争に勝てるんか」

と問いかける。児玉は、遠くを見るような目つきで淡々と、

「勝算はありません。まず五分五分。死力を尽くして六分四分」

と答える。これは有名な言葉だが、児玉は言下に、

「しかし……やるなら今です」

と言葉をつなぐ。その理由は、

「むこう両三年の間、現状に甘んじて推移するとすれば、シベリアの鉄道は複線化され、ロシア本国にいる正規軍100万は、たちどころに満州、朝鮮に殺到することとなりますぞ。そうなってからでは、もはや戦(いくさ)にも勝負にもなりますまい」

だからこそ、ともかくも敵地に踏み込んで引き分けに持ち込み、あとは国際世論の力でロシアの侵略行為に掣肘を加える。それだけが日本が生き残る道だ、と児玉は説く。

▲写真 児玉源太郎 出典:Ann Ronan Pictures/Print Collector/Getty Images

これが明治と昭和の違いなのか、と考えざるを得なかった。当時、世界最強の呼び声高かったロシア帝国の軍隊を向こうに回して、勝利など望むべくもない。伊藤が最後まで開戦に消極的だったのは、当時の日本が小さく貧しい国であったことを、よく知っていたからである。

しかし、別の側面も描かれていた。児玉の鬼気迫る説得に押し切られ、涙目でうなずいた伊藤だったが、ぱんぱん、と手を叩くと襖が開き、芸者衆が入ってくる。

「こんばんわぁー」

と無駄に愛嬌のある声を挙げながら。

文明開化などと言いつつ、いつの世も「この国のかたち」は、こんな風に料亭で決められてきたということか、などと思った。

前線に送られる兵士たちの姿も、それぞれよく描かれていた。

あおい輝彦(ちなみに初代ジャニーズのメンバーである笑)が、なかなかよい味を出していた。金沢の小学校教師で、トルストイに傾倒するあまり、年に何度か神田のニコライ堂までロシア語を習いに来るというインテリだが、応召して小隊長となる古賀少尉、というのが役どころだ。

ここは少々、解説が必要だろう。

まず、大日本帝国憲法においては、臣民(国家は天皇のものなので、国民ではなく臣民と称された)の義務として兵役があり、法令によって満20歳から40歳までの男子は、徴兵検査を受けて軍隊に入らなければならなかった。

もっとも一般的な兵役である陸軍歩兵の場合、現役三年、その後四年間は予備役に編入されることになっていたが、これはタテマエで、戦争がない時期はもっと早く娑婆に戻れたようだ。予備役に編入された者は、どのような職業につこうと干渉されないが、開戦不可避となったら軍隊に呼び戻された。これがつまり応召である。

また、旧制中学や師範学校を卒業した者は、これもタテマエ上は「志願兵」として一年だけ軍務に服し、その後、試験を受けて合格すれば少尉に任官された。合格できなければ曹長どまりだが、まず落ちることはなかったらしい。

彼が指揮する小隊も、戦時編成ということで応召兵の比率が高い。豆腐屋の丁稚奉公をしていた貧しい若者や、入れ墨をしたテキヤ、幇間をしていたという者、妻に先立たれ、子供を残して応召してきた者……職業軍人たちからは、

「青びょうたんとダラ(愚か者)ばかり集めやがって」

などと見下されるが、なんと彼らが一番乗りを果たすのである。もちろん、全員無事に凱旋することなど望むべくもなく、一人、また一人と命を落とす。ロシア人を敬愛している、と言ってはばからなかった古賀少尉が、部下たちの悲惨な死にざまを見て、

「ロシア人はすべて自分の敵であります」

などと口走るシーンもまた、鬼気迫るものがあった。

▲写真 日本海海戦(1905年5月27日~28日) 出典:Hulton Archive/Getty Images

どうしてそこまで兵の犠牲が大きかったかと言えば、ロシアのバルチック艦隊が極東目指してすでに出港しており、これが旅順軍港にいる東洋艦隊と合流する前に要塞を攻め落として、湾内の艦隊を砲撃で始末してしまおう、という作戦だったから。

ここまでは合理的な作戦だとも評価し得るが、問題は具体的な戦闘指揮で、コンクリート製の防塁の内側に機関銃を並べて待ち受けるロシア軍に対し、繰り返し無謀な銃剣突撃を仕掛けては、死体の山を築いたのである。

司馬遼太郎も『坂の上の雲』の中で、この旅順攻防戦を描いているが、乃木希典(第三軍司令官・大将。映画では仲代達矢が好演した)ら司令部の無能・無責任ぶりを、弾劾するような筆致で描き、最後に「兵も死ぬであろう」と結んだ一節がある。

しかしながら、日露戦争は実質的な勝利(児玉が望んだ、戦勝に等しい講和)で終わったため、作戦や補給などにかかわる反省点は、うやむやになってしまったのである。

これが結局、昭和の軍人たちに「日本兵は世界一強い」という、いわば根拠のない自信を植えつけることとなり、どの段階で講和に持ち込むか、といった戦略を欠いたまま、対米開戦に至ったのである。

この映画を見て、旅順要塞に日章旗が翻るシーンにただただ感動した、で終わるようでは、昭和の軍人たちと同様の歴史観しか持つことができないのではないだろうか。

その1

トップ画像:日露戦争戦勝祝賀会(1905年、旅順)。乃木希典(中央)と将校たち。 出典:Photo by Burton Holmes/Archive Farms/Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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