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.社会  投稿日:2021/7/12

TOKYO1968(上)それでも五輪は開催された その4


林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

【まとめ】
・1968年1月、東京五輪マラソン銅メダリスト円谷幸吉選手が自ら命を絶ち、国民に大きな衝撃を与えた。

・メキシコシティ五輪ではサッカーで日本が銅メダルを獲得。

・当時国内では東大闘争への注目、経済の発展途上、サッカー自体の認知度の低さもあり今ほどには人々の関心が集まらなかった。

 

1968年は単純に「メキシコシティ五輪開催の年」として語ることはできないのだと、ここまで述べてきた。

しかしわが国では、五輪と深い関わりのある悲劇のニュースが、未だ正月気分も抜けきらぬ国民に大いなる衝撃を与えた。1月9日、1964年の東京五輪銅でマラソンの銅メダルに輝いた円谷幸吉選手(自衛隊体育学校)が、自ら命を絶ったのである。享年27。

直前まで当人は、メキシコシティ五輪における「銅メダル以上」を国民に約束すると、意気込みを語っていたのだが、もともと生真面目な人であったと言われ、他者にはうかがい知ることもできない、大きなプレッシャーを抱えていたようだ。将来を誓い合った女性がいたが、五輪終了までは結婚を認めない、と親族から言い渡され、最終的には破談になったとも伝えられる。

世間が特に衝撃を受けたのは、

「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」

という遺書の一節であったが、

「父上様、母上様、三日とろろおいしゅうございました」

で始まる一文は、その後多くの媒体で引用された。たとえば、高倉健が主演した『駅 STATION』(1981年公開)という映画では、主人公は五輪のピストル競技に参加する警察官、という設定になっているが、この円谷選手が自殺したとの報道に大いなる衝撃を受ける描写がある。その傷心を振り払うかのように、ランニングで汗を流すシーンのナレーションで、遺書が読み上げられるのだ。

この当時はまだ、夏季と冬季の五輪が同じ年に開催されており、2月6日にはフランスのグルノーブルで冬季五輪が開幕したが、18日までの期間中、日本人選手の入賞はゼロ。スキージャンプやフィギュアスケートで日本人選手が存在感を示すようになるのは、1970年代以降である。ただ、記録映画『白い恋人たち』は日本でもヒットし、後年のスキーブームの下地を作ったとも言われている。

メキシコシティ五輪では、サッカーで日本が銅メダルを獲得している。この記録は、未だ破られていない。地元(開催国)メキシコとの三位決定戦は、多くの日本人をTVに釘付けにしたが、日本代表の奮戦もさりながら、観客席に様々な楽器を持ち込み、

「ラララ・メヒコ、ラララ・メヒコ……」

と陽気に歌い続けるサポーターの姿に、こんな応援の仕方があったのか、と新鮮な感動を覚えたと記録されている。しかも必死で走り続け、かつフェアプレーに徹する日本代表の姿を見て、途中から「ラララ・ハポン(Japon 日本)」の歌声が混じるようになった。

▲写真 メキシコシティのオリンピックサッカースタジアム(1968年9月) 出典:Keystone-France/Gamma-Rapho via Getty Images

ちなみに、金メダルはハンガリー、銀メダルはブルガリアが獲得している。いずれも当時の東欧共産圏だ。この件については、今となっては少々解説が必要だろう。

五輪は言うまでもなくアマチュアの大会であったのだが、その構想が具体化した19世紀末には、社会主義・共産主義の国家が誕生することなど、想定されていなかった。

しかし、ソ連・東欧共産圏の体制下にあっては、プロのサッカークラブも「国営企業」であって、選手は皆「公務員」なので、西側諸国の基準ではアマチュアに分類されていたのである。この結果、ワールドカップに出てくるような「アマチュア」と本物のアマチュアが戦うことちなり、1960年代の五輪において、サッカーのメダルは東欧共産圏が独占するようになった。世にいうステートアマの問題だが、対応に苦慮したIOCは、1984年のロサンゼルス五輪から、プロの参加を認める方向に舵を切った切った。ところが、なんとFIFA(国際サッカー連盟)が、これをよしとしなかった。理由は簡単で、FIFAワールドカップこそが、サッカーの世界大会として唯一無二の存在でなければならなかったからである。

最終的に、両者の駆け引きの結果、プロの出場を認める代わりに、参加資格を23歳以下に限定することとなった。今も受け継がれているが、このような制限を課せられている種目はサッカーだけである。逆に言うと、そのような中で決勝進出を果たし、三位決定戦で地元メキシコを下して銅メダルに輝いたことは、たしかに歴史的快挙と言えるだろう。

しかしながら、これで日本のサッカー熱が盛り上がることもなかった。

サッカー自体、日本においては野球に比べてずっとマイナーなスポーツで認知度も高くなかった。米国でワールドカップが開かれた際(1994年)、現地の記者が、

「あの、ゴール前に引かれた白線(ペナルティーエリアのこと)は、どういう意味があるのか」

と英国人記者に尋ねて、唖然とさせたことがあるそうだが、当時の日本の視聴者も、似たり寄ったりではなかったかと思われる。

そもそもメキシコという国の認知度も、欧米に比べるとかなり低かった。シリーズの最初に述べた通り、1964年東京大会は、アジアで初めて開催された五輪、1968年メキシコシティは、中南米で初めての大会であったが、自国開催だった東京五輪ほどには盛り上がらなかったのは当然かも知れない。

とりわけ大学のキャンパスにおいては、五輪どころではない、という空気があった。

円谷選手の自死が報じられたのは、前述のように1月9日のことであったが、1月29日には、東大医学部において、ただでさえ評判の悪かったインターン制度を、研修医にとってさらに過酷な「登録医制度」に変えようという改革案に反対する学生が、無期限ストライキを宣言。これが世にいう東大闘争の始まりだが、7月2日には全学共闘会議(全共闘)の学生らが安田講堂を占拠・バリケード封鎖した。

翌年1月、大学側の要請により機動隊が強行突入。大学構内だけで600人以上の逮捕者を出したが、この「安田講堂攻防戦」は終日TV中継され、東京五輪にも匹敵する視聴率を得たと記録されている。

メキシコシティ五輪に話を戻すと、観客席で日の丸を掲げる人はいたが、大半が現地在住の日本人や日系人で、日本からわざわざやってきた観客など、ほとんどいなかった。

▲写真 中曽根康弘元首相 出典:Owen Franken/Corbis via Getty Images

高度経済成長期などと言われ、東京五輪開催に先駆けて、1964年4月には海外旅行も自由化されていた(外為規制が緩和された)が、まだまだ「発展途上」だった日本経済にとって、海外旅行客が増えることは外貨の流出を意味する、と見る向きも多かった。

げんに1968年2月23日には、閣議において当時の中曾根康弘運輸相が、「不要不急の海外渡航の自粛を求めるべき」と発言している。

新型コロナ禍はひとまず置いて、ワールドカップ観戦のための格安「弾丸ツアー」が汲まれる昨今のサッカー熱を思えば、隔世の感があるではないか。

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トップ写真:1964年東京五輪でのマラソン表彰式。銅メダルは日本の円谷幸吉選手。(東京 1964年10月23日) 出典:Keystone/Hulton Archive/Getty




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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