無料会員募集中
.国際  投稿日:2021/11/12

中国共産党100年史とアメリカ 最終回 敵対から和解、そしてまた対立へ


古森義久(ジャーナリスト・麗澤大学特別教授)

「古森義久の内外透視」

【まとめ】

・中国共産党軍に敗北し、アメリカでは共産主義者糾弾の動きが生まれた

・電撃訪問で国交樹立に方向転換して7年後、正式に合意した。

・中国共産党の創立から100年の今年、明確に真っ向から対立し、再び対決することとなった

 

アメリカ政府のこうした中国共産党敵視は1950年からの朝鮮戦争でさらに激しくなった。中国の大部隊が北朝鮮軍を支援して参戦し、アメリカ軍との激戦を展開したのだ。

この事態にアメリカ国政の場では「だれが中国を失ったのか」という糾弾の議論が起きた。中国の内戦で当初は圧倒的に優勢だった国民党軍がアメリカの背後での支援にもかかわらず共産党軍に負けたのはなぜか、だれの責任なのか、という追及だった。

この追及は連邦議会で1940年代後半から50年代にかけて起きた共産主義者糾弾の動きと結びついていた。下院での非米活動委員会による共産主義秘密活動の調査や、上院でのジョセフ・マッカーシー議員による「赤狩り」とも称された共産主義シンパ糾弾だった。

この追及の矢は延安の中国共産党本部を訪れた前述のジョン・サービス、ジョン・デービス、ジョン・エマーソンにも向けられた。

この3人は中国共産党と親しい「3人のジョン」とも呼ばれた。そのうちサービスとデービスは国務省からの解雇や刑事訴追という処分まで受けた。

エマーソンも外交官として長い年月、日本をも含めて中国に近いアジア地域の担当から外された。1960年代に日本駐在公使となったのは10数年ぶりの懲罰の解除だった。

中国共産党首脳たちと親しく懇談したことが罪となったのだ。中国共産党とアメリカとの関係が協調から衝突へと大逆転したからである。歴史の奔流にもてあそばれた人間の悲劇ということだろうか。

アメリカと中国の対立はその後も険しいまま続いた。だがまた逆転が起きた。

1972年にはリチャード・ニクソン大統領が電撃的な中国訪問を果たし、中国共産党政権との敵対関係を止めて、国交樹立へと向かうことに合意したのだ。

この際のニクソンと毛沢東、周恩来との会談では延安へのディキシー使節団訪問についても双方からの好意的な基調での言及があったという。「3人のジョン」の言動も罪ではなかったという認定だったともいえよう。

アメリカが実際に中華人民共和国との国交を樹立したのはそれから7年後の1979年1月1日だった。ジミー・カーター大統領と鄧小平副首相による正式合意だった。

ワシントンでのこの合意も私はホワイトハウスでの取材の機会を得て、その歴史的な新展開を目前にみた。

この当時の中国共産党政権にとってはアメリカはソ連との対立への抑止戦略としても、国内の経済発展のためにも、ノドから手の出るほど欲しい連携の相手だった。

さらにまたその後、米中国交樹立からバラク・オバマ政権の末期の2016年ごろまでの40年弱の期間はアメリカ側は中国との関与政策を基調とした。

まだ弱く貧しい中国がより強く、より豊かになるように支援すれば、中国はアメリカ主導の国際秩序に責任ある一員として参加してくるだろう、国内的にも独裁から民主主義への志向をみせるだろう。ソ連への牽制ともなるだろう。そんな期待に立脚したのが対中関与政策だった。

アメリカの対中国交樹立後の歴代政権、つまりカーター、レーガン、先代ブッシュ、クリントン、二代目ブッシュ、オバマ各政権のいずれもが中国に対しては警戒をしながらも、協調や支援を基礎とする関与の政策をとったのだった。

中国にとってもまさに望むところの政策だった。

ところが中国共産党はそのアメリカの期待に外れる言動を明確にとり始めた。オバマ政権の末期、2015年ごろからの習近平主導下の共産党政権はアメリカに公然と挑戦するような動きをつぎつぎにとってきたのだ。

習近平政権の動きはあたかもアメリカの関与政策によって中国はもう十分に強くも、豊かにもなったから、それまで隠していた本音の戦略を実行に移すのだ、とでもいうような態度だった。

1970年代末に改革開放に踏み切った鄧小平が述べた「韜光養晦(能力を隠して時間を稼ぐ)」という格言のとおりの長期戦略なのだろうか。

アメリカ側はトランプ政権になって、それまでの中国への関与政策を完全に否定した。関与は間違いだったと宣言した。その理由はこの論文の冒頭でも指摘した中国側の無法、無謀な行動だった。

▲写真 トランプ大統領と習近平国家主席(2017年11月9日) 出典:Photo by Thomas Peter-Pool/Getty Images

そして中国共産党の創立から100年の2021年7月、バイデン政権下のアメリカも中国とは明確に正面から対立する、という現状になったのである。

だがその100年の米中関係は蜜月から共闘、そして衝突、さらに一転して和解、協調、またまた逆転して対決と、複雑多岐な変転をたどってきたのだ。

(終わり)

**この記事は日本戦略研究フォーラム季報2021年10月号に掲載された古森義久氏の論文の転載です。

トップ画像:ニクソンと周恩来(1972年2月1日) 出典:​​Photo by © CORBIS/Corbis via Getty Images




この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授

産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

古森義久

copyright2014-"ABE,Inc. 2014 All rights reserved.No reproduction or republication without written permission."