ロシアが突きつける核の脅威 その1 バイデン政権の沈黙
古森義久(ジャーナリスト・麗澤大学特別教授)
「古森義久の内外透視」
【まとめ】
・第二次世界大戦後の安全保障の概念を根本から覆すロシアによる核の恫喝。
・アメリカの核のカサの保護下にある日本にとって、アメリカの動向が非常に重要である。
・バイデン政権としてのロシアに対する公式な非難や警告の声明は発せられなかった。
ウクライナ戦争が広げた衝撃波の一つはロシアによる核兵器使用の示唆だった。核の恫喝ともいえる。しかも核兵器を持たないウクライナに対して同国内に限定された小規模の地域戦争でも場合によっては核兵器を使う用意がある、とプーチン大統領は言明したのだ。
第二次大戦後の80年近い世界の歴史でも初めての核超大国による正面からの核兵器使用の威嚇だった。だがもう一つの核超大国アメリカの政府はこの重大事態に沈黙したままだった。アメリカにとっての友好国のウクライナに対してロシアが核兵器を使う準備があるぞ、と威迫したのである。
だが、アメリカのバイデン政権は対抗や抑止のための反応をなにもみせていない。こんな危険な事態をどう受け止めるべきか。とくにアメリカの拡大核抑止、つまり核のカサの保護下にあるとされる日本にとって核の抑止や脅威の面でのアメリカの動向は超重要である。
そのあたりの核をめぐる情勢の報告と論考を試みた。
全世界が震えた!
こんな表現も決して誇張ではないだろう。
すでに世界を揺るがせたロシアのウクライナ攻撃で核兵器までが使われるかもしれない、というのだ。文字どおりの世界にとっての恐怖だといえよう。いや脅迫と呼ぶほうが正確だろう。
ロシアのプーチン大統領が2022年2月末、ウクライナへの軍事侵略の過程で核兵器を使用することもあるという意図を表明した。アメリカをはじめ全世界を震撼させる言明だった。ウクライナで核戦争が起きるかもしれない、というのだ。
プーチン大統領のこの核威迫は、言明だけでも戦後の国際秩序を支えてきた安全保障の概念を根幹から変えたといえよう。規模が限定された地域戦争でも一方的に核兵器を使うという戦術が打ち出されたからだ。
プーチン大統領は2月27日、ロシアの国防大臣と参謀総長に対してロシアの核抑止部隊を「特別の臨戦態勢」におくことを命令した。「核抑止部隊」とは核戦力の部隊のことである。
ロシア軍は2月24日にウクライナへの軍事侵略を開始していた。その3日後の「核抑止部隊の臨戦態勢」への配備はウクライナでの戦闘に核を使う可能性を示していた。プーチン大統領は自己の侵略的な野望を核兵器を使ってでも実現すると、全世界への威嚇をこめて宣言したわけだ。
ロシアは軍事弱小国のウクライナに一方的に軍事侵攻して、非核のその相手に核兵器を使う意図を宣言したのだ。これほど理不尽な軍事脅迫も近年の世界では他に実例がない。しかもロシアの軍隊はウクライナで民間の市民や施設を殺傷し、破壊している最中なのである。
国連のグテーレス事務総長はこのプーチン核言明を「背筋が凍る」と評して、「核戦争が考えられる可能性となった」と警告した。
アメリカでもプーチン宣言に対して電撃のような反発が広がった。軍事や核戦略に詳しい専門家たちの間であればあるほど、その反応は鋭く険しかった。
アメリカ議会も下院情報特別委員会などがこの課題を緊急にとりあげた。3月8日の同委員会の公聴会でバイデン政権の国家情報会議のアブリル・ヘインズ長官は「プーチンは当面、米欧側の介入を防ぐために核攻撃の威嚇を使っているようだが、現実の核戦争の可能性も真剣に考えねばならない」と証言した。
▲写真 アメリカの下院情報特別委員会の公聴会で発言するバイデン政権の国家情報会議のアブリル・ヘインズ長官(2022年3月8日アメリカ、ワシントンDC) 出典:Photo by Anna Moneymaker/Getty Images
アメリカ側全体としての当初の反応は当然ながら、プーチン大統領がウクライナでの戦闘で本当に核兵器を使う意図があるかどうかの究明だった。単なる空疎な恫喝なのか、それとも真剣に検討する現実の選択肢の一つなのかの、みきわめでもあった。
アメリカの多数の官民の戦略問題専門家たちが公開の場でも熱のこもった議論を始めた。
その当初の議論の全体を総括するならば、「プーチンはウクライナで実際に核兵器を使用することはまずないだろうが、なおわからないし、場合によっては使うかもしれない」という骨子となる。その「わからない」という部分や「使うかもしれない」という部分が死活的な重みを持つことは当然である。
だが、バイデン政権としてのロシアに対する公式かつ対外的な非難や警告の声明は発せられなかった。核兵器の使用の可能性という非常に危険な事態への核戦略、核抑止という次元でのアメリカ政府の公式な対応がなかったのだ。
アメリカとロシアという核保有の大国同士での関係においてロシアの明白な核攻撃の恫喝に対して、アメリカ側は政府として正面から反発する抑止の言動はとらなかったのである。
(その2につづく。全5回)
**この記事は月刊雑誌「正論」2022年5月号の古森義久氏の論文「プーチンの『核宣言』と米欧のジレンマ」の転載です。
トップ写真:アメリカがウクライナに対して行なっている支援について演説を行うバイデン大統領(2022年3月16日アメリカ、ワシントンDC) 出典:Photo by Alex Wong/Getty Images
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この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授
産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。