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.政治  投稿日:2022/6/30

出雲大社「復活」の裏に“よそ者”と市役所 「高岡発ニッポン再興」その13


出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・全国屈指の神社である出雲大社は一時期廃れていたが、仕掛け人・田邊達也氏により参詣道は再興した。

・田邊氏らは情勢の分析を行い、若い女性客層に合わせてぜんざいを売り出し、街並みの統一ルールを制定した。

・出雲市も財政面から支援しており、地域住民と行政の二人三脚こそが地域再生につながるのだ。

 

私は故郷、高岡の中心商店街を歩きながら、思い出すのは、2年前に亡くなった妻との会話です。結婚直後の1992年12月のことでした。妻は、初めて私の実家を訪れた際に驚嘆していました。

「私の実家近辺は寂れているのに人通りも多く、都会だね」。確かに、私の実家は高岡市の中心部にあります。妻は羨ましそうでしたが、一緒に御旅屋通りや高岡大和を歩き、楽しんでいました。

妻の実家は島根県の旧大社町(現在は出雲市)です。出雲大社の境内から歩いて2、3分のところにあります。

出雲大社と言えば、全国屈指の神社ですが、廃れていました。旅館は次々廃業し、竹内まりやの実家である老舗旅館「竹野屋」ですらも青息吐息でした。

妻は結婚当初、地元局のアナウンサーでした。ある時、出雲大社近辺をいかに活性化するかというシンポジウムの司会を務めました。その際、出席した専門家は、ギリシャやローマなどを例に挙げ、「一度隆盛を極めた国や都市が復活することはない」と述べ、大社の先行きに厳しい見方を示したのです。

出雲大社の参詣道「神門通り」ができたのは、およそ100年前です。1912年の国鉄大社駅の開業を受けての整備でした。当時は、参拝客でごった返していました。しかし、1960年代になり状況が一変しました。クルマ社会が到来すると、参詣道は通過するだけの道路になったのです。

そして、50年ほど経ち、また、参詣道は蘇ったのです。2011年に247万人だった観光客は2013年には800万人を超えたのです。

2013年に平成の大遷宮を行い、全国から注目されたことが最大の要因ですが、私が気になったのは、店が急増していたことでした。しかも、どの店も、おしゃれな雰囲気に統一されている。小奇麗な店舗づくりは若い女性たちを引き寄せます。

神門通りは洒落たイメージに一新していました。一体何が起きたのか。調べてみると、仕掛け人が浮かび上がります。

田邊達也さんです。出雲大社のある大社町は人口1万6000人程度でしたが、2005年に「平成の大合併」で出雲市と合併しました。それをきっかけに、出雲市でホテルを経営している田邊さんは神門通りの再興を志したのです。大社町にとっては「よそ者」である田邊さんが語ります。

「出雲大社に昔から憧れ、神門通りを再び賑わいを取り戻したいと思いました」。そして仲間を誘って「神門通り蘇りの会」を作ったのです。

田邊さんらはまず情勢の分析を行いました。出雲大社境内の横に駐車場ができたため、参拝客は、車やバスで乗りつけ、滞在時間が極めて短くなったのです。田邊さんは独自に、観光客を数え、動向を調べました。改めて認識したのは、若い女性客の多さです。

「縁結びの神様ということもあり、若い女性が多く来ていた。彼女らは、何かおいしいモノを食べようとしていた」。

そこで新たな観光の「核」を探しました。たどり着いたのは、ぜんざいです。「東北大学の図書館でぜんざいの発祥の地は出雲だという文献を見つけたのです」。

その後、田邊さんは、「日本ぜんざい学会」を立ち上げ、神門通りに甘味処「日本ぜんざい学会壱号店」を出店しました。今では、神門通りの多くの食事処で、ぜんざいが売られており、若い女性に大人気です。

それでは、なぜ街並みが統一されたのでしょうか。出雲市市役所が、田邊さんたちの動きに、後方支援したのです。具体的には、2010年からワークショップを開き、専門家を交えと話し合いの場をもうけたのです。そこで、店舗の看板の大きさや色合い、それに外観の色彩などを統一するルールを作ったのです。

出雲市は財政面でも、支援しました。店舗の修繕費用について、200万円を限度に対象経費の3分の2を助成しました。2010年には景観がバラバラな店が22店でしたが、今では統一された店が80店に急増したのです。

観光客は例年250万人ほどでしたが、2013年には、800万人を超えました。コロナ前までは600万人ほどを維持しています。

私はたまたま遷宮があったからだと気軽に考えていたが、取材してみて、危機感を募らせて奮闘した男に感銘を受けました。

田邊さんは、日本で最も古い歴史を持ち、変化を最も好まない土地柄で「再生」を成し遂げたのです。そして、それには、出雲市役所も支援しました。地域住民と行政の二人三脚こそが、地域を再生させるのです。

写真:出雲大社の参詣道

出典)本人撮影

 

 

トップ写真:出雲大社 出典)本人撮影




この記事を書いた人
出町譲高岡市議会議員・作家

1964年富山県高岡市生まれ。

富山県立高岡高校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。


90年時事通信社入社。ニューヨーク特派員などを経て、2001年テレビ朝日入社。経済部で、内閣府や財界などを担当した。その後は、「報道ステーション」や「グッド!モーニング」など報道番組のデスクを務めた。


テレビ朝日に勤務しながら、11年の東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(2011年、文藝春秋)はベストセラーに。


その後も、『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(2013年、文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(2013年、幻冬舎)、『景気を仕掛けた男 「丸井」創業者・青井忠治』(2015年、幻冬舎)、『日本への遺言 地域再生の神様《豊重哲郎》が起した奇跡』(2017年、幻冬舎)『現場発! ニッポン再興』(2019年、晶文社)などを出版した。


21年1月 故郷高岡の再興を目指して帰郷。

同年7月 高岡市長選に出馬。19,445票の信任を得るも志叶わず。

同年10月 高岡市議会議員選挙に立候補し、候補者29人中2位で当選。8,656票の得票数は、トップ当選の嶋川武秀氏(11,604票)と共に高岡市議会議員選挙の最高得票数を上回った。

出町譲

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